OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

2012年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(37) 2012年は1日目終了後に一度船に戻りました。(1)

2013年04月03日 | 硫黄島・小笠原村
年明け更新を再開してから、漫然と、昨年の6月訪問した時に撮影した硫黄島の写真を、できるだけ撮影した順に紹介を続けてしまっておりますが、本来ですと、もっと、早い昨年中に、2011年までの時には紹介をしていなかった2012年ならではの写真、場面、エピソードを紹介しないといけないのに、ストーリー構成ができずに、このようなことになってしまっております。

2012年に初めての場所に行ったりとか、初めてできごとがあったいくつか内の一つが、2012年は1日目が終わった後に、硫黄島の宿泊施設である祈念館には泊まらずに、一度、小笠原丸に戻って、小笠原丸に宿泊して、翌日にまた上陸したということです。 このエピソードについては、少し長めに紹介したいと思います。

天候が良くて全く問題がない場合には、私たち島民関係者の一行は硫黄島の祈念館に宿泊します。一緒に硫黄島に行っている中学二年生の皆さんたちは、自衛隊施設の体育館に泊まります。
硫黄島に上陸させられるかどうかの判断は、小笠原丸船長の責任で下されます。重責で非常に難しく大変なご判断だと思います。上陸させるときの状況だけではなく、島から小笠原丸に無事に戻せるかどうか、次の日のことも考えて、決めなければいけないからです。極端な話では、初日が好天でも、翌日に低気圧や台風の接近があれば、上陸させることも危ぶまれたり、上陸させられるとしても、1日だけになってしまったりします。

また、宿泊施設の収容可能人数の問題もあります。2009年には、参加した人数が宿泊施設の祈念館のキャパシティを超えていたために、一部の人は、一度、小笠原丸に戻ってから翌日また上陸したということもありました。


それでなくても、港湾施設ではなく、海上に船を留まらせて、そこから艀のピストン輸送で上陸させたり船に戻したりというのは、他では例がない作業で、非常に難しいと聞いています。島にできるだけ近くてあの大きさの小笠原丸を無事に停泊させておける場所を見つけて進ませる操船技術は非常に難しい高いスキルが必要とされるものです。小笠原丸からはしけを下ろして、私たちが飛び移れるフローティングを設置してという大変な作業です。

一番、危険なのは、飛び乗るための船の後部の口とはしけが着いているフローティングとの高さがずれることです。たとえば、上下方向のそれぞれに50センチずつ船の方が上がったり下がったりすると1メートルの上下さが出ます。
これが海の波やうねりの影響を受けた小笠原丸の左右方向への揺れによって、船体左後部が上がったり下がったりになります。

このように、毎年、それはそれは大変で多くの方の力で実現している停泊、上陸場所への送迎ですが、2012年は例年に比べて、大変な要素が増えました。硫黄島の隆起によって、近海海底も上がっていて、これまで停泊してい場所には停泊できずに、少し違う場所に小笠原丸をつけたからです。

確かに、小笠原丸が停まった位置は、例年とは、島の海岸との角度が違っていました。いつもよりも、沈船群がある海岸と平行な位置で停泊していました。

1日目の朝の、島への上陸の時には、ほとんど、問題はありませんでした。私にとっては7回目になるので、慣れたものでした。それでもケガや事故はあってはならないので慎重に気をつけて、無事に上陸することができました。


この続きは次回にいたします。

写真は、1日目に、船に戻るときに、硫黄島の釜岩付近から撮影した小笠原丸です。
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