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OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

2012年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(38) 2012年は1日目終了後に一度船に戻りました。(2)

2013年04月04日 | 硫黄島・小笠原村
(前回からの続きです。)

一日目の午前は慰霊祭に出席、午後は、グループごとに出身への里帰りで、私たち元山のグループは硫黄ヶ丘に行ってから南海岸に寄ってもらってから、宿泊場所の祈念館に帰ってきました。他のグループのメンバーもそれぞれ、戻ってきていた時間です。
例年ですと夕食の準備やら洗濯とかもあるのですが、それまでの時間に、近くの硫黄島島唐辛子を採ったり、祈念館裏のレモングラスを採ったりしてみんな、過ごします。私は、戻るとまずランニングの服装に着替えて近くを走るようにしていて、その時間にも、島内を走っている自衛隊の人とすれ違ったりしながら、非常に暑いなか、走ります。本当は擂鉢山山頂まで往復をしたいのですが、往復の距離が14キロで擂鉢山までのアップダウンがあることと暑さを考えるとそこまでは行けません。

ちょうど、祈念館に着いたその時に無線が入りました。「天候、海の状況の悪化で、1日目のこれからの時間で小笠原丸に戻ることになるかもしれない。船長判断で決定する結果が届くので、どこにも行かず、速やかに移動できるようにして、待機するように。」との指示が届きました。その時点では、海はそれほど、荒れている様子でもないのですが、その後の時間にどうなるかを見込まないといけませんし、また、大きな波というよりも、小笠原丸の停泊地点のうねりの大きさが問題で、船が左右に揺れると、私たちは、艀からとびのったフローティング部分から小笠原丸の開口部分に飛び移れなくなります。

祈念館で、不安なまま待機していると、宿泊はせずに小笠原丸に戻るという連絡が入り、それぞれ戻る準備を始めました。いくつかのグループは既にバスにのって、釜岩付近の戻るために往復する艀に向かった頃になって、また、無線に連絡が入って、「小笠原丸の揺れが大きく、乗り移るための開口部から水が入ってしまったので、しばらく、待機。」という指示でした。この連絡を聞いた時には、さすがに不安になりました。

結果は、30分も待機をしていると、何とか揺れはおさまって船に我々を戻す作業が再開されたということで、私たちもバスで祈念館を出ました。釜岩付近のフローティングから艀に乗せてもらって小笠原丸に戻りましたが、波、うねりの具合によっては、小笠原丸の揺れが大きくなり、開口部が大きく上下したりするので、揺れが小さくなったタイミングで、艀から乗り移った船腹のフローティングから、開口部に飛び移って船に戻りました。全員を船に戻すのはかなりの緊迫感がある、それこそ一大プロジェクトでした。

小笠原海運の小笠原丸のスタッフの皆様をはじめ、多くの皆さんの、緊張感のある慎重で非常に大変なお仕事に支えられて、お年寄りも含む全員が小笠原丸に無事に戻ることができました。

開口部付近の船内には、一度、入った水をかき出したあとが濡れていて多くのタオルが敷かれていました。

その晩は本当でしたら、私たちは祈念館に宿泊して、差し入れていただいた新鮮な魚のお刺身などで懇親会でもある夕食を食べるはずでしたし、毎年恒例の自衛隊の方々による舞踊の熱演を見たりしてすごす予定でした。

残念でしたが、小笠原丸で、一泊をすることになりました。夜も翌朝も、うねりによる船の揺れが大きくなる時があって、船が大きく斜めに傾き、船窓から見える海面が近づいたり遠ざかったりの落差がかなりの大きさでした。港湾ではなく沖合いに停泊している船で揺られるという経験をするということ自体も非常に珍しいことだと思います。

二日目は、海の具合が回復すれば、また、硫黄島に上陸できるかもしれないとアナウンスされましたが、不安な一夜を過ごしました。


この写真は、私たちを小笠原丸に送り届けてふれた艀が往復する様子です。




海の面に向かって斜めに近づいたり逆に遠ざかる角度になったり、、、
コメント
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