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戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

硫黄島のがじゅまるの木の根元の話(2)

2007年11月11日 | 硫黄島・小笠原村
【「硫黄島のがじゅまるの木の根元の話」は、1996年の小笠原村主催の「硫黄島訪島事業(墓参)」開始より前に訪問した時のことを思い出して書いています。】

最初に硫黄島に行った時の、その日も、
昼食は厚生館でしたので、お弁当を出してもらったのだと
思います。

昼食後に、午後の行程に出発までに時間がありました。
各班ごとに集合して午後の島内視察への車が出発という
指示を受けて、昼の自由時間になりました。

班ごとに責任者がいました。
私の属した班の責任者は2005年に故人となった
母の兄弟の長男と伯父(以下、上の伯父)でした。
温和な人でしたが規律には厳しい人でもありました。

食事を終えて昼の自由時間。
まわりの皆さんを見ていると、
何やら、藪を進むような鎌などを持って、
数人グループで出かけていくところでした。

目当てはパパイヤ。

ちょうど、おいしく実る季節だったのだと思います。

厚生館から舗装道路を南に緩い坂を下りていくと、
島の南側を東西に走る舗装道路に出ます。

写真の地図の「神山海岸」「南波止場」の方面に向かって
降りて行ったあたりです。
その東西の道路より南には道路はありません。

そのあたりまで、降りてきた、パパイヤ採りに森に入ろうとしていた
人たちが、二つのグループになって、左右に分かれて別の海に向かって下っている
森を目指している様子でした。

その二グループが分かれた舗装道路の所まで、
母のすぐ上の兄、次男の伯父(以下、下の伯父)も一緒に
来ていました。
その下の伯父が私の名前を読んで、
「あっちの左の森を目指しているグループと一緒に行くと
いいと思うぞ。あの人たちは、よくこの島に来ていて詳しいようだから
良いパパイヤの実っている木も知っていそうだ。」と言いました。

私は、自分は森にまでは入ろうとしていない、下の伯父に向かって、
「分かった。あの人たちと一緒に、森に入ってくる。」と答えて、
その人たちのグループに着いて行かせていただくことにして、
最後尾で森に入って行きました。

初めての硫黄島なので、事情はほとんど、分かっていなかったのですが、
その時の墓参訪島にも、父島在住で、島の施設の維持や清掃に
または、遺骨収集などで、何度か硫黄島に来ていて詳しく知っていらっしゃる
方々もいらっしゃったのです。

初めてだった、私が知らなかったのは、どういう方々がどういう機会に
島に来ているのか、
どういう施設があるのかなどだけではなく、
硫黄島の自然が、分かっていませんでした。

上陸した1日目から、硫黄が吹き出ている様子などは見ていましたが、
硫黄島の森がどういう様子なのかは、さっぱり分かっていなかったのです。

私が最後尾についたグループは、やはり島に詳しい方々で、
入りにくいところは鎌、鉈で、枝を切り払って、上手に
森の中を進んで行きました。目当てのパパイヤの木がどこにあるのかを
明確に位置が分かっていて、進んでいることは、すぐに分かりました。

森に入って10分ほど進んだ頃だったでしょうか。
私が腕時計を見て、「ここから舗装道路まで戻る時間と
そこから厚生館まで戻る時間を考えると、ちょっと、
奥まで入りすぎているのではないだろうか?目当てのパパイヤの
木には、まだ着かないのだろうか?」

それでも進んでいく一行を導いて下さっている方に、
「まだ先なんでしょうか?集合時間は厳守ですから、
そろそろ戻り始めないと、間に合わなくなると思うのですが?」

(続く)

写真は厚生館の壁に掲げられている島道路地図です。
昨年9月の日帰り(入間基地から輸送機)訪島の時に撮影させて
いただきました。



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