硫黄島の摺鉢山の山頂にある、第一御楯特別攻撃隊と第二御楯特別攻撃隊の碑です。日米の非常に激しい上陸戦が展開されて日本軍が玉砕したことでは知られている硫黄島ですが、特攻隊が出撃した基地でもあったことは、あまり知られていないのが残念です。
鎮魂の丘で、Niconのデジカメの電池が切れたので、もう一つのPentaxのデジカメに切り換えたので、ここからは写真のサイズが変わります。時間も少し経過して、ここからは摺鉢山の山頂の写真になります。摺鉢山山頂からの海の写真です。
今年の硫黄島では、二日目の午後に、この鎮魂の丘を訪れていた時に、デジカメの電源がゼロになってしまって、ブーゲンビリアの写真は取れましたが、鎮魂の碑や、折口信夫(釈迢空)(養子にした折口春洋が硫黄島で戦死)の碑、鎮魂の丘からの摺鉢山などの写真を撮ることができませんでした。
硫黄島滞在の二日目の午後、釜場の次に行ったのは鎮魂の丘という慰霊碑のある場所です。この場所にも毎年来ています。鎮魂の丘の下には粟津壕という壕があります。
この鎮魂の丘にも、お花を用意してもらっていて、参加者全員が献花をします。
鎮魂の丘の入り口から上がったところには、この写真の弾痕が残っている碑があります。
この鎮魂の丘にも、お花を用意してもらっていて、参加者全員が献花をします。
鎮魂の丘の入り口から上がったところには、この写真の弾痕が残っている碑があります。
硫黄島の釜場のまわりにはかなり大きなオオタニワタリが生育しています。戦前の硫黄島では、このオオタニワタリを牛のえさにしていたそうです。人間も食べることができるようで、葉の中に何かを入れて包むようにするそうです。私はまだ食べたことはないのですが、肉厚な葉はアロエなどのような多肉植物のような味がするのかもしれません。小さなものを持ち帰って自宅でも栽培しています。
釜場にはいくつかの鉄製の大きな鍋が残されています。私が続けて慰霊墓参に参加するようになった13年ほど前の時からは、ゆっくりとではありますが、鍋の腐食が進んできていて、残されている状態が悪くなってきています。
米軍が上陸して戦闘が激化してからは、日本軍の将兵は地下の壕にこもって地上にはあまり出られなかったと聞いていますので、その時期には、もうこの釜場は使えなくなっていたのではないだろうかと思います。
18歳の従妹同士(私の母の従妹二人)や祖父のすぐ下の弟など、私の祖父や母の親戚の何人かも軍属として硫黄島に残って戦死しました。貨物廠の方に配属になっていたとは聞いていませんので、この釜場を使っていた204設営隊の方にいたのだと思います。どこが最期の場所であったのかは分かっていませんが、私たちは、この釜場を戦死した場所だと見立ててお参りをしています。
18歳の従妹同士(私の母の従妹二人)や祖父のすぐ下の弟など、私の祖父や母の親戚の何人かも軍属として硫黄島に残って戦死しました。貨物廠の方に配属になっていたとは聞いていませんので、この釜場を使っていた204設営隊の方にいたのだと思います。どこが最期の場所であったのかは分かっていませんが、私たちは、この釜場を戦死した場所だと見立ててお参りをしています。