時間のしずく time drops 

たいせつなもの。すきなこと。

4歳のわたしに教えられる

2024-08-01 | essay
ふと
奈良のコドモだった頃に自分が通っていた幼稚園のことを思い出して
初めて園名をネットで検索してみたら…
なんと、閉園となっていた。
しかもほんの昨年度末で。

ふしぎ。
よばれたかな。

1970年代初頭、昔々のお話。
伊丹から引っ越してきたばかりの奈良の団地での新しい暮らし。
姉は小学校に入学。
4歳になったばかりのわたしは初めての幼稚園に入園。

小高い丘の上にあった幼稚園への長い坂道をぼんやり覚えている。
母はだんだん大きくなるお腹を抱えてよっちらよっちらわたしの手を引いて坂を登っていたものだ。

わたしは昔の細々としたなんでもないようなことをよく覚えているほうなのだと思う。この頃とても人見知りだったわたしは、きっと黙って周りをよ〜く観察しているようなコドモだったのだろう。
担任の先生となんて臆してしまってまともに話せていなかったように思う。

ある時、園でお店屋さんごっこの行事があった。
わたしの組はやおやさん。
『いらっしゃい!いらっしゃい!』と声をあげて前へ前へと出るクラスメート達にいつの間にか弾き出され、みんなの背中の後ろで、新聞紙をガムテープで巻いて作ったじゃがいもを両手で大事に握りしめて立ちすくんでいた自分の姿が今でも脳裏に焼きついている。

そこでオトナになったわたしは考察してみる。

その光景が強くわたしのココロに焼きついたのは、その自分の姿よりもその時の担任の先生のわたしを見る憐れみを含んだ呆れたような表情にショックを受けたから、なのかもしれないということ。
黙っているコドモは感受性が人一倍強い。
先生はそんな面持ちでわたしを見つめた後、わたしの背中を押してお店屋さんごっこの最前列に押し出した。
人見知りのわたしがどんなに身の置きどころのない気持ちになったか…想像に容易い。

はずかしがりでいつもモジモジしているわたしを先生はきっとどうしたものか…と扱いあぐねていたのだろう。

とはいえ、当の本人ははずかしがりでも気の合う友だちとはたのしく遊んでいたし、そうは見えなくとも幼稚園がすきなコドモだったのだ。

年長さんに上る前に大阪への引っ越しで転園となったので、あの園の思い出は全て4歳児のわたしの記憶。

コドモは案外いろいろと考えているものなのだ。ただ小さいだけじゃない。
4歳のわたしがそれを教えてくれるから
現在のわたしは園の預かり保育の『せんせい』ではあるけれど、
必要な時には等身大のコドモ目線で園児をみる気持ちを保てている。ような気がしている。
わたしの中の小さいわたし、ありがとう〜

ぺらぺらおしゃべりおしゃまさんよりも無口な子のこころについ寄り添ってしまうのは、コドモ時代のジブンに似ているからなのだろうな。
なかなか打ち解けてくれない子も「あなたがすきだよ」というオーラで寄り添っているうちに少しずつその子のこころのドアが開いてくる。。。

小さい頃のことを憶えていようといまいと、どの瞬間もそれぞれの子の限りあるコドモ時間。
たいせつにたいせつに接していたいものだなぁ。。






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