人生は 五 七 五

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(by mother teresa)

ユングとフロイト

2006-02-06 02:03:33 | Weblog
今日も晴れ、そろそろお日様も強くなってきた模様、昨日よりも風が強くなく良い感じ。

今日は、フロイトとユングについて、フロイトにもユングにもそれなりに魅力があるのだが、自分のことを考えた時、人間について考えた時、自我と超自我とエスという構造を作った、フロイトに軍配が上がる、しかし、では、実際どうやってクライアントを治癒していくのかと考えた時、無意識を分析し、夢の建設的な利用法を考え出した、ユングの方に軍配が上がる。

だから、理論として、人間を考察していく上では、フロイト派に魅力を感じるが、実際に、クライアントと接した時に、どうしたら良いか考えるには、ユング派に魅力を感じる。特に、無意識を利用して治癒していくという点では、ユング派が無敵であろうと思う。

ユングは、人間について考えたと言うよりも、無意識の中身について、渾身的に分析していったと思う。だから彼の方では、自我とかなんとかは限りなく無意識を説明するために作ったもので、暫定的な要素が強いような気がする。タイプ論も色々悩んだが、一時は拘って自分がなんなのか知るために傾倒したが、ハッキリ言って余り有用なものでもないような気がする。それよりも、自我と超自我ですぱっと解析してしまった方がスッキリしていて良い。

実践のユング、理論のフロイトと言うことだろうか。何でそうなるかというと、フロイトは意識の中をうろうろしていたが、ユングは無意識の中を彷徨っていたからかもしれない。

自分でも、何か無意気というか、自分の内面に入って、訳の分からない領域みたいなものに触れていくと、段々、不明確で不明晰になっていくような気がする、更に、そう言う癒し系の曖昧な音楽と、曖昧な人の話を聞いていると、ますます影響されて、わんほわんとした、不明確で非合理的な世界に入っていく。ただ、そうやって訳の分からない世界に入って、再び意識の世界に戻ってくると、前とは違っているような気もする。

それで、フロイトは恐らくこのほわんほわんとした訳の分からない世界に入ることを拒否して、ユングは結構、入ることを好んで浮遊していたのではないのかと思う。で、このほわんほわんとした所に行き来することで、色々なものを発見したり、経験したりすることができると。でも、両者の死に方を見ていると、このほわんほわんとした所に行き来する方が、幸せな生き方ができるのかなと言う感じがする。

ちなみに、こう考えてみると、無意識を意識せずに意識の世界で臨床心理を遂行したロジャーズはどちらかと言うと、フロイトに近いのではないかという気がする。人間に対する考え方は、ユングに近いと言われているが、実際の彼のいた場所はどちらかと言うと、無意識に飲まれないような立場にいたように思われ、フロイトの方に近いのではと思う。

まあ、どっちでも良いんだけどね。大切なのは理論じゃないし、その理論も時代と場所で変わっていくし。理論に拘るのは余り意味がない。人や社会が変わればそれに伴って、理論も変わっていくし。無意識が可能性の宝庫だとすれば、それを鏡像して、照らし出している意識の世界は、時代によって変化するのが当たり前で、歴史の中で、人は色々な可能性を無意識の中にある可能性を意識化し経験しているとも思えるわけで、一つ一つそこを理論にしていけば、徐々に無意識は解明されていくかもしれないけど、解明されたものが現実の変化に応じて、適応できなくなるのなら、臨床心理という立場では、あんまり信用してはならないかな。理論無くても良いとか言った、ロジャーズに一理有りかな。

適当にまとめてみると、
フロイト、理論は良く分かるが治療法は良く分からん。
ユング、理論は良く分からんが治療法は無意識を彷徨う。
ロジャーズ、理論は無いが、治療法は、人間と人間の触れ合い。



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