西川町(現新潟市西川)曽根
元和4年(1618)牧野忠成の長岡移封と共に
、長岡藩の領地の組み分けで蒲原組が置かれ
同6年、6ヶ組のひとつに曽根組が設けられた
そして曽根組支配のための代官所が設置されたのがこの小学校
地内であった。
岩室甚句の
代官領や 代官領 〃 斛を出せ 代官領
(だいろやだいろ 〃 つのを出せ だいろ)
斛を出さぬと曽根の代官所へ 申し上げるが
如何 代官領
(いかだいろ)
と岩室甚句にうたわれたるが、藩の郡(こうり)奉行(郡方は配下で
江戸中期以降は25石~30石の藩士が1~3人勤務した時期により移動があるが
元禄15年(17002)58か村。寛政2年(1790年)50か村 文政13年(1830年)
57か村 安政5年(1858年)55か村 3050戸を統括した
往時をしのぶ 樫の木(町指定文化財 天然記念物)にちなんで 町の木は
『樫』となる、 平成2年11月西川町教育委員会 以上が説明文です
蝸牛ヤー 蝸牛 〃 〃
(だいろや- ) (だいろ はカタツムリのこと)岩室甚句の解説説明文もあり
ます。
西川通りは
北国街道の脇街道 で三国街道の地蔵堂 (分水町)粟生津 ~吉田
~和納 巻~曽根~内野 西川末流に沿って大野 坂井 平島 関屋
で浜通りの北国街道と結ぶ
岩室(いわむろ)古くから弥彦山と一対の湯治場で素朴な農民の慰安の
場所でもあった。 甚句は農民の気持ちを表現している。
おらがやー 若い時 弥彦詣りを したればなぁー
(ハ ヨシタヤ ヨシタヤ)
なじょが 見つけて お寄りなれと 言うたども
女房(かか)居たれば 返事がならぬ (ハ ヨシタヤ ヨシタヤ)
一部分紹介
元和4年(1618)牧野忠成の長岡移封と共に
、長岡藩の領地の組み分けで蒲原組が置かれ
同6年、6ヶ組のひとつに曽根組が設けられた
そして曽根組支配のための代官所が設置されたのがこの小学校
地内であった。
岩室甚句の
代官領や 代官領 〃 斛を出せ 代官領
(だいろやだいろ 〃 つのを出せ だいろ)
斛を出さぬと曽根の代官所へ 申し上げるが
如何 代官領
(いかだいろ)
と岩室甚句にうたわれたるが、藩の郡(こうり)奉行(郡方は配下で
江戸中期以降は25石~30石の藩士が1~3人勤務した時期により移動があるが
元禄15年(17002)58か村。寛政2年(1790年)50か村 文政13年(1830年)
57か村 安政5年(1858年)55か村 3050戸を統括した
往時をしのぶ 樫の木(町指定文化財 天然記念物)にちなんで 町の木は
『樫』となる、 平成2年11月西川町教育委員会 以上が説明文です
蝸牛ヤー 蝸牛 〃 〃
(だいろや- ) (だいろ はカタツムリのこと)岩室甚句の解説説明文もあり
ます。
西川通りは
北国街道の脇街道 で三国街道の地蔵堂 (分水町)粟生津 ~吉田
~和納 巻~曽根~内野 西川末流に沿って大野 坂井 平島 関屋
で浜通りの北国街道と結ぶ
岩室(いわむろ)古くから弥彦山と一対の湯治場で素朴な農民の慰安の
場所でもあった。 甚句は農民の気持ちを表現している。
おらがやー 若い時 弥彦詣りを したればなぁー
(ハ ヨシタヤ ヨシタヤ)
なじょが 見つけて お寄りなれと 言うたども
女房(かか)居たれば 返事がならぬ (ハ ヨシタヤ ヨシタヤ)
一部分紹介
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