好奇 高齢者 の呟き

地場産業や蒲原の風景 山 山野草 良寛歌碑、 史跡 旧北国街道を訪ねる、 また聞いたり話した、方言を紹介したい、 

良寛の師と生涯の知人 NO1

2007-02-02 00:05:40 | Weblog
大森子陽―――――良寛学んだ狭川塾の師
北越4大儒の1人とも言われた西蒲原地蔵堂の生まれ
江戸に出て滝 鶴台 (山口藩儒)細井平州(名古屋藩儒
のちに上杉鷹山に招聘された人)等に学び33歳で帰国
子陽は奥羽、鶴岡で54歳で没
玄乗破了
光照寺で剃髪18歳~
国仙和尚
22歳国仙について玉島円通寺へ
約10年間以上国仙和尚もとで修行 
印可の偈(悟り証明する漢詩)与えられた、
三輪左一
与板町三輪家(大阪屋)の第五代多仲長旧の三男で家業
の回船問屋、仏教に対する帰依心も強く良寛の法弟とも
親友で兄弟のような付き合い
6代の長高の娘 おしき が後の充徳院.維馨尼です

与板の町年寄り山田家(酒造業)杢左衛門に(おしき)嫁ぐ
夫が亡くなり
実家の戻り30歳で尼に
阿部定珍(さだよし)
国上から一番近い渡部で良寛を歌の師とし又友人とし
そして生活物資も沢山贈っている、代々酒造業庄屋
歌も一緒に詠み 万葉集にルビも若くして江戸に遊学
山田重翰(社皐(とこう  )
良寛のよい理解者で良寛の父の新木家のに2代に渡り
婿入りし維馨尼は兄嫁で
祖父は良寛の兄弟、
解良叔門(けらしゅくもん)
旧分水町牧が花の豪農で良寛より5歳年下
農業の傍ら粟生津の医者鈴木家(後年長善館開塾した
鈴木文台)の生家で執事を務めた
良寛を 心から敬い衣類など贈り蔭ながら見守る
良寛も気さくに同家を訪問逗留した、
鍋蓋に『心月輪』しんがちりん (こころげつりんのごとし)
原田鵲斎(じゃくさい)
旧分水町真木山の庄屋 原田仁左衛門の三男
少年時代から親交があり大森子陽塾で共に学んだ、
江戸に遊学医師となった
旧分水町中島の地に移転
木村元右衛門
和島島崎の屋号は能登屋菩提樹の隆泉寺と共に能登(石川)から
良寛終焉の地 69歳の春良寛乙子神社からここ木村家の小屋に
ここで『貞心尼』との運命的に
そこし華やかさが 晩年の日日が楽しいものに、
元右衛門の娘かの 嫁入りのさい日常の心得ともゆうべき事柄
を書き与えて欲しいと懇願され、
『おかの戒語』を認めた、



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