いつも下田農園に出かける時に面白い名前の城址が
興味が有りながら 今日まで車で通り過ぎるだけでしたが
今回下車して見ました 釜蓋城址入り口の案内柱で
でも農道が山裾まで有りますから あの辺りに在るのかも知れません
探索は後日に 、近くで下田村文化財調査研究会の説明板
がありましたので紹介します、
釜蓋城址
鎌倉時代、この地が大面の荘であった頃 築城されたと伝えられ
南北朝、室町時代を経るなかで支配者も代わった。
越後の大乱といわれた、関東菅領上杉顕定と越後守護上杉定実が争った
永正の乱で戦功のあった定実方三条城主山吉久盛の家臣 佐藤弥太郎の
領下に入ったが 永正8年8月『1511年』まもなく廃城となる。
近くには馬場,防所などの地名が残り 空堀りをめぐらした遺構は
中世山城の姿を今にとどめている。
尚,五十嵐川の対岸には鍋蓋城と言われている城址もあり 中世前期
越後に於ける戦略上重要な地域あったことが偲ばれる、
福岡地内には釜蓋城ゆかりの地蔵尊も祀られている、
平成九年7月下田村文化財調査研究会 説明標識より
釜蓋城 此れは 「かまふた」( かまぶた) と読むんでしょうか?
対岸には鍋蓋城 「なべふた」 と読むのでしょうか?
興味が有りながら 今日まで車で通り過ぎるだけでしたが
今回下車して見ました 釜蓋城址入り口の案内柱で
でも農道が山裾まで有りますから あの辺りに在るのかも知れません
探索は後日に 、近くで下田村文化財調査研究会の説明板
がありましたので紹介します、
釜蓋城址
鎌倉時代、この地が大面の荘であった頃 築城されたと伝えられ
南北朝、室町時代を経るなかで支配者も代わった。
越後の大乱といわれた、関東菅領上杉顕定と越後守護上杉定実が争った
永正の乱で戦功のあった定実方三条城主山吉久盛の家臣 佐藤弥太郎の
領下に入ったが 永正8年8月『1511年』まもなく廃城となる。
近くには馬場,防所などの地名が残り 空堀りをめぐらした遺構は
中世山城の姿を今にとどめている。
尚,五十嵐川の対岸には鍋蓋城と言われている城址もあり 中世前期
越後に於ける戦略上重要な地域あったことが偲ばれる、
福岡地内には釜蓋城ゆかりの地蔵尊も祀られている、
平成九年7月下田村文化財調査研究会 説明標識より
釜蓋城 此れは 「かまふた」( かまぶた) と読むんでしょうか?
対岸には鍋蓋城 「なべふた」 と読むのでしょうか?