余生 老いんと欲す 海南の村
帝は巫陽(ふよう)をして我が魂(こん)を招かしむ
杳杳(ようよう)として天は低く 鶻(こつ)の没する処(ところ)
青山一髪 是れ中原(ちゅうげん)
(「澄邁驛通潮閣二首 其ニ」)
蘇軾(そしょく、1036 - 1101)
北宋の政治家、文人。号は東坡(とうば)。1057(嘉祐2)年、21歳で進士になり、政治家としてスタートを切る。神宗時代、王安石の新法政治を批判して左遷され、杭州をはじめ諸州の地方官を歴任。湖州の知事のとき政治を風刺した詩が問題となり,1079(元豊2)年投獄ののち黄州に流される(この地で『赤壁賦』を作る。また書では『黄州寒食詩巻』が著名)。旧法党時代に一時復権するが、新法党の復活により、1094(紹聖1)年広東に配流され、常州で病死。
父・蘇洵( そじゅん)、 弟・蘇轍(そてつ)と共に、唐宗八大家に数えられる。
上記「澄邁驛の通潮閣」は、配流されていた海南島から、皇帝の命により本土に戻される途中(海南島北部の澄邁駅にある通潮閣)で詠んだとされる。
「余生を海南島の村で過ごそうかと思っていたが、天帝が巫女を使ってこの私の魂を、屈原のように呼び寄せようとしている。
通潮閣に昇ってみれば、遥かに天空は低くたれ込め、ハヤブサの姿が見えなくなるところ、青い山影が髪のように細い一線に見えるところ、そここそが、中原、すなわち中国本土なのだ!」
左遷と復権を繰り返した蘇軾は、その運命を持ち前の「楽観主義」で乗り切ったとされる。
「孫文が蘇軾を尊敬しているのは、悲運に遭っても、あくまで楽観的であったことである。これは孫文の生き方に似ている。」(陳舜臣『孫文(下)』)
辛亥革命以前の孫文とその周辺を描いた、この小説『孫文』の原題『青山一髪』は、そのような2人の「楽観主義」に注目してつけられた。
参考資料 陳舜臣『孫文(上)(下)』(中央公論新社)
帝は巫陽(ふよう)をして我が魂(こん)を招かしむ
杳杳(ようよう)として天は低く 鶻(こつ)の没する処(ところ)
青山一髪 是れ中原(ちゅうげん)
(「澄邁驛通潮閣二首 其ニ」)
蘇軾(そしょく、1036 - 1101)
北宋の政治家、文人。号は東坡(とうば)。1057(嘉祐2)年、21歳で進士になり、政治家としてスタートを切る。神宗時代、王安石の新法政治を批判して左遷され、杭州をはじめ諸州の地方官を歴任。湖州の知事のとき政治を風刺した詩が問題となり,1079(元豊2)年投獄ののち黄州に流される(この地で『赤壁賦』を作る。また書では『黄州寒食詩巻』が著名)。旧法党時代に一時復権するが、新法党の復活により、1094(紹聖1)年広東に配流され、常州で病死。
父・蘇洵( そじゅん)、 弟・蘇轍(そてつ)と共に、唐宗八大家に数えられる。
上記「澄邁驛の通潮閣」は、配流されていた海南島から、皇帝の命により本土に戻される途中(海南島北部の澄邁駅にある通潮閣)で詠んだとされる。
「余生を海南島の村で過ごそうかと思っていたが、天帝が巫女を使ってこの私の魂を、屈原のように呼び寄せようとしている。
通潮閣に昇ってみれば、遥かに天空は低くたれ込め、ハヤブサの姿が見えなくなるところ、青い山影が髪のように細い一線に見えるところ、そここそが、中原、すなわち中国本土なのだ!」
左遷と復権を繰り返した蘇軾は、その運命を持ち前の「楽観主義」で乗り切ったとされる。
「孫文が蘇軾を尊敬しているのは、悲運に遭っても、あくまで楽観的であったことである。これは孫文の生き方に似ている。」(陳舜臣『孫文(下)』)
辛亥革命以前の孫文とその周辺を描いた、この小説『孫文』の原題『青山一髪』は、そのような2人の「楽観主義」に注目してつけられた。
参考資料 陳舜臣『孫文(上)(下)』(中央公論新社)