一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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ナショナリズムの応用問題 その17

2006-03-17 11:14:42 | Opinion
孝明天皇 (1831 - 66、在位:1846 - 66)

攘夷思想が、「異質なものを排除する」という素朴な「攘夷」感情に基づいていたことは言うまでもない。

その「攘夷」感情を端的に表しているのが、孝明天皇で、
「外国の事情や何か一向御承知ない。昔からあれは禽獣だとか何とかいふやうなことが、ただお耳にはいつて居るから、どうもさういふ者のはいつて来るのは厭(いや)だとおつしやるのだ。煎じ詰めた話が、犬猫と一緒に居るのは厭だとおつしゃるのだ」(慶喜の証言。『昔夢会筆記』より)
という。

このような感情を基礎にして、理論化したものが、さまざまな形の「攘夷論」である。

それでは、後期水戸学での「攘夷論」はどうであろうか。

藤田東湖の「攘夷論」は、「古代以来維持されてきた国体の尊厳」に、その根拠を置く。
「本居宣長が日本を万国の本国としてあげた理由の一つは、『其の稲穀の万国にすぐれて、比類なき』と、『正直重厚なる風儀にて、何事もただ古き跡により守りて、軽々しく私智を以て改むる事はせざりし』とであった。本居宣長は日本が万国の本国であることの理由を、日本の風俗に帰したのである。こうした考え方は、それ以前の普遍的な道を前提にする儒教的な思考にはなかったものである。それ故に、東湖が『国体の尊厳』を風俗に帰したことは、十分に国学に影響された結果であると認められる。いいかえれば、東湖は本居宣長と同じく、万国の本国たらしめる日本の道を、風俗に認めたのである。」(吉田俊純『後期水戸学研究序説』)

したがって、「国体の尊厳」(その根源は「風俗」)が夷狄(=外国人)によって犯されることを虞れ、これを打ち払うべきとする。

ことに後期水戸学では、民衆不信の念が強く、
「『邪教』と『利』をもって欧米列国が、『飢寒に迫』られた『愚民』や『見利不知義(利を見て義を知らざる)』ものたちを誘えば、かえって彼らは欧米列強の手先となって幕藩権力に襲いかかってくると指摘している。」(吉田、前掲書)

「風俗」を代えず、夷狄に武力で対抗できる(「攘夷」できる)ものは、武士階層のみであるとするのが、後期水戸学(殊に藤田東湖の思想)の特徴なのである。