一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

音楽と《物語》

2005-05-31 07:05:17 | Essay
どうもクラシカル音楽を聴くのに、背景となる《物語》を必要とする人が、まだまだ多いようで……。

昔なら、『月光』ソナタと盲目の少女、といったお話が有名だった。そういったお話を頭に浮かべないと、音楽を聴いて感動することができない(実際は、音楽にではなく、お話に感動しているんですがね)。
「そんな素朴な人、今どき、いないんじゃないの?」
と、お思いか?
けれども、形を変えて存在してるんですね、これが。

現代では、そういったお話を、ドキュメンタリ番組やTVドラマなどが与えてくれている。

一番良い例が、ピアニストのフジ子・ヘミングでしょう。

フジ子・ヘミングの場合、スウェーデン人の父と日本人の母との間に生まれたために、戦争によってもたらされた数奇な運命、そして、身体の障害を乗り越えて復活したというエピソードが、《物語》の中心になっている(何という通俗的な/消費しやすい《物語》! そう言えば、民放でTVドラマ化もされましたな)。
NHKでドキュメンタリイ番組となってから、CDが売り上げを伸ばしコンサートも満員御礼、という状況を見れば、音楽ではなく、《物語》が必要とされているということが良くお分かりでしょう。

けれど、《物語》を取っ払って音楽だけに限れば、彼女は今では古くさくなったテクニックでピアノを弾く、ミスタッチの多い、ヨーロッパに限らず日本でも、ざらにいる演奏家に過ぎないでしょう。

そういう音楽が本当に好きなら好きで、個人個人の趣味の問題だから、何も申しますまい。けれども、マスコミが中心になって作り上げられた《物語》を消費するかのように音楽を聴くのなら……。

ましてや、彼らの音楽がCD化されることによって、本当に実力のある若手が、自分の演奏を発表する機会を奪われるとすれば、いかがお考えになるか?

要は、《物語》に頼るのではなく、ご自分の耳で音楽を聴いていただきたい、ということです。まあ、自戒のことばでもあるのですけれどね。
 

『それからの海舟』を読む。

2005-05-30 07:48:05 | Book Review
「歴史もの」でも、半藤一利の著作としては、『ノモンハンの夏』『日本のいちばん長い日』などの戦記・ドキュメンタリー系列ではなく、『漱石先生ぞな、もし』や『荷風さんと〈昭和〉を歩く』の系列の作品。

ご存知のように海舟は、江戸城を新政府軍に引き渡した後、慶喜の除名嘆願を運動し、それを成功させる。
維新後しばらくは江戸を離れて、慶喜や旧幕臣とともに駿府に移り住むが、新政府の懇望により海軍大輔に就任(この辺りの進退を、福沢によって『痩我慢の説』で後で批判される)、新海軍の成立に努める。
その後、氷川に引っ込み隠居生活を始めた海舟は、旧主徳川慶喜と旧友西郷隆盛の名誉回復を図る。
以上のことは、明治31(1898)年の慶喜と明治天皇との対面や、同年に西郷像が上野公園に建てられたことで実現する。

海舟が亡くなったのは、その翌年、明治32(1899)年1月17日のこと、享年77。

その77年の生涯の内、以上のような後半の三十数年のことを描くのが、本書である。
ちなみに、タイトルの「それから」とは、
「三田薩摩屋敷での勝海舟・西郷隆盛の会談のとき」
を指している。
海舟が有名であるわりには、あまり知られていない後半生である。しかも、ご本人が自分の行動やその理由を韜晦するのが得意だから、なまじの著者では太刀打ちできない(××の付くほど、正直な人には向いていない)。

その点、半藤一利は、
「東京は向島生まれ、空襲で焼かれ都落ちして越後長岡の中学校卒、と自己紹介すれば、わがうちなる薩長嫌いは申さずともわかっていただけようか」
と言うくらいだから、海舟を描くには適任といえるだろう。

しかも、ヘタをすると、海舟を偉いとする人に限って、どこぞに祭り上げ、「行蔵は我に存す」などという書簡中のことばを、妙にひねくった徳目なんぞのように取り扱ったりする。
その点、著者は分っているから、次のように記す。
「当路の政治家として自分の行ったことに余計な弁解はしない。そんなことをしても何にもならない。勝っつあんはまことに潔いのである。」
まあ、小生なりのことばにすれば、
「言っても何にもならねえことは言わぬが増しさ」
とでもなるか。

だからこそ分かりにくい海舟の「それから」を、史料を駆使して、しかも読み物として面白く描いた著書である。
「泣くのが嫌だから笑っちゃう」ような方に、一読をお勧めしたい。

半藤一利
『それからの海舟』
筑摩書房
定価:本体1800円+税
ISBN4480857753



『皇紀・万博・オリンピック―皇室ブランドと経済発展』を読む。

2005-05-29 04:33:46 | Book Review
1940(昭和15)年、紀元2600年(『日本書紀』に基づき、神武天皇即位の年を元年とする紀年法。明治5年に法制化された)の祝賀行事が行なわれた。
本来なら、万国博覧会と東京オリンピックも同時開催される予定であったが、政治/軍事状況の悪化により中止されていた。

その万国博覧会と東京オリンピックは、当時の日本/日本人にとってどのような意味をもっていたかを探ることが、本書の目的である。

「紀元二六〇〇年を記念してイベントを行なおうという話は一九三〇年に東京と奈良でまったく別々に始まった。」
東京では、当時の東京市長永田秀次郎が、オリンピックを招致しようと、「欧州スポーツ界の状況如何を調査」するよう、渡独する学生陸上競技チームの総監督山本忠興(早大教授)に依頼するところから話が始める。
奈良では、橿原神宮が、紀元2600年を期して整備拡張事業を行なうことを内務省に申請することから始まる(当時の神社は、内務省神社局の管轄)。

一方、万国博覧会は、地域経済への貢献や外貨獲得などの、産業振興/経済発展を主な目的として開催が計画される。したがって、この動きは、当時の商工省が中心となる。

これらの動きが、やがて一本化され、すべては「紀元二六〇〇年祝賀」という大義名分の中に溶け込まれていくのだが、そこには当時の指導者たちが、国民をどのようなものと捉えていたか、が表れている、と著者は指摘する。
すなわち、一方では「日本発展を盛大に喜び、それを享受する機会」とし、皇室ブランドを「発展シンボル」として機能させようとする。そこには「性善説」的な国民観がある、とする。
他方、「国民を精神的に引き締め、さらなる勤勉を促す機会」とし、皇室ブランドを「国民統合のシンボル」として機能させようとする。前者に対し「性悪説」的な国民観である。
実際には、後者に近い形で政策が決定され、
「真の日本に対する国民の自覚を強化し、また公正なる日本を中外に顕示し、もって国力の充実に寄与し国威を宇内に宣揚して国運の隆盛を期する」
という「紀元二六〇〇年に関する宣伝方策大綱」が決定される。
しかし、どのようにイメージ操作しようが、現実的には一般の人々にとって、非日常的な「お祭り騒ぎ」であった。
また、実業界の本音は、これを機会にした都市インフラストラクチャーの整備であり、イベントの結果としての経済発展であった(ちなみに、1940年の完成を目指して、高島屋日本橋店は店舗の増築に踏み切り、松坂屋は銀座店新館と上野店南館の建設を始める)。

けれども、1937(昭和12)年の日中戦争の勃発により、状況は一変する。
「日中戦争遂行と軍備拡充が至上命題とされたため、(外貨準備の)縮小分として民需が削減されることとなり、『戦争遂行に直接必要ならざる土木建設工事は現に着手中のものといえどもこれを中止する』とされ、オフィスビル、学校、商業用ビルとともに万博、五輪も中止対象として明記されたのである。当然前に触れたデパートの増築工事も中止となった。」

こうして残ったのは、国民精神総動員運動への「二六〇〇年奉祝行事」の活用であった。
先述したように「国民を精神的に引き締め、さらなる勤勉を促す機会」とし、皇室ブランドを「国民統合のシンボル」として機能させようというのである。

1940(昭和15)年11月11日、奉祝行事の翌日には、街々には次のようなポスターが貼られていたという。
「祭は終わった、さあ働こう!」

古川隆久
『皇紀・万博・オリンピック―皇室ブランドと経済発展』
中公新書1406
定価:本体700円+税
ISBN4121014065


「小さな親切、余計なお世話」

2005-05-28 07:19:00 | Opinion
いつの間にか、タバコのバッケージに、
「たばこの煙は、……」
という注意書きが刷り込まれるようになっていた。
実に、書体といいスペースといい、デザイン的に醜悪な処理で、これならむしろ、
「下手なデザインは、あなたの周りの人の
美意識に悪影響を与えます」
と書いた方が、世のため人のためになりそうだ。

喫煙者(小生もそうだが)は、そのようなことは先刻承知の上で、喫煙を行なっている。非喫煙者にできるだけ迷惑をかけないようなマナーも心得ている。
それなのに、なぜこのような愚挙を行なうのか。
理由が判然としない。
まったく意味のない注意書きである。

当ブログは書評をメインとすることにしているので、ここで本の話をする。

ロバート・N・プロクター『健康帝国ナチス』(草思社)という書籍がある。詳しい評はいずれするとして、
「国の重要な産業を脅かすがんは、『健康は義務である』を国家スローガンにし、優秀なゲルマン民族の繁栄を願ったナチス政府にとっても『国家最大の敵』だった。」
しかも、〈健康〉が国民としての義務であり、アーリア民族共同体としての〈健康〉が目的である以上、私的な自由(喫煙か非喫煙か)はありえない。
そして、その〈ユートピア〉の目指す先にあったものは……。
という内容である。

また、連想する、筒井康隆『最後の喫煙者』を。
こちらはドタバタで、
「たばこ排撃のポピュリズムが高じた悲惨な未来を黒い哄笑で書ききってい」(共同通信編集委員・龍野建一による書評より)
る傑作。

「健康のためには命もいらない」
のも個人的な自由。
「〈自己責任〉でタバコを吸う」
のも個人的な自由。

そのような自由が失われ、禁煙一色に社会が染められた時、どのような行為だけが許されるのだろうか?

『昭和史発掘 3』を読む。

2005-05-27 01:21:33 | Book Review
1960年代に週刊誌連載の後、単行本化され、1970年代に文庫化されたものの新装版(新装版第3巻は、旧文庫第4巻の一部(「『桜会』の野望」「五・一五事件」)+旧文庫第5巻の一部(「スパイ《M》の謀略」)。

第3巻は、
「『桜会』の野望」
「五・一五事件」
「スパイ《M》の謀略」
の3編よりなる。

●「『桜会』の野望』
「桜会」とはどのような存在であったかは、『日本史辞典』(角川書店)の、
「軍ファシストの秘密結社」で、当時の政治に「不満をもつ参謀本部・陸軍省少壮将校らが中心。橋本欣五郎中佐・根本博中佐・長勇大尉(のち少佐)を中心とし、満蒙問題解決とそのための国家改造を掲げ、北一輝・大川周明の思想的影響力の下に民間右翼・無産運動右派と結び、3月事件・10月事件を企て、また満州事変発生にも暗躍。10月事件後解体したが、一部はのち統制派として台頭した。」
という記述で、必要かつ十分条件を満たしているであろう。

さて、本書の「『桜会』の野望」は、橋本欣五郎中心に「桜会」を描く、いわば「橋本に関する人物論」と言ってもいい。
どのような人物だったかについては、本書を読んでいただくこととして、ここでは、参謀本部の若手少壮将校が陸軍上層部(将官)から甘やかされていたことが、陸軍内部の混乱の原因とだけ指摘しておこう。また、その「甘やかし」が、彼らの動きを、陸軍上層部が政治的に利用しようとするためであったことも重要なポイントである(これはのちの「5・15事件」「2・26事件」でもいえる)。

「桜会」の不純な思想と行動に飽き足らない、海軍将校や陸軍の「隊付将校」(連隊配属の将校。いわば現場の管理職。これに対して、陸軍省・参謀本部のスタッフを「幕僚将校」という)が起こしたのが、「5・15事件」「2・26事件」である。

●「五・一五事件」
「5・15事件」は、昭和史の上で「2・26事件」と並び称せられているが、本書を読むと、いかに杜撰なクーデター計画であるかが痛感させられる。
松本のことばを借りれば、
「彼らはただ重臣や首相をたおし、政党本部を襲い、発電所を破壊して帝都を暗黒にすれば、革命は自然と到来するものと信じていた。すなわち、海軍の下級士官や陸軍の士官候補生の数十人だけで改革が成功するものと信じていた。かれらには上部との連絡もなければ、横の広い組織もなかった。決定的には人数が少ない。たとえば彼らは警視庁と決戦するつもりでいたが、その警視庁がこの事件でくりだした警官の数は一万人を超えている。また陸軍も近衛師団から兵四百五十名を出動させた。これが首相官邸を襲った十五日の夕刻から夜半までの数である。」

また、次のようなエピソードは、彼らの狂信性と独善的な国家観をよく示している。
政友会本部を襲撃(といっても、外部から手榴弾3発を投げ、2発は不発、1発は建物の一部を損傷しただけ)した後、乗ってきたタクシーの運転手に対して、警視庁へ行くことを命じ、
「吉原(政巳陸軍士官候補生)はすぐに拳銃を出して運転手の脇腹にくっつけ、
『これから絶対に命令に服従せよ。聞かないと国家のために撃つぞ』
と言った。」
彼らにとって国家とは、運転手を意のままにするための護符であったのか。

実際の行為は、杜撰きわまりないテロリズムでしかなかったのだが、それが日本の運命をある方向(軍部の政治的発言力強化)に押しやったとすれば、戦前社会とは、その程度の脆弱な構造しか持っていなかったとしかいいようがない。

●「スパイ《M》の謀略」
本書3編の中で、小生はこの「スパイ《M》の謀略」が一番興味深く読めた。

「スパイ《M》」とは、3・15、4・16の日本共産党員大量検挙後、再建を図る党に入り込んだ、ある一人のスパイのこと。
「スパイ《M》」は、警視庁特高課長毛利基の手先として、情報提供するだけではなく、巧妙な手段で「大森ギャング事件」(昭和7(1932)年)を起こさせる。共産党が、反社会的な団体であり、より一層危険な存在になっていることを、世間にアピールするためである。
その背後には、毛利特高課長と「スパイ《M》」の謀略があったというわけだ。

この「スパイ《M》」、スパイとしてだけではなく、オーガナイザーとして、まことに有能で、
「とくに組織力、タイミングのつかみ方、方法の選び方、重点のおき方、活動面における人間の動かし方などの非合法技術にはすぐれていた。そしてシンパ組織、資金関係、会合場所、住居、地方との安全な連絡場所、敵の中枢に結びつく情報活動など、その他、資金・技術関係のあらゆる活動に前代未聞の能力を発揮した。」
という証言が、本書に紹介されている。

一方、それを操る側の特高課長も、
「まるで特高警察のために生まれたような男だった。彼くらい共産党検挙に熱心だった警察官はいない。」
というような存在。

この二人がコンビとして、対共産党の謀略に当たったのだから、毛利特高課長が、
「日本の共産主義運動はおれの掌の上にある、と豪語していた」
のも宜なるかな。

それでは、「スパイ《M》」の正体は、ということになると、松本の調査でも明らかになっていない。成功したスパイの典型といえるであろう。

戦後改革によって、公安警察は特高を中心になくなったはずではあるが、森詠『黒の機関』(徳間文庫)によれば、
「肝心の警察官僚たちは旧日本帝国時代からの〈天皇の警官〉で大部分が占められていた。機構が変ったからといって、むかしながらの意識が変わろうはずもなかった」
のである。
したがって、公安警察を主役とした謀略が、かつて起らなかったとも、これからも起らないという保証はないのである(青木理『日本の公安警察』講談社新書を参照されたい)。

松本清張
『昭和史発掘 3』
文春文庫
定価:本体829円+税
ISBN4167697025


去る者、残る者

2005-05-26 05:40:54 | History
小生が危惧したとおり、5月25日の「東京山手大空襲」に関しては、マスコミは一切触れず、ブログでも関連した記事を目にすることは少ない(今、検索してみたら、血縁者がお亡くなりなった方の記事が1件あっただけ)。

どうも、この国においては、歴史的事象でさえもが歳時記に組み込まれてしまい、それ以上のことは考えない傾向が強いようだ。
1年に1度だけ、「原爆」に関しては8月6日と9日に、「敗戦」については8月15日に思いをいたせば事足れり、とする。したがって、東京の空襲についても3月10日に回顧したから、もういいでしょう、というわけである。
――話はややずれるが、「敬老の日」にのみ老人を大事にすれば、他の日はどうでもいいというのに似ている。本来、老人を敬い大切にする風習が根付いているならば、「敬老の日」などがなくともいいはずだ。公共交通機関にあるハンディキャップのある人々のためのシートも、また同様。

3月10日にあれだけ記事にした諸君、5月25日のことはどう考えているのかね。

●それぞれの大空襲の後
この後、5月29日(横浜を襲った編隊が、東京南部に投弾したもの)を最後として、大規模な空襲は東京に加えられることはなかった。というのも、
(東京は全市街の50.8%を焼失し)「名古屋とともに焼夷弾攻撃リストからはずされた」(『米軍戦略爆撃調査団報告書』)
からである。

警視庁の発表によれば、昭和19(1944)年11月24日から、昭和20(1945)年8月15日までの空襲の規模は、以下のとおり。
 ◯来襲敵機:延べ4,347機
 ◯投下された通常爆弾:1万1,642発
 ◯投下された焼夷弾:38万8,741発
 ◯死者:9万5,996人
 ◯負傷者:7万791人
 ◯被害家屋:760万6,615戸
 ◯罹災者:286万1,882人
しかし、資料(『東京都調査資料』)によれば、死者行方不明者合計は25万670人(内死者9万2,778人)で、9万人近い差がある。
かように実態は確実になってはいないが、『東京都調査資料』の数字以下であることは、まずないであろう(「東京空襲を記録する会」推計によれば、死者11万5,000人以上、負傷者15万人)。

中野で罹災した永井荷風は、東京を去って行った。
五番町の家を焼失した内田百間は、隣家の「塀の隅」にある「三畳敷きの小屋」に仮住いすることになる。
「一畳は低い棚の下になっているから坐ったり寝たり出来るのは二畳である。天上も壁もないがトタンの屋根の裏側には葦簾が張ってあり、壁の代りに四方みんな蓙を打ちつけてある。二枚ある硝子窓のカーテンも蓙であ」(内田百間『東京焼盡』第三十八章)った。
目黒の下宿を焼け出された山田誠也は、知り合いを頼って山形県へ。
「京橋から地下鉄で上野にゆく。上野駅の地下道は依然凄じい人間の波にひしめいていた。
 汽車にのってから気分が悪くなり、窓から嘔吐した。越後に入るまで、断続的に吐きつづけた。水上温泉のあたり、深山幽谷が蒼い空に浮かんで、月明は清澄を極めていたが、苦しくて眠られず、起きていられず、悶々とした車中の一夜を過ごした」山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年五月二十六日)。


東京焼盡

2005-05-25 07:17:01 | History
●東京山手大空襲(3)
昭和20(1945)年5月25日夜。
玄関に置いてある非常持ち出し用の荷物を、いつものように外に持ち出した内田百間は、このような光景を目にした。
「焼夷弾が身近に落ち出した。B29の大きな姿が土手の向う、四谷牛込の方からこちらへ今迄嘗つて見た事もない低空で飛んで来る。機体や翼の裏側が下で燃えている町の◯の色をうつし赤く染まって、いもりの腹の様である。もういけないと思いながら見守っているこちらの真上にかぶさって来て頭の上を飛び過ぎる。どかんどかんと云う投弾の響が続け様に聞える」(内田百間『東京焼盡』第三十七章)。

百間夫妻は、表の防空壕に避難する。しかし、焼夷弾は次々と落下してくる。
「大谷の家が見通しになって、その裏に白い色の◯が横流しに動いているのが見えた。もう逃げなければいけないと考えた。ひどい風で起っていられない位である。土手の方へ行こうと思ったが家内が水島の裏へ抜けた方がよくはないかと云うのでそれもそうだと思い、裏の土手の途へ出た。二人共背中と両手に荷物が一ぱいなので、ただでさえ歩くのが困難である。その上風がひどく埃と灰と火の粉で思う様に歩けない(中略)
一息休んでいる内に、一寸家の様子を裏から見て来ると云って家内を一人置いて、水島の裏へ行って見た。大きな火柱が立っている。多分私の家だろうと思ったけれどはっきり見定める事はできなかった」(同上)。

午前1時、空襲警報が解除になった。
しかし、大火災が収まったわけではない。
「空襲警報解除になった後、火勢は愈猛烈になった。私の家が焼けたのは十二時前後、多分十二時より少し前ではないかと思う。未だ立ち退かぬ少し前に新坂上の朝日自動車と青木堂の四ツ角に焼夷弾のかたまりが落ちたらしく、こちらから見るその辺りの往来一面が火の海になった」(同上)。

午前五時頃、太陽が東から顔を出した。
「双葉(学園)の前の土手の腹で夜が明けた。薄雲だか大火事の煙だか灰塵だかわからぬものが空を流れている。(中略)九時近くなって雨が降り出した」(同上)。

煙や灰塵が上空の大気を刺激するのか、空襲の後には雨が降ることが多い。
百間は、この後、丸の内まで歩いて勤めに出る(この時代、日本郵船の顧問に就いていた)。

一方、3月10日の大空襲で偏奇館を焼け出され、東中野の作曲家・菅原明朗(夫人は歌手の永井智子。その間に生まれた娘が小説家の永井路子)の住むアパートに一室を借りた永井荷風は、またもこの夜の空襲で住いを失うことになる。
「爆音砲声刻々激烈となり空中の怪光壕中に閃き入ること再三、一種の奇臭を帯びたる煙風に従つて鼻をつくに至れリ。最早や壕中にあるべきにあらず。人々先を争ひ路上に這ひ出でむとする時、爆弾一発余らの頭上に破裂せしかと思はるる大音響あり。無数の火塊路上到るところに燃え出で、人家の垣牆を焼き始めたり。(中略)遠く四方の空を焦がす火焔も黎明に及び次第に鎮まり、風勢もまた衰へたれば、おそるおそる煙の中を歩みわがアパートに至り見るに、既にその跡もなく、唯瓦礫土塊の累々たるのみ」(永井荷風『断腸亭日乗』昭和二十年五月廿五日)。

以後、荷風は東京を離れ、明石、岡山と移り住むことになる。


つかの間の平安

2005-05-24 06:30:50 | History
●東京山手大空襲(2)
昭和20(1945)年5月24日、昨夜の東京西部の大空襲を免れた内田百間は、夫人に、
「敵の飛行機が如何に残虐であってもこの小さい家をねらうと云う事はあるまい」
と話しかけた。それに応えて、
「そう云えばお隣の立ち樹一本ですものね」
という返事が戻ってきた。隣が軍需大臣の邸で、樹々が長い列になって内田家までつらなっている。その一本にしか相当しない程の小さな家である、という意味なのだ。
月齢十二日の月が、麹町区五番町の小さな家を照らしていた(内田百間『東京焼盡』第三十七章より)。

5月25日、この日の東京は朝からの上天気で、警戒警報や空襲警報が何度か出たものの、夜までB29の姿を見ることはなかった。
前夜、目黒で罹災した山田誠也は、防空壕を掘り返して貴重品を取り出そうとしていた。
「しかし、結局出て来たものは、焼けた靴、中の服やシャツや着物も焼けこげたトランク、行李、半分灰になった医学書など、モノらしいモノは何も出て来なかった。奥の方に毛布や蚊帳があるはずなのだが、まだ熱く、煙がひど」い(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年五月二十五日)。

夜になって、午後10時5分に警戒警報が発令された。
「今晩の様な気分の時にはぐっすり眠りたいと思ったが仕方が無い。後続目標ありと云うのですぐに起きた」(内田百間『東京焼盡』第三十七章)。
10時23分、空襲警報になった。
「すぐに向うの西南の方角の空は薄赤くなったが、それよりも今夜は段段に頭の上を通る敵機の数が多くなる様であった」(同上)。
「敵はまず照明弾を投下して攻撃を開始した。
 三十分ほど後には、東西南北、猛火が夜空を焦がし出した。とくに東方――芝、新橋のあたりは言語に絶する大火だった。中目黒のあたりも燃えているらしい。
 ザァーアッという例の夕立のような音が絶え間なく怒濤のように響く。東からB29は、一機、また二機、業火に赤く、また探照灯に青くその翼を染めながら入って来る。悠々と旋回している奴もある」(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年五月二十五日)。

この夜来襲したB29は、502機。中野、四谷、牛込、麹町、赤坂、本郷、渋谷、世田谷、目黒、杉並の、まだ空襲を受けていない地域で、焼夷弾3,000トンが一気に投下された。


山田誠也の空襲体験

2005-05-23 06:48:45 | History
前回の記述どおり、東京は5月25日に「山手大空襲」60周年の日を迎える。
60年前のこの日の夜から翌日の朝にかけて(前日には、東京西部に大空襲あり)、山手地域を中心にした大空襲があったのである。
3月10日の「下町大空襲」は、マスコミやブログでもかなりの数取り上げられていたが、この日に関しては、言及も今のところ少ない。そこで、本ブログでは、小生が過去に書いた記事を再掲載し、この空襲について少しでも知ってもらおうと思うと同時に、犠牲者の冥福を祈りたい。
本記事が元になって、その犠牲が何によって出たかを考えていただければ、筆者として幸いこれに過ぎるものはない。

既に本記事を読まれた方には、以上の事情をご了解いただき、ご海容を乞う。

●東京山手大空襲(1)
昭和20(1945)年5月になると、東京下町地域への大空襲が3月10日の《陸軍記念日》(日露戦争での「奉天大会戦」の勝利を記念して明治39年に制定された)だったことから、市民の間には、次は5月27日の《海軍記念日》(「日本海海戦」の勝利を記念して制定)が危ないとの噂が立っていた。
しかも4月13、15日の大空襲以来、「沖縄戦たけなわの間、東京への大きな空襲は無く、敵のB29は専ら九州、四国、中国方面の我基地を襲っていた」のだが、5月14日には名古屋が空襲にあい、「いよいよB二十九の大都市爆撃が一ケ月振りで再開されたのである」(伊藤整『太平洋戦争日記(三)』昭和二十年五月十七日)。
「名古屋をやれば東京へと続いて来るにきまっている」(同上)。

山手地域を目標とした大空襲は、《海軍記念日》の3日前の5月24日から行なわれた。
525(一説には562)機のB29による、従来以上の大空襲であった(3月10日が約300機、4月13日が330機)。

目黒に下宿していた山田誠也は、次のように書く。
「遠く近く、ザアーアッと凄じい豪雨のような焼夷弾散布の音、パチパチと物の焼ける響。からだじゅう、もう汗と泥にまみれていたが、恐怖はみじんも感じなかった。空は真っ赤になって、壁には自分たちや樹の影が映っていた。(中略)
突然、土砂のふってくるような物凄い音が虚空でして、すぐ近いところでカンカンと屋根に何かあたる音が聞えた。防空壕の口に立っていた自分は、間一髪土煙をあげてその底へすべり込んだ。仰むけになった空を、真っ赤な炎に包まれたB29の巨体が通り過ぎていった。(中略)
ときどき仰ぐ空には、西にも東にもB29が赤い巨大な鰹節みたいに飛んでいる」(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年五月二十四日)。

この空襲で、渋谷、目黒、大森、蒲田、荏原、芝区の大部分、赤坂、杉並、世田谷区の一部、本郷区などの焼け残りの市街が焼かれた。
しかし、空襲を免れた地区も、翌25日夜から26日にかけての次の空襲で、追い討ちをかけられるようにして大被害を受ける。


『東京焼盡』の夜

2005-05-22 07:38:27 | History
今年の3月10日前後は、東京下町大空襲の60周年ということで、マスコミやブログでもかなりの言及があった。
さて、それでは今週の25日あたりはどうであろうか。
実は、5月25日は「東京山手大空襲」とでも言うべき空襲のあった日なのである。
規模的にも、下町大空襲が約300機のB29によるものであったのに対して、山手大空襲は525機とも562機ともいわれている。

この空襲によって、内田百間の麹町の自宅は焼け、その後しばらくはあばらや(隣家の「塀の隅」にある「三畳敷きの小屋」)暮らしとなる。その経過を表した作品が『東京焼盡』。
また、永井荷風などは、偏奇館を下町大空襲(山手にも被害があった)で焼け出され、今度は山手大空襲で寄寓先のアパートを失い、とうとう都落ちすることになる。

以上のような空襲のようすを、小生は、以前に他のブログで記した。
けれども、もうかなり前になり、記事を見るのも難しいと思うので、明日より4回に分けて再録しようと思う。
既に読まれた方には、ご容赦を乞う。

ちなみに、2回の大空襲の間にも空襲は続き、その中でも4月11日から12日にかけての第1次空襲は170機によるものだった。

以下、その部分を再録する。
●東京への第二次大規模爆撃
3月10日の大空襲によって、本所区はその面積の96%が焼失、深川区、城東区、浅草区も壊滅に近い状態となった。

3月18日、昭和天皇は空襲の罹災地を見て回った(ルートは、皇居→永代橋→深川→業平橋→湯島→皇居)。
「車列は電車通りをさらに東へ進み、小名木川橋の上で停った。ここで、天皇は車を降りて、橋の上から焼け跡を二、三分見た。(中略)車列は被爆地を停らずに、来た時と同じように時速三十六キロで走り抜けて、皇居に戻った」(加瀬英明『天皇家の戦い』)。

しかし、政府および軍部の継戦の意志は変らず、米軍の沖縄上陸を前にした3月21日、小磯国昭首相はラジオで「国難打開の途」と題する放送を行なった。
「硫黄島の喪失(註・3月17日《玉砕》)によって戦場は一層本土に近接、空襲の被害も亦激増するに至る事は争ふべからざる現実であり、今後戦局は内地外地を問はず刻々酷烈の度を加へ来るであらう。(中略)今や帝国の総力を挙げて戦争目的完遂の一点に結集し、敵の物量に体当たりを敢行すべき秋である。」

その小磯内閣も4月5日には総辞職し、7日に鈴木貫太郎内閣が成立した。
4月12日、ルーズベルト大統領が死去し、翌13日には日本でも、そのことが発表された。
「ルーズヴェルトの死は、日本人に相当の衝撃を与えて然るべきである。しかし日本人は、いかなる大ニュースにももはや決して感動も昂奮もしないほどに鍛えられた。(――疲れてしまったのかも知れない)」(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年四月十三日)。

その夜から翌14日にかけて、東京は再度大空襲に襲われた。

「◯昨夜十一時より今晩三時にかけ、B29約百七十機夜間爆撃。
 一機ないしは少数機にて波状的に来襲し、まず爆弾を以て都民を壕中に金縛りになし、ついで焼夷弾を散布す。ために北方の空東西にわたり、ほとんど三月十日に匹敵するの惨景を呈し、目黒また夕焼けのごとく染まる」(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年四月十三日)。

「十一時忽ち空襲警報となり、すぐに東の方に火の手上がる。焼夷弾の攻撃にて、続いて方方に火の手上がり、初めの内は真暗だった四谷の側の空にも、つい間近に焼夷弾が落ちるのが見えたと思ったら忽ち烈しい火の手が上がり、天を焦がす大火事となった」(内田百間『東京焼盡』第三十一章)。

「主として山の手を狙ったこの夜の空襲は、省線電車の大部分を不通にし、これまでほとんど無疵であった山の手の町々を大きく焼き払った。四谷の半分は失われたという。麻布の霞町、牛込の神楽坂から江戸川べりにかけて、新宿の駅前、高円寺と阿佐谷の間、中野と東中野の間、それから板橋、滝ノ川等は最もひどい損害だったという」(伊藤整『太平洋戦争日記(三)』昭和二十年四月十八日)。

この大空襲は、計330機(352機説もあり)が二日に分れており、13日は東京西部の赤羽(赤羽兵器廠があった)、豊島、王子、小石川、荒川、四谷、牛込など、15日は大森、蒲田から京浜工業地帯を爆撃した。
この東京への第二次大規模爆撃で、約22万戸の家屋が焼失した。

*ちなみに、半藤一利『昭和史』の推察によれば、昭和天皇が、敗戦止むなしとの決意を行ったのは、3月18日の空襲の被災地視察によってではなく、6月15日であるとする