しかし、後期水戸学の尊王論は、幕藩体制の破壊を目指すものではない。
あくまでも、〈天皇―将軍―諸侯(大名)―群臣〉という秩序を重視する。「君臣上下の名分を厳格に維持することが社会 の秩序を安定させる要」とするわけである。
藤田幽谷は1791(寛政3)年の『正名論』で、次のように述べている。
「天下国家を治るものは、天子の政(まつりごと)を摂するなり。天子垂拱(すいきょう)して、政を聴かざること久し。久しければすなはち変じ難きなり。幕府、天子の政を摂するも、またその勢のみ。異邦の人、言あり、『天皇は国事に与らず、ただ国王の供奉(ぐぶ)を受くるのみ」と。蓋(けだ)しその実を指せるなり。然(しか)りといへども、天に二日(にじつ)なく、土に二王なし。皇朝自ら真天子あれば、すなはち幕府はよろしく王を称すべからず。」天皇が政治に関与しない(「天子垂拱(すいきょう)して、政を聴かざる」)から、日本は中国と異なり〈易姓革命〉が起きにくいのである(「久しければすなはち変じ難きなり」)。
すなわち、「天皇の非政治性は皇室維持のためにも必要だ」とする。
そして、その秩序は、
「幕府、皇室を尊べば、すなはち諸侯、幕府を崇び、諸侯、幕府を崇べば、すなはち卿・大夫・諸侯を敬す。夫(そ)れ然(しか)る後に上下相保ち、万邦協和す」という君臣上下の名分の維持にあるとする。
天皇の正統性を示す「国体論」と、その上での、君臣上下の名分の維持を説く「尊王論」とが、後期水戸学の大きな特徴の1つとなる。
この後期水戸学を読み替え、「一君万民思想」と「草莽崛起(そうもうくっき)論」を唱えて革命論にまで高めたのが、後期水戸学に影響を受けた吉田松陰であるが、松陰について語る前に、後期水戸学の「攘夷論」に触れておく必要があるだろう。