一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

最近の拾い読みから(166) ―『ミッドウェイの刺客』

2007-07-31 08:08:21 | Book Review
「虚実皮膜の間」ということばを思い出させる戦記小説です。

近松のこのことばには、いくつか解釈がありうるでしょうが、ここでは単純にフィクション(=創作)と歴史的事実の間を縫って作り上げた作品、というような意味で使っておきます。

それでは歴史的事実とは……。

本作で登場する潜水艦〈海大VI型a〉「伊百六十八潜」は、実在の潜水艦です。
手持の資料『写真集 日本の潜水艦』(光人社刊)によれば、「伊百六十八潜」は次のような潜水艦です。
「開戦時、ハワイ作戦に参加し、(昭和)17年6月7日、ミッドウェー海戦において空母ヨークタウン、駆逐艦ハンマンを撃沈した。」
このミッドウェイ海戦での戦いに巻込まれた潜水艦の戦いと、その乗員の心情を描いたのが、本作品です。「巻込まれた」というのは、本来の任務が「敵情の偵察」で、海軍上層部の作戦破綻により、止むなく敵艦との戦闘になってしまったからです。
また、その内面描写はともかくとして、艦長田辺弥八も実在の人物です(先任将校以下の乗員については不明)。

さて、そういったことで、ストーリーのアウトラインは、実際の戦闘経過を描いています(『証言 ミッドウェイ海戦』あり)。
しかし、それを支える潜水艦のディテイルは、必ずしも記録の通りではないかもしれません。しかし、潜水艦の航海において、まず日常ありうることを述べているのでしょうから、必ずしも「嘘」とは言えないわけです。

この辺から、「虚実皮膜の間」が始まってきます。

特に、潜水艦乗りの心理・心情については、著者はいろいろと調べたことでしょう。しかし、個々の潜水艦、個々の乗員に関しての記録があるとは限りません。
ましてや「伊百六十八潜」は、昭和18年7月27日(ミッドウェイ海戦のほぼ1年後)に、消息不明となっているのですから(米軍の発表によれば、同日米潜水艦〈スキャプ〉の攻撃により沈没)。

そこを、いかに必然性・蓋然性(=いかにもあり得ること)のある描写で埋めていくかに、著者の腕が掛かってくるのです。人によっては、その工夫を「嘘へのコーティングのしかた」と言いますが。
そのようなフィクションでの充填のしかたには、なかなかの腕前が見受けられます。

例えば、本田学三等兵曹の森口佳乃への淡い恋情などは、おそらくフィクションでしょう。たとえ、それが事実だとしても、彼女の写真を同室の吉本宏二等兵曹に見せるなどというエピソードは、作者のフィクションとしか考えられません。

そのようなエピソード群と歴史的事実を織り交ぜながら、淡々と戦闘状況を描いていくのが本作品です。
そこに、上層部の安易な作戦の破綻によって、過酷な運命に巻込まれていく「伊百六十八潜」とその乗員との上に、シンボリックな意味が浮き上がってきます。

やはり、この手の作品は、声高にメッセージを語らない方がよろしいようです。

池上司(いけがみ・つかさ)
『ミッドウェイの刺客』
文春文庫
定価:630円 (税込)
ISBN978-4167206031

悪口と「レトリック」

2007-07-30 08:20:56 | Essay
投票は、選挙区も比例区も「死に票」にはならずにすみましたが、結果を見ると、何となしに空しい気も残ります。
というのは、あの人は首相の座を降りるつもりはないようですし、また、次の有力候補とされているあの人は、「アルツハイマー発言」などという人権無視の体質が濃厚だし……(それにしても、なんで暴言があまり問題にされていないのかしら)。

はたして、大きな政治状況は動いているのでしょうか?

さて、それはさておき、相変わらずの閑話です。

漱石の語り口に、落語などの口承文藝の影響があることは、かねてから指摘されているとおり。
ここでは、語り口ではなく、語彙における江戸文化の影響を二、三指摘しておきましょう。

悪口雑言というのは、文化の歴史が積み重なっていないと、単なる悪罵に終わってしまいますが(「馬鹿」「阿呆」「間抜け」の類)、明治東京のような江戸文化の伝統があるところだと、それなりの「レトリック」ともなってきています。
ここでは、佐藤信夫の定義を借りて、
「レトリック」とは、「常識的なことばづかいとはいくらかちがった、風変わりな表現形式」(佐藤『レトリック認識』)
としておきます。

江戸の名主の息子であり、古道具屋へ養子に出された漱石にとって、江戸人のことばづかいは母語の一部でした。したがって、『猫』には、知識人小説であるにもかかわらず、伝統的な悪口雑言がよく登場する。今日のわれわれには意味がよく分からなくなっているから、全集には「注」すらついている。
いわく、「吹子の向こう面」「行徳の俎」などなど。

詳しい意味は全集に当たっていただくとして、これらの表現は、一種の判じ物になっている。そこで連想するのが、「地口行灯」であります。鼻でせせら笑っている男の顔を行灯に描いて、「鼻でフフン(仮名手本)忠臣蔵」と判じさせる類いですな。

小生の知る限りでは、このようなレトリックは、西欧の書物には載っていない。仮にこれを「地口法」とでも名付けておきましょう。

「地口法」の内容が、「行徳の俎」=「馬鹿に擦れている」というように、相手を軽んじるものである場合、それは悪口になる。ただし、江戸人とは言えど、悪口として誰もが意味を了解していたというものではないでしょう。その辺が、欠点といえば欠点でしょうか。

佐藤信夫
『レトリック認識』
講談社学術文庫
定価:1,050 円 (税込)
ISBN978-4061590434

時代小説の文章は難しい。

2007-07-29 03:17:42 | Criticism
物書きは、それぞれ独自の文体を持っています。
もちろん、内容や目的によって何種類も使い分け/書き分けはしますが、これぞという「決め玉」は必ずあるでしょう。

小生の場合では、ニュートラルな現代語に江戸下町方言をまぶしたような文体、かつ一人称の語り、ということになるのね(江戸下町方言だけだと、落語の活字化のようになってしまい、文章としてはちょっと読みにくい)。

各々の物書きの得意とする文体には、かなりの個性が現れているので、そこには読み手の趣味に合わないものもあります。
それは趣味の問題なので、よい文章か悪い文章か、ということとは関係がありません。

何で今回このようなことを書き付けているかといえば、かなり癖のある文体で書かれた小嵐九八郎『悪たれの華』を読んだからです(ああ、江戸時代の花火の話ね)。

小生、この人の作品を読むのは初めてなので、他のものがどのように書かれているかは分りませんが、少なくと、この作品は、趣味には合いませんでした。そうなると、読むのが辛くなる。必然的に読書速度も遅くなるので、読書の爽快感の一つが失われる、ということになります(一種の「ピカレスク・ロマン」なんだから、爽快感がなくっちゃね)。

さて、内容はともかくとして、「癖のある」ところを引けば、
「――一人。
年が明け、早、卯月四日。
玉屋市郎兵衛は、(中略)今は、一人歩く。」

「みんな、銭、金、銭を要する。
いや、独立しないと技は鍵屋に奪われる。独り立ちせねばなるまい。鍵屋からの独立不可は不文律、初代玉屋は泥棒のならず者の例の外だった。
銭金と、独り立ち……。
二つとも達したい、焦がれるほどに。
遠過ぎる……。」
といった具合。

また、用語にも独自の使い方があって、
「この火炙りの刑の底での、足掻きの志だ。ゆめ、忘れてはならない。」

「啖呵というのではない、この五十幾年の五助の生きてきた史(ふみ)から漏れ出る本音だろう。」
「足掻きの志」「生きてきた史」、分ったようで分らない表現ですね。

これらの特徴は、江戸時代の人間に近代意識を持たせたことによるのでしょう。つまり、状況が江戸時代なのに、主人公は近代人的な罪悪感や贖罪感などを持っている。
現代小説なら翻訳語や外来語で表せばいいところを、時代小説ということで、持って回った言い回しとなってしまう。

というのが、この文章が、小生の趣味に合わない最大の原因だと思われます。
教訓:時代小説の登場人物に近代意識を持たせたい場合には、読者に分りやすくさせる工夫が必要。「地の文」に特定の役割を与える、とかね。

小嵐九八郎
『悪たれの華』
講談社
定価:2,415 円 (税込)
ISBN978-4062135085

「並行世界」と歴史評論

2007-07-28 02:21:59 | Essay
SF 系の物語を読んでいる人には、何をいまさら感があるでしょうが、英国の科学誌「ネイチャー」7月5日号に「並行世界がいっぱい」というタイトルの巻頭社説が載ったそうです。

フィクションの世界では、とっくにパラレル・ワールドは当たり前の考え方になっていて、「親殺しのパラドックス」などは、もう古いテーマになっています。
しかも、SF プロパーな作品だけではなく、かなりポピュラーなものにまで浸透しています(例:マイケル・クライトン『タイム・ライン』)。

この考え方が歴史学へ影響を与えると、「歴史 if 」の肯定ということになるんでしょうね。
というのは、従来のリニア型の歴史観だと、「歴史 if 」について語っても意味がなかった。なぜなら、「既に過ぎてしまった歴史」は改変不可能で、「あったかもしれない歴史」などは存在しえない、と考えられていたから。

ですから、SF でも、歴史を改変しようとしても、歴史自体の持つ強い力で元の形に戻ってしまう、という内容のものが多かった(例:半村良『戦国自衛隊』)。

ところが、並行世界という考えが普及すると、歴史評論の世界でも、丸谷才一・山崎正和『日本史を読む』のように、ヒストリカル・イフを積極的に肯定することになる。
「ヒストリカル・イフを言うことは禁止されていますが、あれはおかしい。補助線を引いて過去をかえりみることは効果的な手口ですよ。そうでなくても日本人の学問は想像力が貧弱なのに、それが頑固な史的必然論一点張りのせいで、いよいよ堅苦しくなっています。」
というのが、丸谷才一の発言です。

ですから、今までクリシェとして使われていた、「歴史に『もしも』はありえないというが……」や「歴史の if は禁句であるが……」などは、もはや必要がないでしょうね。

最近の拾い読みから(165) ―『ドーダの近代史』

2007-07-27 05:33:20 | Book Review
タイトルを見た時には、嫌な予感がしました。
というのは、とてつもない冗談を読まされるのではないかと感じたからです。

何せ「ドーダ」ですからね。
これは東海林さだおが『もっとコロッケな日本語を』で言い出したことばだそうですから、「とてつもない冗談を読まされるのでは」との危惧も当然のことでしょう。

さて、東海林さだおによれば、
「ドーダ学というのは、人間の会話や仕草、あるいは衣服や持ち物など、ようするに人間の行うコミュニケーションのほとんどは、『ドーダ、おれ(わたし)はすごいだろう、ドーダ、マイッタか?』という自慢や自己愛の表現であるという観点に立ち、ここから社会のあらゆる事象を分析していこうとする学問である。」
ということだそうです。

著者によれば、これを敷衍化して、
「定義 ドーダとは、自己愛に源を発するすべての表現行為である。」
となり、この視点から、前半は「水戸学」と西郷隆盛、後半は中江兆民の思想を分析していくことになります。

さて、分析する上で、わざわざ「ドーダ学」を提唱するだけの効果があったでしょう。それが問題です。

ちなみに、7月22日付け「朝日新聞」読書欄の野口武彦書評では、
「ドーダというと語感は軽いが、その言葉を使うことで何かが明瞭に見えてくる《用語視野》が開けているのは間違いない。」
となって、今一つ評者の歯切れが悪い。

であるのも、「ドーダ学」を「近代史を動かした自己愛の研究」(野口氏命名)とすると、さほどの目新しさはなくなるからでしょう。
いわば文学研究の方法論(著者は仏文学専攻)を、社会史に適応しただけという感が強いからです。

文学では「自己愛」あるいは「ナルシシズム」なんて視点は、別に目新しくも独創的でもない。
したがって、個々のエピソード(特に中江兆民のそれ)に、面白いものが紹介されてはいるものの、小生にとって「《用語視野》が開」かれる(普通「目からウロコ」と言う)読書体験ではありませんでした。

養老孟司『バカの壁』以来、ネーミング先行型の書籍が多いように思われるですが、如何でしょうか。

鹿島茂
『ドーダの近代史』
朝日新聞社出版局
定価:1,785円 (税込)
ISBN978-4022503022

音楽における身体知 その7

2007-07-26 04:26:01 | Essay
小生の理解するところ、禅とは「人間の隠されている能力を引き出そうとするもの」のようです(あるいは、「個体と環境という原初的二元論以前の以前の状態に、人間を引き戻す」と言ってもいいかもしれない)。その能力(状態)を「仏性」と呼ぶことに、禅の宗教性が見えます。

ですから、一般に思われているような、座禅を通じて「精神を安定させ、気分を安らかにする」といった功利的・現世利益的なものではありません。

いや、それどころではなく、本格的に禅修行をするということは、心神耗弱一歩手前まで自分を追い込むことにもなりかねないようです。けれども、座禅が重要な一階梯であることに変わりはない。

それでも、禅は歴史が長いだけに、それなりにカリキュラムが整備されていて、変な方向(例えばオカルト方向)へ行くのを抑えるようになっているのが大したもの。その辺は、昨日今日できたような宗教とは、わけが違います。ちなみに、オカルト的な体験を「悟り」と誤解することを「野狐禅」と呼ぶ。

「仏性」を引き出すための修行の一つが、よく知られている座禅。基本的な原理は、身体をある状態に置いて、それに伴う精神面の変化を起こさせようとする、というものらしい(多少なりとも医学的に言えば、呼吸を整えることにより、失調した自律神経を正常な状態に復元する)。道元は「座禅は習禅にあらず、大安楽の法門なり」と述べています。

身心二元論的に理解すれば、座禅の結果、身体と精神のインターフェイス領域に変化が起きるようです(ただ、禅家は心身一元論なので、精神領域寄りのことばで語っている。いわく「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」「寂然として清楽ならん」などなど)。

前回「音楽における身体知 その3」で、書の身体性について触れました。今までとは異なる身体の運動を行うことは、心理にも変化をもたらします。ましてや、その運動に快感が伴うとすれば、心理の変化も急速度を持ち始めるはず。

小生まだ、その段階にまでは至っていないので、今のところ推測するだけであります。

それでも、美意識の多少の変化は感じます。絵や書を見るときに、作者の運動性を再現してみることができるようになりました。書では特に書き順(ある種のリズム)と書いた時のスピード(余談ですが、学校で教えている書き順なるもの、大きな視野での歴史的根拠などないのですね。中国書史に名の通った文人墨客でさえ、今日の「正しい書き順」で書いてなどいないのですから)。これをイメージ上で再現してみると、なかなか面白い。

書家が何を考えていたかが分かる、とまでは申しませんが、生理的な体質のようなものは、ぼんやりと見えてくる。その書が、あまり好きになれない人は、体質が小生とは正反対のことがやはり多い。

ピアノなどの楽器を演奏できる人が、他人の演奏を聴くときに、どのような感覚を抱くのか、是非一度取材してみたいところです。

朝顔のつるは左巻き?

2007-07-24 03:46:56 | Essay
今年は、朝顔の苗を植えるのを忘れておりまして、塀が何となく寂しい気がする。しかし、このような不順な天候ですと、朝顔の育ちは如何なものなのでしょうか。

さて、朝顔というと、どうしても「なぜ、朝顔のつるは左巻きになるのか」との疑問が常に浮かんできます。実は、あるところで原稿を書き、それへのある程度の解答も得られたのですが、今一つしっくりしないところがある。

そこで、その原稿を再掲載しまして、読者の方々のご意見をお聞きしたいと思います。ぜひ、明答をお願いします。
小学校の理科の時間に、「朝顔のつるは左巻き」と習った覚えがあります。もちろん「左巻き」というのは上から見た場合で、支柱を中心にして左へ左へとつるが伸びていくことを示しているのは、言うまでもないことでしょう。
それでは、なぜ「左巻き」になるのか、ということまでは小学校では教えなかったと思います。今、理由を説明しろと言われても、すぐには答えられない、だからかえって正確な理由が知りたい。
それは、誰しも同じようで、HPをのぞいてみると、いろいろな理屈がつけられていて面白い。
いかにも科学的らしいと思われるけれども、よく考えるとちょっと待てよ、というのが、「コリオリの力」説。「コリオリの力」というのは、地球の自転に伴い、地球上の運動する物体に現れる見かけ上の力のことですな。北半球の台風は左巻きの渦をつくり、南半球では逆になるのは、この力が働いているためと普通説明されているようです。
朝顔のつるに「コリオリの力」が働いているからですって?
これは、風呂の水を排水孔から抜いたときにできる渦が、北半球と南半球では逆になる、なぜなら「コリオリの力」が働いているからだ、という俗説と同じ位のおかしな説明であります。
「コリオリの力」は、そんなに大きなものではない。風呂の場合は、排水孔の形や大きさによって渦の方向が異なることが、既にわかっています。同様に、朝顔のつるを、ある方向に巻かせる力は、「コリオリの力」などではない。むしろ遺伝子に原因を求めた方がよろしいでしょう。
ここで「では、また」と言って文章を終えたいのですが、実は、以上は前説なのでありました。
小生が育てている朝顔は、一本棒の支柱ではなく、平面のラティス状のものにつるを伸ばしています。すると、つるは直線的に上へ上へと伸びていく。もちろん、途中でラティスの斜めの細い板をくぐったり、またぎ越したりしてではありますが。
いずれにしても、普通の螺旋状のつるの伸び方ではない。
こうなってくると、どのような法則でつるを伸ばしていくようになっているのかが、さっぱり分からなくなってきました。
どなたか、ご存知の方がいらしたら教えていただきたい。
なにしろ、毎朝、朝顔にいくら聞いてみても教えてくれないものですから……。

三河屋幸三郎について三たび

2007-07-23 04:42:08 | Person
以前に読んだ森まゆみ『彰義隊遺聞』に、三河屋幸三郎のことがありましたので、ご紹介しておきます(とりあえず、三河屋幸三郎のことは、これにて終了)。

基本的なことは、何回か書いたとおりですが、新しい事実としては東京日日新聞社会部編『戊辰物語』(万里閣書房、1928)には、幸三郎の職業を、「人足頭で侠客」としているそうですが、何か証言なり根拠なりがあったのでしょうか。
高村光雲や光太郎の書いたものだと、どう考えても「錺職の問屋」ないしは「美術品貿易商」としか解釈できないのですが。
なお、父親の名前は「與平」だそうですから、新字体では「与平」となります。

以下、少年時の経歴や戊辰戦争までのエピソードは、前述したとおり。

むしろ、新情報は、戊辰戦争以降のこととなります。
「明治維新後、道路拡張で神田筋違見付が破壊されるとき、三幸は『徳川氏の遺跡をを没却するものだ』と憤慨し、たまたま神田明神の祭礼で賑わっていたが、戸を閉じて何らの祝意を表しなかった。
遷都となって明治天皇が東京に向い、その祝いとして東京市民に政府より酒肴料を下付したことがあった。神田区あたりでも市民たちは狂喜乱舞したが、三幸一人は徳川氏の瓦解を嘆じ、家に忌中の札を貼って閉じ籠った。町内に空家があり、そこに集った町衆が花車を入れ、大騒ぎするのを聞くに忍びず、三幸は金をもってこの空家を買い取り、集った者たちを追い払ったという。」

こうなると「畸人」というに近くなる。
伴蒿蹊の『近世畸人伝』によれば、「畸人」とは、「一つは世人に比べて〈行ない〉が〈畸〉であるといわれ、中江藤樹や貝原益軒等の仁義忠孝の人」、そして、もう一つが「人としては「畸」であるが彼らの人間としての在り方は〈天〉に、あるいは〈自然〉にかなった生き方をした人たち」ということになります。
幸三郎の場合は、この二つを兼ねたような「畸」でありましょう。
ちなみに、森まゆみは、
「江戸っ子の気の変りやすさを三幸は苦々しく思い、明治の世に生き残った自分の孤独を感じたに違いない。」
と書いています。

また、幸三郎の場合、維新以前から「侠気」を持っていました。
「侠」とは、「自分の損になるを承知の上で、止むに止まれず行動すること」を指すようです。
「彰義隊が結成されると、三河屋はその忠義に感じて家産を傾けて応援した。」
こととか、
「大禅仏磨とともに(彰義隊士の)埋葬にしゃかりきになった」
ことなどが、これに当たるでしょう。

さて、「侠」と「畸」の人、三河屋幸三郎の子孫の方というのは、生きていらっしゃるのでしょうか。
血縁者の口碑に残る人物像を訊いてみたいものです。

山国隊の兵式と鼓笛隊について その2

2007-07-22 04:18:33 | History
前回の続きです。
山国隊の編制に鼓士が登場したところから。

当初、鳥取藩からの山国隊の調練は、蘭式のそれでした。
前回出てきた鳥取藩士足羽徳治郎は、藩の兵制を蘭式から仏式に転換します(蘭式は仏式の影響が大きいので、転換に当たっての混乱は少なかったと思われる)。
それに伴って、山国隊も仏式に転換します。

この調練は江戸で行なわれ、軍楽とは関係ないのですが、特記すべきは、
「江戸滞在中に何度か射撃訓練が行われ、山国隊は常に良好な成績を収めた。平素、山里での狩猟で銃の扱いに慣れ親しんだ経験がミニエー銃の操作にも遺憾なく発揮された。」
ということです。
これは、主たる構成員が名主階級であるにもかかわらず、従士階級の成績が良かったということを示すのでしょう(名主は、林業を主に営んでいた)。

前回述べたように、この段階で、山国隊の編制に初めて鼓士が現れます。
その名を、浦鬼柳三郎といい、本論文の著者によって、次のような経歴の持ち主であると推測されています。
「当時長崎海軍伝習所で軍楽を学んだ旗本たち(例えば、関口鉄之助!:ブログ主註)が江戸に帰って私塾を開いたというから、恐らく浦鬼柳三郎はこうした場所で軍楽を学んだ御家人の二、三男辺りであろう。故に彼の打ち鳴らす太鼓の拍子は蘭式であったはずである。」

ここに山国隊と『行進曲』との接点があるのです。
小生の仮説ですと、『行進曲』(=『維新マーチ』)の原型は『ヤッパンマルス』であり、それは長崎海軍伝習所で作曲された、と考えているからです。
また傍証としては、浦鬼が学んだような私塾では、「5マルス」の一つとして『ヤッパンマルス』が教えられています(篠田鉱造『幕末百話』による)。

山国隊では、その後、次のような動きがありました。
「明治元(1868)年9月26日、鼓士大河原万治郎を当分雇いとする。10月5日夜より吹笛・太鼓の稽古を始め、7日には吹笛家鳥山嘉司馬が来隊し吹笛を指導、9日には御家人の三男丹羽春三郎少年を鼓手に召し抱えている。吹笛家鳥山嘉司馬の出自は不明だが、山国隊の伝承に『旗本から軍楽を習った』とあるので、或いは旗本なのかもしれない。」

さて、ここで、今日のような『行進曲』の要素が出揃いました。
蘭式の小太鼓、吹笛、『ヤッパンマルス』です。
ですから、当初考えていたようなフランス兵式の影響ではなく、むしろ幕臣系の蘭式の影響が強かったということになります(というのも、ある意味当然で、仏式はラッパ信号を使っていたのだから)。

以上のような論文をご紹介したわけですが、小生、意外に幕臣系の影響が大きいことに、実は驚いているところです。
他のジャンルも含めて、新政府が積極的には評価しようとしなかった(むしろ隠そうとした節もある)幕臣系の人々が、明治の近代化に与えた影響を再評価すべきでしょう。