一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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歴史書の文体と小説の文体 その5

2007-11-06 04:05:46 | Criticism
事実の記述で押し通したような文章に、書き手が突然現れるような手法を、デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』では、「作者の介入」"The Intrusive Author" と呼んでいます。

ロッジは、「作者の介入」には、次のような効果があると述べています。
「我々が小説を読むのは、ただ単に物語を楽しむためばかりではなくて、世界をより広く知り、より深く理解したいという欲求によるものでもあり、作者の声による語りの技法は、そのための百科辞典的知識と処世訓を作品に組み入れるのにきわめて便利な語り方なのである。」
と。

さて、ここでは「作者の介入」をロッジ的な明示的「作者の介入」だけではなく、より幅広く捉えてみたいと思います。
「ロシア側の最大の不幸は、この決戦の時機に、各艦がどこへ行っていいのかわからなくなったことであった。
 その混乱というのは、名状しがたい。旗艦ツェザレウィッチは司令塔に死人をのせたまま、狂ったような円運動を続けている。二番艦レトウィザンがはじめ左転し、ついで右転した。」(司馬遼太郎『坂の上の雲』「黄塵」)
第三人称の純客観体(=歴史書の文体)で書かれていると思われがちな司馬ですが、微妙に作者の価値判断を含めた表現を行なっている。

例文の場合でいえば、「最大の不幸」「名状しがたい」「狂ったような」といった用語の使用です。
中立的な用語を使う、禁欲的な第三人称の純客観体に対して、このような作者の価値判断を含んだ非中立的な用語の使用を、ここでは〈非明示的な「作者の介入」〉と呼んでおきましょう。

逆に表現すれば、〈非明示的な「作者の介入」〉がなければ、『坂の上の雲』も味も素っ気もない作物(さくぶつ)となって、これほどの読者を得ることはできなかったでしょう。
読み手は、無意識の内に、作者の価値判断を受け入れ、世界観を共有することになるのです。

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