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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

今日のことば(120) ―久野収

2006-04-30 11:59:43 | Quotation
「出来得るかぎり無暴力であって、しかも徹底的な不服従の態度、出来得るかぎり非挑発的であって、しかも断固たる非強力の組織、これのみが、平和の論理のとるところをやむなくされる唯一の血路である、といわなければならない。人人は、普通このような態度、このような組織を通じて、自己の目的を実現する運動を、《受動的抵抗の運動》Movement of Passive Resistanceと呼んでいるが、平和の論理の積極的な第一歩は、戦争反対の目的のために、この運動を果敢に実行する信念と組織とエネルギーの如何にかかっている。」 
(久野収「平和の論理と戦争の論理」)

久野収(くの・おさむ、1910 - 1999)
哲学者。1934年京都大学文学部哲学科卒業。日本で初めての人民戦線運動を組織し、1937(昭和12)年、治安維持法違反で検挙される。戦後は昭和高商、京都大、関西学院大、神戸大、学習院大などで、論理学・哲学を教え、平和問題懇話会、憲法問題研究会、ベ平連などで指導的役割を果たした。大阪・堺市の出身であることから、2004年、旧蔵書約2,000冊は大阪府立中央図書館に寄贈された。

〈テロリズム〉の定義は何であろうか?

アメリカ合衆国憲法修正第2には、
「規律ある民兵は自由国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵害してはならない」
と「武装の権利」を人びとに認めている(この項目が、アメリカを〈武器社会〉とし、凶悪犯罪の温床ともなっている)。

その武装権の基本的考えは、
「自己および地域社会の生命や財産を守る市民の権利を国家に譲り渡さない」
ということであると同時に
[国家への異議申し立て能力を確保する」
という側面をも持っている。
であるから、市民は、
「政府が圧政に転じたならば、いつでも自己の武器を持ってそれから身を守り、闘い、倒す自由=権利」
を持っているのである。

翻って、現在のイラク国民を考えた場合、アメリカ合衆国憲法が普遍的な人民の権利を示しているとすれば、彼らにも「武装の権利」があるのは当然ということになる。
したがって、彼らには「政府が圧政に転じたならば、いつでも自己の武器を持ってそれから身を守り、闘い、倒す自由=権利」があり、かつ、どのような形にしろ〈侵略者〉をも武器で撃退する権利がありはしないか。
フセイン政権を武器で倒すことは認めても、イラク国民にとって「〈圧政〉を敷く〈侵略者〉」としてしか見えない勢力を武器を倒すことは認めないというのは、ダブル・スタンダードではないのか?

それをも〈テロリズム〉と呼ぶことができるのか?

倫理的/原則的には、久野の述べるように、
「戦争を挑発する勢力が、組織と強制と暴力によって行動するのに対し、平和を守る勢力が、それと同じ仕方で対抗し、相手の挑発に答えて、積極的に戦うとすれば、平和の論理は、原理的には、自らの論理を放棄し、相手の論理に屈服しているのである。」
ということであろうが、現在のイラクにおける〈テロリズム〉を、まだ生きていたとすれば、久野はどのように考えていたのであろうか。

*ちなみに「ハーグ陸戦条約付属書〈陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則〉」の「第一款 交戦者 第一章 交戦者の資格」によれば、以下の4条件を満たした場合、民兵・義勇兵にも条項が適用されることになる(いわゆる「ゲリラ」に適用されない、とするのは誤り)。
 1. 部下の責任を負う指揮官が存在すること
 2. 遠方から識別可能な固有の徽章を着用していること
 3. 公然と兵器を携帯していること
 4. 戦争法規を遵守していること

今日のことば(119) ―尾崎行雄

2006-04-26 10:29:50 | Quotation
「彼等は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へてありまするが、其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」
(1913年、桂太郎に対する弾劾演説)

尾崎行雄(おざき・ゆきお、1958 - 1954)
政治家。号は咢堂(がくどう)。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。
慶応義塾中退。新聞記者から官僚になるが、「明治十四年の政変」(1881) で下野。立憲改進党の創立に参加、第一回総選挙で衆議院議員となる(その後、連続当選25回)。1903(明治36)年、東京市長の職に就く。1913(大正2)年、憲政擁護運動の中心となり、上記の弾劾演説を行なう。その後、普通選挙運動の先頭に立つ。1922(大正11)年、犬養毅の革新倶楽部に属するが、政友会との合併に反対し離党、以後、無所属として一貫する。戦時中、大政翼賛会による選挙を批判、戦後に、名誉議員の名称を送られる。

尾崎行雄によって批判された、桂太郎に代表されるような、政治的態度には、近代天皇制のはらむ問題の2面が現われている。

その1面は、天皇の神聖視(「現人神」化)、「国家神道」の崇拝対象としての天皇観である(国家機関としての〈天皇〉とは別に、〈神聖天皇〉と呼ぶことも可能であろう)。
このような「国家神道」は、
「日本は太陽神の子孫(=天皇)の永遠に統治するところであり、世界の中心である。と同時に、その秩序原理は世界全体を覆い尽くすべきである」(三谷博『明治維新とナショナリズム』)
という観念を中心に据えている(「国体」観念)。

したがって、「玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へ」ることが、有力な政治手段となり得る(〈神聖天皇〉の権威を借りた、より極端な例としては「統帥権干犯問題」を想起)。

また、もう一面は、政治家・官僚の無責任体質に結びつく、明治憲法上の政治構造の問題である。

明治憲法上、政治家・官僚は天皇に対して輔弼(ほひつ。天皇の権能行使に対し、助言を与えること。 「国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任ず」)する責任しかない(下世話な言い方を敢えてすれば、政治家・官僚は天皇に下駄を預けてしまうわけである)。
そして、輔弼された(下駄を預けられた)天皇は、「天皇無答責(責任を問われない規定)」を憲法で定められているため、ここで最終的な責任は雲散霧消してしまう(憲法論で天皇の戦争責任はない、とする論拠はここに存する)。

丸山真男の言う「無責任の体系」である(丸山は、より精緻に「既成事実への屈服」と「権限への逃避」という要素に分けて分析しているが、大掴みなところでは、上記の内容に誤りはあるまい)。

ちなみに、小生が今読んでいる半藤一利『昭和史 戦後篇』には、
「戦後盛んに言われた日本の無責任体制そのものといいますか、実際の日本の政戦略はどこにも責任がない、果して誰が真の責任者なのかわからない形で決められていったのです。ちょうど玉ねぎの皮を一枚一枚剥(む)いていくと、最後に芯が亡くなっていって雲散霧消するようなもので」
との記述がある。

尾崎行雄のこの弾劾演説には、そこまでの射程があったように思える。

今日のことば(118) ― H. J. マッキンダー

2006-04-21 11:45:18 | Quotation
「東欧を支配する者はハートランドの死命を制する。ハートランドを支配する者は世界島(ワールド・アイランド)の運命を決する。そして世界島を支配する者はついに全世界に君臨するだろう。*」
(『デモクラシーの理想と現実』)

 *Who rules East Europe commands the Heartland :
  Who rules the Heartland commands the World-Island :
  Who rules the World-Island commands the World.


H. J. マッキンダー(Halford J. Mackinder, 1861 -1947)
英国の地政学者。「現代の地政学の開祖」ともいわれる。
「一八六一年に英国のリンカーンシャーで生まれた。若い頃から周囲の自然が好きで、とくに生物学に深い興味を寄せたが、オックスフォード大学では法律を学んで、弁護士(バリスター)の資格を得ている。しかしながら、その後も彼の英国の自然にたいする関心と情熱はやみがたく、広く国内を旅行して、自然科学と人間社会を結びつける中間的な概念としての "新しい地理学(ニュ―・ジオグラフィー)" を提唱し、学会の注目をひいた。とりわけその『英国と英国の海』(Britain and the British Sea, 1902) は、彼の自信にみちた作品で、英国の地理学をはじめて学問の体系として浮上させた名著として知られている。
(中略)
さらに彼は一九〇四年に、その頃ロンドン大学に新設された政治経済学院(the London School of Economics and Political Science) の院長に就任し、その後約二〇年にわたって同学院の経営に専念するかたわら、経済地理の講義をつづけた。この学校の卒業生や留学生のあいだからは、やがて英本国ばかりでなく、英連邦諸国の政治家や外交官が輩出しているので、その令名は世界的に名高い。」(曽村保信『地政学入門』)

地政学というと、どうしてもカール・ハウスホーファーのような誇大妄想的な学問を連想してしまう。しかも、ナチス・ドイツの東欧侵略の片棒をかついだというイメージが強いので、より一層怪しげな/トンデモな学説と思ってしまう。

けれども、マッキンダーを開祖とする英国系の地政学を見てみると、ごく常識的なことがらを地理学や政治学の用語で語っているに過ぎないことがわかる。
特に、
「彼の地政学を一貫しているのは、主として交通の手段を意味するコミュニケーションの発達が、いかに歴史を変えてきたか」(曽村、前掲書)
という問題意識から生まれてきたことを知れば、一層のことであろう。

このような見方で、日本の歴史を考察するとどうなるか。
曽村の前掲書には、小生の興味関心のある「開国」前後から明治維新にかけての記述はないが、日露戦争については、次のように述べてある。

19世紀のロシア帝国(すなわち、マッキンダーの言う「東欧を支配する者」)は、政治的支配力を失いつつあったオスマン帝国のヨーロッパ領をめぐって、バルカン半島への進出を狙っていた(これを「ロシアの不凍港獲得のための南下政策」と見るのは当らない。ランド・パワーであるロシアの、ユーラシア大陸の心臓部(ハートランド)の支配権を獲得しようという動きなのではないか)。

そして、ロシアと同一方向への進出線を持っていたのが、ドイツ帝国。
また、ロシアとドイツとの関係はといえば、
「当時のロシアはドイツからの借金で首がまわらず、また国内の産業もドイツの資本に押さえつけられていて、そのままでゆけば、いずれヨーロッパは、完全にドイツの勢力範囲のなかに吸収されてしまう心配があった。それでロシアは、一八九四年にフランスと秘密同盟を結んで、バランスの回復をはかろうとした。が、一方でドイツの皇帝(カイゼル)ヴィルヘルム二世はその圧力をかわすために、ロシアの宮廷内部の親独的勢力を通じて、しきりに露帝(ツアーリ)ニコライ二世の関心を極東に振り向けようとした。」(曽村、前掲書)
との状況であった。

そこで、シー・パワーである大英帝国と同盟を結んでいた日本が、ロシアとの戦争を起こさざるをえなかったというわけである(つまり、イギリス対ドイツの「代理戦争」を、日本対ロシアという形で行なったのが「日露戦争」だ、という考え方もできる)。

ことほどさように、地政学によって、物の見方が、また違ってくることは確かなことであるようだ。

参考資料 曽村保信『地政学入門―外交戦略の政治学』(中央公論社)

今日のことば(117) ― 陸羯南

2006-04-13 07:36:20 | Quotation
「一国政府の腐敗は常に軍人干政のことより起こる」
(『武臣干政論』)

陸羯南(くが・かつなん、1857 - 1907)
明治時代のジャーナリスト、評論家。陸奥弘前に津軽藩近侍茶道役坊主頭の子として生まれる。本名は実(みのる)。東奥義塾・宮城師範学校を経て、1876(明治9)年、司法省法学校に入学するが、1879(明治12)年、前述の原敬などとともにストライキを起こし、退学させられる。官吏となったが、大隈重信外相の条約改正案に反対して退官する。1889(明治22)年、新聞「日本」を創刊。社長兼主筆として論陣を張る。社には、福本日南・国分青崖・三宅雪嶺・小島一雄・安藤正純・長谷川如是閑・正岡子規・中村不折などを擁した。当初国民主義を唱えたが、日清戦争後は自由主義的・立憲主義的論調を打ちだした。おもな著作物に『近時政論考』『原政及国際論』などがある。
ちなみに、丸山眞男は、「当時、政治的対立関係にあるはずの藩閥政府と容易に妥協する民権論者が多いなか、羯南はナショナリズムとデモクラシーの綜合を意図し、豊かな世界性と進歩性を備え、その主張を実践として貫いた」として評価している。

上記引用は、1892(明治25)年、陸軍大将のまま、第2次伊藤内閣(1892 -96) で司法大臣(文官)をつとめるなど、専横が著しい長州軍閥の巨頭山県有朋を批判・攻撃したもの。

そのほかに、
「薩長人のほかは枢要の地位を与えずときめおる者、または土(佐)人のほかは幕僚に入れずとする者、もしくは肥人のほかは手下に置かずとする者」
と、薩長土肥による政界・官界の独占状況を指摘しているが、
「明治二十一年七月現在で、陸軍将官四十二名のうち、長州出身は十六名、薩摩は八名で合計すると五七パーセントを占め、同じく海軍将官二十名のうち長州は一名、薩摩は九名というぐあいで、薩長閥といっても長州の陸軍、薩摩の海軍という棲み分けがほぼ形成されていた」(秦郁彦『統帥権と帝国陸海軍の時代』平凡社)
という事実が、陸の指摘が正しいことを裏付けている。

また「長州の陸軍」は、山県から桂太郎・川上操六・児玉源太郎・寺内正毅と、後継者たちによって、引き継がれていくのである。

今日のことば(116) ― 原 敬

2006-04-12 10:06:25 | Quotation
「戊辰戦役は政見の異同のみ。当時、勝てば官軍、負くれば賊との俗謡あり、その真相を語るものなり。」
(「維新殉難五十年祭」祭文)

原敬(はら・けい/たかし、1856 - 1921)
政治家。南部(盛岡)藩家老加判役の家に生まれる。明治政府によって「賊軍」として遇された盛岡藩関係者として苦学した後、1876(明治9)年、司法省法学校に入学するが、1879(明治12)年、陸羯南・福本日南・国分青崖・加藤拓川などとともにストライキを起こし、退学させられる。同年、郵便報知新聞の政治記者となる。その後、官界入りして外務畑を歩み、外務次官などを歴任。1897(明治30)年、官界を退き、大阪毎日新聞社社長となり、1900(明治33)年、伊藤博文を中心に結成された立憲政友会に参加、幹事長となる。1902(明治35)年衆議院議員に初当選、以後連続当選8回。第1次・第2次西園寺内閣、第1次山本内閣の内務大臣を経て、1913(大正2)年、政友会第3代総裁となり、1918(大正7)年9月、日本最初の本格的政党内閣を組閣し、総理大臣となるが、1921(大正10)年東京駅頭で暗殺される。

上記「維新殉難五十年祭」は、1917(大正6)年9月、明治元年から50年目に当り、旧南部藩の戊辰戦争での犠牲者を追悼してのもの。

原は、その日記に、
「他にいかなる評あらんも知らざれども、余の観念を率直に告白したるなり」
と述べている。また、
「今日においてその祭典を営むは彼らの霊を慰むるのみならず、また風教の一端ともならんか」
とも。

戊辰戦争での盛岡藩の戦死者は112人(奥羽越列藩同盟軍全体で6,089人)。
しかし、それらの戦死者は「賊軍」として扱われ、明治政府により、東北地方は「白河以北一山百文」と侮蔑のことばを投げかけられ、近代化の波からも取り残された。

原敬は、そのことばから号を採り、「一山」または「逸山」と称した。

参考資料 尾崎竹四郎『東北の明治維新ー痛恨の歴史』(サイマル出版会)

今日のことば(115) ― 井伏鱒二

2006-04-01 10:14:49 | Quotation
  コノサカヅキヲ受ケテクレ
  ドウゾナミナミツガシテオクレ
  ハナニアラシノタトヘモアルゾ
  「サヨナラ」ダケガ人生ダ

  (『厄除け詩集』)

井伏鱒二(いぶせ・ますじ、1898 - 1993)
小説家。広島県福山市生まれ。福山中学卒業後、早稲田大学文学部に進むが、大学を転々とする。1929(昭和5)年、『山椒魚』(『幽閉』を改題)などで文壇に注目され、1938(昭和13)年には『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞を受賞する。その他、戦後の代表作に『本日休診』『遥拝隊長』『駅前旅館』『黒い雨』などがある。太宰治の師としても有名。

上記の詩は、唐の詩人・干武陵の『勧酒』の和訳であるが、今や井伏の詩として人口に膾炙している。
念のため、原詩を引けば、   
  勧君金屈巵 君に勧む金屈(きんくつ)の巵(し)
  満酌不須辞 満酌辞するを須(もち)いざれ
  花発多風雨 花発(ひら)いて風雨多し
  人生足別離 人生別離足る 
である(「金屈の巵」とは「黄金製の取っ手の 付いている杯」)。

原詩では、季節は春であろうが、花は何の花か、定かではない。
これを「散るのも美しい」と見る「桜」を暗示させ(「サヨナラ」ダケガ人生ダ)、いかにも日本人好みに仕立て上げたのが、井伏の手柄であろう。

人口に膾炙するのも宜なるかな。

ちなみに、日活映画『幕末太陽伝』の監督として知られる川島雄三の著に『花に嵐の映画もあるぞ』が、藤本義一の著書に『川島雄三、サヨナラだけが人生だ』がある。

今日のことば(114) ― 蘇軾

2006-03-31 12:05:10 | Quotation
  余生 老いんと欲す 海南の村
  帝は巫陽(ふよう)をして我が魂(こん)を招かしむ
  杳杳(ようよう)として天は低く 鶻(こつ)の没する処(ところ)
  青山一髪 是れ中原(ちゅうげん)

  (「澄邁驛通潮閣二首 其ニ」)

蘇軾(そしょく、1036 - 1101)
北宋の政治家、文人。号は東坡(とうば)。1057(嘉祐2)年、21歳で進士になり、政治家としてスタートを切る。神宗時代、王安石の新法政治を批判して左遷され、杭州をはじめ諸州の地方官を歴任。湖州の知事のとき政治を風刺した詩が問題となり,1079(元豊2)年投獄ののち黄州に流される(この地で『赤壁賦』を作る。また書では『黄州寒食詩巻』が著名)。旧法党時代に一時復権するが、新法党の復活により、1094(紹聖1)年広東に配流され、常州で病死。
父・蘇洵( そじゅん)、 弟・蘇轍(そてつ)と共に、唐宗八大家に数えられる。

上記「澄邁驛の通潮閣」は、配流されていた海南島から、皇帝の命により本土に戻される途中(海南島北部の澄邁駅にある通潮閣)で詠んだとされる。

「余生を海南島の村で過ごそうかと思っていたが、天帝が巫女を使ってこの私の魂を、屈原のように呼び寄せようとしている。
通潮閣に昇ってみれば、遥かに天空は低くたれ込め、ハヤブサの姿が見えなくなるところ、青い山影が髪のように細い一線に見えるところ、そここそが、中原、すなわち中国本土なのだ!」

左遷と復権を繰り返した蘇軾は、その運命を持ち前の「楽観主義」で乗り切ったとされる。
「孫文が蘇軾を尊敬しているのは、悲運に遭っても、あくまで楽観的であったことである。これは孫文の生き方に似ている。」(陳舜臣『孫文(下)』)

辛亥革命以前の孫文とその周辺を描いた、この小説『孫文』の原題『青山一髪』は、そのような2人の「楽観主義」に注目してつけられた。

参考資料 陳舜臣『孫文(上)(下)』(中央公論新社)

今日のことば(113) ― R. シュトラウス

2006-03-29 10:13:28 | Quotation
「旋律が、目に見えない神から人間にもたらされたもっとも崇高な贈り物のひとつであることは、古典派のもっとも際立った音楽的創造物からリヒャルト・ヴァーグナーにいたるまでの音楽に明らかである。」
(『考察と回想』)

R. シュトラウス(Richard Strauss, 1864 - 1949)
ドイツの作曲家。ホルン奏者を父として、音楽的な環境のもとに育つ。18歳の時に作曲した『ヴァイオリン協奏曲』で賞賛を受け、21歳にしてマイニンゲンの宮廷音楽長に就任。ミュンヘンやヴァイマールのオペラ劇場の指揮者をつとめた後、ベルリンの宮廷オペラ劇場首席指揮者、同劇場音楽総監督、ウィーン国立オペラ劇場音楽総監督を歴任。1933年から35年まで、ドイツ音楽界の長老として帝国音楽局総裁に就き、戦後ナチスへの協力者として裁判にかけられるが、無罪となる。
交響詩『ドン・フアン』『英雄の生涯』『死と変容』『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』、オペラ『サロメ』『エレクトラ』『ばらの騎士』などの作品がある。

ハーモニーを持たない民族はあっても、メロディーやリズムを持たない民族は、まず考えられない。
ことほどさように、メロディーとリズムは、人間の(あるいはことばの)本質的な部分と密接に結びついているようだ。

しかし、リズムはともかくとして、現代音楽ではメロディー(旋律線)すらはっきりしない作品も数多く生まれている。
一つの原因として、A. シェーンベルクによる「十二音技法」の発明によって、音高システムが従来のものとはまったく異なったものになったことが挙げられよう。
「相互の間でのみ関連づけられた十二の音による作曲」というこの技法は、きわめて数理的な原理をもっているがために、かえって人間の耳には、旋律としては聴き取りにくいものとなった。

戦後現代音楽の旗手の1人だった E. ヴァレーズは、
「チャイコフスキーの愛好家に音楽とはなにかと尋ねてご覧なさい。そのあとに、ドビュッシーかベルリオーズの愛好家に同じことを尋ねてご覧なさい。ふたりはけっして同じ音楽について語りはしないでしょう。ひとりの人にとって音楽であるものは、もうひとりにとって音楽ではないのです。」
と語った。

同様の事態が、より細分化されているのが、現代の音楽事情ではないだろうか(そこでは、チャイコフスキーとドビュッシー、ベルリオーズは、むしろ同一グループに属している)。

参考資料 『作曲の20世紀 1』(音楽之友社)

今日のことば(112) ― スティーブン・J・グールド

2006-03-27 07:53:35 | Quotation
「人々が判断の道具を持つことを学ばずに、希望をおうことだけを学んだとき、政治的な操作の種が蒔かれたことになる。」 

スティーブン・J・グールド(Stephen Jay Gould, 1941 - 2002)
アメリカの古生物学者。ハーバード大学教授。バージェス頁岩で発見された化石を考察し『ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語』を著わす。また、進化を巡り『利己的な遺伝子』のドーキンスらを相手に論争を繰り広げる。米国で進化論教育の是非が問われれば科学者として矢面に立ち、広範な教養を基礎に『ナチュラル・ヒストリー』の月刊連載を1回も欠かすことなく四半世紀続け、『ダーウィン以来』『パンダの親指』『フラミンゴの微笑』『ニワトリの歯』『ワンダフル・ライフ』などの科学エッセイ集を刊行。
『個体発生と系統発生』はグールドの断続平行説とよばれる本格的で独創的な進化理論の大冊、『人間の測りまちがい』は自然に対する人間のスケールの取り方の問題を論じた注目すべき本。

グールドの言う「判断の道具」とは、論理的/科学的思考方法であり、「希望をおいうこと」とは、信念/信仰体系(=イデオロギー)と考えてもよいであろう。

権力者は、「論理的思考方法」を重視しているように振る舞うこともあるが(例えば、初等・中等教育での科学教育重視)、実際には、人びとに自らに都合の良い「信念/信仰体系」を信じていてほしい、と深く願っている。
いわく「愛国心教育」、いわく「道徳教育」などなど。

「愛国心」を抱くか抱かないかは、各人の自由な意思の問題で、国家が強制すべきものではないだろう(それは「俺を愛せ!」と無理矢理に命令することにも似ている)。
そして、その根拠には「論理的/科学的思考方法」とは不適合な部分が出てくるのも確かなこと(全面的に「正しい」歴史的過程を踏んできた国家などありはしない)。

グールドが直接に対象としているのは、疑似科学であり超科学であるのだが、このような「国家による信念体系の刷り込み/強制」も、その射程には入ってくるであろう。

今日のことば(111) ― 雲井龍雄

2006-03-25 08:48:11 | Quotation
「薩賊、多年譎詐(きっさ)万端、上(かみ)は天幕を暴蔑
(ぼうべつ)し、下(しも)は列侯を欺罔 ( ぎもう )し、内は百姓(ひゃくせい)の怨嗟を致し、外は万国に笑侮(しょうぶ)をとる。その罪、なんぞ問わざるを得んや。」

(「討薩檄」)

雲井龍雄(くもい・たつお、1844 - 70)
幕末明治期の米沢藩士。幼名猪吉(いきち)、龍三郎(たつさぶろう)と称する。1865(慶応1)年江戸詰となり安井息軒に学ぶ。1867(慶応3)年京に上り、倒幕派と交わるが、薩摩の戦略を批判したため危険になり、米沢に戻る。戊辰戦争で「討薩檄」を書き、米沢藩の奮起を求める。後、明治新政府の転覆を企てるが、発覚して死罪となる。

「討薩檄」は奥羽越列藩同盟各藩で広く読まれ、越後の河井継之助や会津の佐川官兵衛など将兵の士気を高めた。

奥羽越列藩同盟各藩の共通認識として、これは薩摩の私戦である、とするものがあった。確かに、戊辰戦争には、薩摩・長州藩の幕府からの権力奪取という面がある。
その面が、維新後にも現われ、西郷隆盛などの絶望を生むことにもなる。
「草創の始に立ちながら、家臣を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、頻りに涙を催」したのは西郷である。

維新後、雲井はその才を新政府に買われ、多くの意見書を提出するが、遂に取り入れられることなく、逆に迫害を受けることになる。
雲井は、新政府への不満分子を糾合、行動を起こそうとするが、内乱を企んだとして梟首され、その遺骸は小塚原に晒された。

享年27。辞世の詩は「死して死を畏れず、生きて生を偸(ぬす)まず…」であった。

参考資料 星亮一『奥羽越列藩同盟―東日本政府樹立の夢』(中央公論社)