一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

最近の拾い読みから(34) ― 『ボクラ少国民と戦争応援歌』

2006-07-31 11:14:40 | Book Review
著者の戦争体験を描いたノン・フィクションの代表作『ボクラ少国民』の番外編、あるいは音楽編。
お若い方のために、念のために言っておくと、「少国民」とは「少年・少女」の戦争中の言い換え語です。低年齢ではあっても、大日本帝国の皇国民としての自覚をもて、という意図から作られた用語。

その少国民の一人であった著者が、どのような音楽体験をしてきたかを、実際の歌に即して語っていく作品です。

その歌を一言で表すと「戦争応援歌」となる。
つまりは、
「そのごく一部を除いては、ほとんどがまさに、お国のための『死の応援歌』であり、聖戦の名のもとの侵略『戦争応援歌』であり、しかも、天皇教ファッショの讃美歌であった。」
ということです。

軍歌は、ことさら「少国民」のために作られたわけではないので省くとして、国民学校*の教科書での歌から。
*1941(昭和41)年から今までの「尋常小学校」という名称が「国民学校」と代わった。
「それまでの日本の公教育の総集編ともいうべき性質のもので、天皇教ファシズムを根底とした、総力戦体制のための皇国民作りの初等教育学校であった」

「一 日本 よい 国、
     きよい 国。
   世界に 一つの 
      神の 国。
 二 日本 よい 国、
      強い 国。 
   世界に かがやく
     えらい 国。」

といった歌『日本』が、教科書に掲載されていたわけです。

この歌の意図は、教師用「指導要旨」によれば、
「要するに国民精神の昂揚といふこと、情操的に国民の基礎的錬成といふことに直接深い関係を持つ教材である。この点を中心と考へて指導することが肝要である。」
となります。

そういえば、以前に「日本は天皇を中心とする神の国」と言った総理大臣がいましたが、彼は1936(昭和12)年生まれ。国民学校でこれを歌った世代になります。
初等教育での刷り込みが、いかに骨がらみで行なわれたかを実証する一例でありましょう。

本書では、このほかに、『無言のがいせん』『三勇士』『大東亜』『肇国の歌』などの学校での教材となったもののほかに、『英国東洋艦隊潰滅』『大東亜決戦の歌』『空襲なんぞ恐るべき』などが取り上げられています。

以上、ごく一部をご紹介しましたが、学校教育のみならず、音楽生活そのものが、戦争遂行に方向付けられていったことが、著者の体験上から詳細に語られているのが本書です。

山中恒(やまなか・ひさし)
『ボクラ少国民と戦争応援歌』
音楽之友社
定価:本体2,000円(税抜)
ISBN4276212820


*1985年初版発行。現在は朝日文庫版 (ISBN4022605723)、またはCD付きでクリエイティブ21版(ISBN4906559107) あり。

最近の拾い読みから(33) ― 『ものぐさ精神分析』

2006-07-30 08:35:56 | Book Review
異質なものに対して、拒否反応を感じることは、日常生活でもよくあることです。
普段食べ慣れないものに対する、拒絶したいという気持ちが、その例の一つでしょう。それを説明するのに、動物学的な知識を持ち出すこともない(そういう動物科学者もよくいるんですなあ)。
宗教的タブーや慣習など、文化の問題に還元できることだからです。

ですから「外国人嫌い」も、文化の問題であり、社会階層によってもありようが違ってくる(最終的には個人の問題に行きつくけれども、そこまで言ってしまうと、文学にはなっても、社会科学としては成り立たないからね)。

ところが、これを社会心理学的に分析すると、とんでもないことになりかねない。
それを行なったのが、岸田秀の『ものぐさ精神分析』所収の「日本近代を精神分析する―精神分裂病としての日本近代」です。

どうやら、現在でも同様なことを言ったり、書いたりしているから、1977年元版発行の(青土社刊)この文章は、彼にとっては日本近代史の見方として、原点となっているらしい(現在は、中公文庫)。
「ペリー・ショックによって惹き起こされた外的自己と内的自己への日本国民の分裂は、まず、開国論と尊王攘夷論との対立となって現われた。(中略)日本人の内的自己から見れば、それは真の自己、真実の伝統的日本を売り渡す裏切りであり、屈辱であった。この裏切りによって、日本は自己同一性の喪失の危険にさらされることになった。この危険から身を守るためには、日本をそこへ引きずりこもうとする外的自己を残余の内的自己から切り離して非自己化し、いいかえれば真の自己とは無関係なものにし、内的自己を純化して、その回りを堅固な砦でかためる必要があった。」
心理学用語でガチガチに固めたもの言いですが、つまるところ、外国のものはいやだという感情と、近代化のためには外国の文物を取り入れなければしかたがないという判断とが、心の中で互いに反発し合った、と言いたいようです。

次のような一節が「吉田松陰と日本近代」という文章にあります。
「内的自己から切り離された外的自己(幕府)は、もはや人格の統一(国民的統合)の中心たり得ず、ますます屈辱的(売国的)になってゆく。末期の幕府はほとんどフランス公使ロッシュの代弁者の位置にまで下落し、日本をフランスに売り渡すロッシュの内政干渉的勧告を唯々諾々と聞いていた。」

「集団心理は個人心理と同じ方法論で解明できる」と主張する著者にとっては、このような説明になるわけでしょうが、はたして江戸時代末期に、「国民」と呼べるだけの存在が集団としてあったでしょうか。
それが問題の第一。

第二に、開国は、「真の自己、真実の伝統的日本を売り渡す裏切りであり、屈辱であ」ると感じたのは、誰なのでしょうか。第一の問題ともかかわってきますが、「国民一般」という言い方はできないはずです。
「武士層」というのも、ちょっと無理でしょう。
というのは、「攘夷」という考え方には、さまざまなレヴェルがあるからです。
仮に「集団心理は個人心理と同じ方法論で解明できる」としても、その集団を特定しなければ、成り立ち得ない理屈だと思います。
「ペリー・ショックにひきつづいて、屈辱的開国を不本意ながら強制されたために人格的分裂を起こし、自己喪失の危険にさらされた日本国民は、その恐怖から逃れるためのつっかい棒を必要としたのであり、天皇制はまさにそのための好都合なつっかえ棒に向いていた。つまり、支配者の側から押しつけられなくても、天皇制を受け入れる心理的基盤は国民の側にもあったと思う。」
という文章を読むと、「日本国民」なる主体が出てきてしまう。
つまりは、開国は「真の自己、真実の伝統的日本を売り渡す裏切りであり、屈辱であ」ると、まだありもしない「日本国民」ほぼ全てが、感じたということになるのですが……。

ましてや、その心理的危機を乗り越えるために「天皇制」(近代天皇制のことなんでしょう)が、まだありもしない「日本国民」ほぼ全てに、受け入れられた、となる。
しかも、この当時、まだ一般にはさほど知られていない「天皇存在」が受け入れられる?

うーむ、ごく概説的な日本史の知識を元に、心理学者的「妄想」を繰り広げている、としか言いようがないですね、こうなると(酒を呑んだ席での駄法螺だったらしょうがないけど、そうじゃないんだから)。

「性から歴史まで文化の諸相を縦横に論じる」著という「売り」なのですが、少なくとも「歴史」に関しては触れない方がよろしいのでは。

岸田秀
『ものぐさ精神分析』
中公文庫
定価:本体920円(税込)
ISBN4122025184

最近の拾い読みから(32) ― 『戊辰戦争―敗者の明治維新 』

2006-07-29 11:40:34 | Book Review
多かれ少なかれ、戦前までの歴史観は、明治維新を正しいものとするために、必要以上に徳川幕府の制度や、江戸時代の文化を貶める傾向にあった。
そのため、幕藩体制は完全に行き詰まっていた、との評価がほとんど。

江戸文化についての見直しはあるものの、政治・経済に関しては、現在でも、なぜかほとんど変わらずに、
「幕府の外交の失敗――急激な自由化と通貨処理の失敗――は、国内政治とくに農村および開発途上にあった農村工業――それが工業の大部分であった――に壊滅的打撃を与えた。当時の飢饉もあって幕末の日本をいちじるしいインフレと経済不況におとしいれ、武士階層の生活を危殆にひんさせた。」(伊部英男『開国―世界における日米関係』)
との評価が、その典型だろう。

しかし、幕末から維新までの歴史を見ていた外国人にとっては、必ずしもそうとは言えない、との観察もあった。
幕末に来日したイギリス人ジャーナリストの J. R. ブラックは、遺著『ヤング・ジャパン』で、ほぼ次のように書いている。
「幕府のシステムは改革すればかなり使えるし、キーマンもいた。新構想*もすでに出ていた。だから、幕府が新しい政治を実施していたとしても、内戦の流血なしにできたであろう」(小島慶三『戊辰戦争から西南戦争へ』の紹介による)。

*〈新構想〉:オランダ留学帰りの西周(にし・あまね、1829 - 1897)をブレインとして立てられた構想(『議題腹稿』による)。
「慶喜は上院議長(一風斎註・諸大名による「上院」と、各藩1名の藩士による「下院」との二院制)と行政府の長を兼ねることになっている。大政奉還後に予定されていた諸侯会議が、慶喜を議長に選び、さらに新国家体制は旧幕府の行政機構を活用すると決めれば、議会制を加味した」(松浦玲『徳川慶喜』)

この路線以外にも、「諸藩連合政権」路線が選択肢としてはあった。
これは、
「公議政体論が現実化したものといえ、権力のあり方としては、天皇を形式的に頭部におき、諸侯会議が国政を決定するという形である。」

この路線は、西周・慶喜の〈新政権構想〉とも微妙に交錯する。
もし、この「諸藩連合政権」によって、一時的に西周・慶喜の〈新政権構想〉=大君独裁路線が後退したとしても、力関係によっては、元の構想へと揺り戻すことも可能なのである。
「この中での慶喜の占める位置は、諸侯会議のリーダーとなって強い権限を持つか、あるいは一大名としての立場しか与えられないか、かなりの幅があり、政局の推移、力関係によって流動的」
だったから。

しかし、倒幕派としては、上記いずれの路線も取らせるわけにはいかなかった。
なぜなら、彼らは薩長主導の「有司専制」路線をとっており、政治的な敗北は、自らの破滅を意味するからである(政治的主導権を奪われるだけではなく、軍事的な報復もありうる)。

倒幕派は、幕府を挑発しても(江戸および関東での、相楽総三による治安攪乱)、武力行使で他の路線を潰す、という手を取らざるを得ない。
時間を置けば、フランス軍事顧問団による幕府陸軍の増強整備が完成するのである。そうなれば、薩長二藩による軍事力では、幕府に拮抗できなくなる。

こうして、薩長二藩主導の、天皇権力/権威を前面に押し立てた「王政復古」クーデタが、実施されるのである。
「天皇など媒介にせず、だれがいま支配する力を持っているかについて、武家のあいだで赤裸々に争われたら、どんなにわかりやすかっただろう。武家ばかりではない。武家支配そのものに疑いを持つ下級武士や草莽層の活動も、天皇と結びつくというような厄介な思想構造を持たなければ、近世の武家支配の本質とそれへの対決という現実が、はっきりと目に映ったはずである。百姓一揆や都市の打ちこわしも、ええじゃないかも、政治目標をはっきりとつかみえたかもれない。それが、天皇などという面倒なものを引っぱり出したため、なにがなんだかわからなくなり、その混迷は、いまだに続いている。」 (松浦玲『徳川慶喜』)

佐々木克 (ささき・すぐる)
『戊辰戦争―敗者の明治維新』
中公新書
定価:本体735円(税込)
ISBN 4121004558

最近の拾い読みから(31) ― 『ペリーの白旗―150年目の真実』

2006-07-28 11:43:24 | Book Review
本書の内容をご紹介するためには、松本健一氏の『白旗伝説』(講談社学術文庫)に触れなければならない。

松本氏は、『白旗伝説』で「高麗環雑記」という史料を紹介。
この文書によれば、ペリーは初来航時に、
「日本が鎖国の国法をたてに通商を認めないのは天の道理にそむき、その罪は大きい。通商をひらくことをあくまで承知しないならば、われわれは武力によってその罪をただす。日本も国法をたてに防戦するがよい。戦争になればこちらが勝つのは決まっている。降伏するときは贈っておいた白旗を押し立てよ。そうしたら、アメリカは砲撃をやめ和睦することにしよう」(松本、前掲書)
という内容の秘密書簡(以下「白旗書簡」と呼ぶ)と、白旗2旒を幕府(直接には、交渉に当った浦賀奉行所与力・香山栄左衛門)に渡したという。

つまりは、ペリーは「砲艦外交」という強圧的な態度で、日本に接したというわけである。
この史料内容が、扶桑社版「新しい歴史教科書」の記事として載ったことで、偽書かそうでないのかが、一時喧しく論じられた。

本書は、改めて論争をたどり直し、偽書か否かを確認しようとするもの。

しかし、論争史の整理としてはまとまっているものの、著者が新聞記者であることもあり、結論は玉虫色。
別に玉虫色の結論が悪いわけではないが、ことは維新史・明治史の見方にもつながってくる。

というのは、白旗書簡を真とし、ペリーの「砲艦外交」の裏づけとする論者は、その後の大攘夷的「富国強兵」政策をも是とする傾きがあるからだ。
つまりは、西欧諸国による植民地化を避けるためには、武力を整え充実させるのは当然とするわけ。
「日本のその後の歴史は、この欧米諸国の帝国主義の恐怖に対する反応と危機管理の連続であった。」(伊部英男『開国―世界における日米関係』)
などが、その典型であろう。

また、その延長線上で、自国の独立のためなら、朝鮮や清国を日本の植民地化するのも、必然であるともする(山県有朋による「利益線」の考え方とほぼ同じ)。

けれども、白旗書簡が偽文書であることは、宮地正人、大江志乃夫氏などの論証のみならず、浦賀奉行所関連史料によっても裏付けられる(詳しくは、佐々木譲氏のHP「くろふねノート」などを参照)。

ここで、白旗書簡問題を離れて考えてみよう。

そもそも、ペリー来航を「危機」や「恐怖」として捉えたのは、一部の武士階層や上農階層であった。
大多数の一般民衆にとって、これは万博やオリンピックに匹敵する珍しいイヴェントであった。
「黒船の噂に人々がじっとしているわけがない。この前代未聞の怪物を一目見ようと大挙して繰り出した。」
「駄賃をはずめば、この種の小舟(野島村や瀬戸村の持ち舟)を利用して黒船見物に出られる。江戸の浜付きの村々からも小舟が繰り出した。その数はもっと多い。」
「ペリー艦隊の来航に見物人がわっと集まった。小船でやってきて艦隊を取囲む者、沿岸から艦隊を見守るかのように集まる者。
あまりにもその数が多い。」(加藤祐三『黒船異変-ペリーの挑戦』)
という状態で、幕府は取締を行わざるを得なかったほどである。

どうも「黒船ショック」としてペリー来航を捉える人びとは、この好奇心溢れる一般民衆の行動は視野に入れていないようである。

岸俊光
『ペリーの白旗―150年目の真実』
毎日新聞社
定価:本体1,700円(税別)
ISBN4620315907

最近の拾い読みから(30) ― 『天皇と日本人の課題』

2006-07-27 11:03:48 | Book Review
本書の内容は、
「史上最強と言われる平成象徴天皇制は本当に磐石なのか? 国民が自らの欲望を投影した理想像を皇室に演じさせているだけではないのか? 天皇制はグローバル化の時代を生き抜けるのか? 天皇の戦争責任問題はなぜ決着がつかないのか? 天皇を超越とした日本人のエートスはもはやなくなったのか? 天皇制が抱える問題点を根底から問い直し、国民が天皇から自立する意味と条件を提起する。」(「BOOK」データベースより)
と、根底的なところから、多元的に天皇制を問おうというもの。

しかし、ここでは、天皇制をどのような視点から捉えるか、というレファレンスとして読んでみよう。

著者は「天皇制の何が問題なのか」という項目で、次のような8項目を挙げて、天皇制批判の視座を整理している。

 1.「天皇制は民主主義と原理的に抵触する」とする政治哲学的批判。

 2.天皇制を補完する超国家主義の精神構造/政治意識を批判するもの。

 3.天皇制イデオロギーが大衆の宗教的意識を支配してきた、としての批判。

 4.「天皇制の王権一般に共通する側面とその固有な側面を析出しようとする人類学的な批判」。

 5.「天皇制は日本の固有性と優越性を主張することで国民の多元的な価値観を認めないとする批判」。(価値論的文化論的批判)

 6.「天皇制はナショナリズムの中核を形成して、国内外の他者に対して抑圧的・排他的に働くという批判」。(「価値論的文化論的批判の派生態」)

 7.「天皇制は長い伝統を装ってはいるが、じつは近代の国民国家建設期に発明された国民創出の装置にすぎないとする歴史的批判」。

 8.「昭和天皇の戦争責任追及にテーマを絞り込んだ天皇制批判」

8. はさておき、1. は言うまでもないことであるし(特定国家機関の長が世襲制によることの弊害を考えれば分るであろう)、2. は歴史的分析に役立ったとしても、今現在の問題としては、いかがであろうか(4. 7.2. と同様に見えるが、その根拠を明らかにするという点からは意味があるだろう)。

したがって、問題となるのは、天皇制支持層の分析としての3. や、5.6. ということになるのだろうが、小生自身の観点からすれば、そのよって立つ基盤を形づくってきた過程として、7. に意味があるような気がする。

なぜなら、それは天皇制のみならず、日本の近代を総体として批判することになるだろうから。

はたして、日本の近代は「明治維新」という形を通過しなければありえなかったのだろうか(日露戦争後の日本が「夜郎自大」化したのであって、それ以前は素晴らしかった、とする「司馬史観」を小生は疑う)。
「明治維新」を通過したために、軍事国家としての旧日本があったのではないのか(「富国強兵」! 「軍人勅諭」!)。
そして、その基底に「天皇制」があったのではないのか。

井崎 正敏
『天皇と日本人の課題』
洋泉社/新書y
定価:本体756円(税込)
ISBN4896917545

最近の拾い読みから(29) ― 『ペリー艦隊 黒船に乗っていた日本人―「栄力丸」17名の漂流人生』

2006-07-26 11:01:07 | Book Review
前回に引き続き、江戸時代末期の漂流のお話。

時代は前後するが、1853(嘉永6)年、浦賀に来航したペリー艦隊旗艦〈サスケハナ〉には、サム・パッチと呼ばれる日本人水兵が乗艦していた。
彼は、仙太郎という広島出身の若者で、樽廻船〈栄力丸〉の元船乗りであった。

それでは、なぜ日本人の元船乗りが、アメリカ海軍水兵として、黒船に乗っていたか。
その詳細をたどるのが本書である。

『黒船前夜の出会い』に描かれていた〈幸宝丸〉や〈千寿丸〉と同様、〈栄力丸〉も江戸から大坂までの航海の途中、大時化に遭って遭難・漂流していたところを、アメリカ船〈オークランド〉号に助けられたというわけ。

しかし、〈オークランド〉号は〈マンハッタン〉号とは異なり、漂流者たち17人の命を助けたものの、鎖国下の日本へ送り届ける気はなく、そのままサンフランシスコに入港。
彼の地に滞在することとなる。

以後の数奇な運命は、本書を読んでいただくとして、かなりの日本人難破者が、各国の船に救助されていたことが分る。
代表的な事例としては、土佐のジョン・万次郎。仙太郎とともに〈栄力丸〉に乗組んでいた彦蔵こと、ジョセフ・ヒコ(「アメリカ彦蔵」とも)。

当時の日本船に海難事故が多かったのは、舵を含め船の構造が弱かったから、とも、水密甲板がなかったから、とも言われているが、沿岸航海の場合、さして問題にはならなかった。
むしろ、最大の原因は、その運用のしかたにあったようだ。

和船研究の第一人者石井謙治氏によれば、
「船体の大きさのわりには大量の荷物を積んだので安全性が犠牲になり、海難の多発になった」(『船と航海の歴史』)
のである。

それはともかく、従来、一般に思われている以上に、鎖国下でも外国との密かな交流が行なわれていたのは興味深い(薪水を求めて、非公式に日本に上陸した外国船もある)。
また、彼らの異文化への適応も、意外とすみやかであったようだ。

漂流民から見た場合、江戸時代における、もう一つの対外関係が明かになってくる。
そのような意味で、本書は興味をかきたてる1冊であることに間違いないだろう(事実確認のあやしい部分はあるにしろ)。

足立和(あだち・やわら)
『ペリー艦隊 黒船に乗っていた日本人―「栄力丸」17名の漂流人生』
徳間書店
定価:本体1,300円(税込)
ISBN4192242257

最近の拾い読みから(28) ― 『黒船前夜の出会いー捕鯨船長クーパーの来航』

2006-07-25 11:49:22 | Book Review
ペリー来航の8年前、つまり1845(弘化2)年、浦賀に来航した外国船があった。
アメリカの捕鯨船〈マンハッタン〉号――船長はマーケーター・クーパー。日本近海での鯨漁の途上、鳥島に漂着した〈幸宝丸〉の船員11人と、難破船〈千寿丸〉の船員11人を帰国させるべく、鎖国の禁を破って日本にやってきたのである。

本書は、
「日米交流の原点ともいうべきマンハッタン号事件を、日米双方の資料を駆使してつづる黒船前夜の歴史秘話」
を語る。

ペリー来航を重視するあまり、それ以前の異国船来航の歴史は、一般にあまり知られていない。

本書によれば、アメリカ船に限っても、これ以前に、1837(天保8)年の〈モリソン〉号来航があった。
目的は「7人の日本人漂流民たちの送還をきっかけにして日本との通商」を図ること。非武装であり、日本側の砲撃により、日本近海を立ち去った。

そして、〈マンハッタン〉号の来航である。
この間に「阿片戦争」(1840 - 42) があり、日本側での対外政策の変更があった(「無二念打払令」から「薪水給与令」へ。異国船との無用の摩擦を回避する目的)。

この政策変更と、老中・阿部正弘の決断とによって、〈マンハッタン〉号は、砲撃されることも、長崎回航を命ぜられることもなく、浦賀に入ることができたのである(船員たちの上陸は許可されなかったが、食料・水・薪・修理用木材などが無償で提供された)。

一方、〈マンハッタン〉号は、捕鯨のための航海を一時中断してまで、日本人漂流民を送還させるために日本に立ち寄ったわけだが、その背景には、クーパー船長の人道的な考えとともに、
「閉ざされた国・日本を探ろうとするひそやかな好奇心もあった。」

したがって、その情報はアメリカにとって貴重なもので、日本派遣を命ぜられる以前のペリーに大きな示唆を与えた。
「クーパー船長の日本訪問談は彼(ペリー)の運動に願ってもない援護射撃となってペリーを喜ばせた。モリソン号事件の記憶も新しかった当時、武器を持たずに江戸湾に進入したクーパー船長の、大胆でしかも考え深い行動はペリーに強い印象を与えたのである。それに加えて、船長は捕鯨船の安全のために日本の開港が必要であることだけでなく、日本が経済活動の活発な、知的レベルの高い、通商の相手として不足のない国であることを語っていた。」
のである。

それもこれも、日本近海がアメリカをはじめとする各国の捕鯨船にとって、大きな操業海域となっていたから。
その活況ぶりは、
「わが国(アメリカ)の捕鯨船が、今日、このとき、太平洋をその帆で真っ白にしている」
と、ある海軍海洋調査隊の士官が述べたほどであった。

春秋の筆法を以てすれば、捕鯨が日本の開国を招いた、とでもなろうか。
本書は、ペリー来航以前の日米関係を知る上で、参考となること大であろう。

平尾信子
『黒船前夜の出会いー捕鯨船長クーパーの来航』
NHKブックス
定価:本体830円(税込)
ISBN4140017066

天皇制のアポリア

2006-07-24 11:30:13 | Opinion
陸軍一等主計当時の
磯部浅一(いそべ・あさいち、1905 - 37 )。

「磯部(浅一)は、天皇個人と天皇体制とを混同して考えている。古代天皇の個人的な幻想のみがあって、天皇絶対の神権は政治体制にひきつがれ、『近代』天皇はその機関でしかないことが分らない。天皇の存在は、鞏固なピラミッド型の権力体制に支えられ、利用されているからで、体制の破壊は天皇の転落、滅亡を意味することを磯部らは知らない。『朕は汝を股肱(ここう)と頼み汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ其親(したしみ)は特(こと)に深かるべき』という軍人勅諭の〈天皇←→軍人〉という直結的な図式は、軍人に天皇を個人的神権者に錯覚させる。」(松本清張『昭和史発掘9』「二・二六事件 五」)
「『近代』天皇はその機関でしかない」という部分に異論はあるが、基本的に、松本の指摘するように「近代」天皇には、「天皇個人」と「天皇体制」との2面があったことは間違いがない。

つまりは、前回の拙稿「『愛国者は信用できるか』 その4」で触れた、「存在(ザイン)としての天皇」と「理念(ゾルレン)としての天皇」である。

「存在(ザイン)としての天皇」が、自分たちの都合のいいような「姿」「あり方」をしていれば、何も問題は起こらない。
というより、むしろ、「存在(ザイン)としての天皇」を「理念(ゾルレン)としての天皇」に近づけるべく努力した、元田永孚のような「天皇親政論者」もいたし、一般国民には、そのような「姿」「あり方」をしているものとして押し通した。

ところが、両者が矛盾した場合には、深刻な懐疑が発生する。
その懐疑が天皇制のあり方に対する、深い考察に結びつけばいいのだが、多くは、「存在(ザイン)としての天皇」を否定して、心理的安定を図る方向に向かう。

前回触れた、磯部浅一(二・二六事件での中心人物の1人。「陸軍士官学校事件」がらみで免官され、事件当時は軍籍にはなかった)の、
「天皇陛下 何と云う御失政でありますか 何と云うザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」
ということばにもつながる心理である。

同じ構造が、昭和天皇の「A級戦犯靖国合祀不快発言」問題をめぐっても見られるのは、いまだに「天皇制」を理論的/心理的に克服していない証拠なのか。

最近の拾い読みから(27) ― 『愛国者は信用できるか』 その4

2006-07-23 08:49:11 | Book Review
玄洋社の人びと(1907年撮影。玄洋社記念館蔵)。
前列中央が頭山満、後列中央が内田良平。

問題は、天皇制をめぐる評価にありそうだ。

玄洋社憲則の第1条には、
「皇室を敬戴す可し」
とある。
また、三島由紀夫が東大全共闘に対して、
「もし君達が一言『天皇陛下』と言ってくれれば、共闘してもいい」
と言ったのは、本書にもあるとおり。

著者の立脚点も、どうやら、この三島と同様のところにあるようだ。
つまりは、玄洋社の初志にもあった「天皇を基にした変革」である。
それがあるから、
「抑圧された人民の間の連帯、共闘」
という形のインターナショナリズムが、可能であるとみているのでは。

しかし、ここには大きな矛盾も生じる。
「一君万民」的な天皇観は、天皇親政にもつながる(二・二六の青年将校達が事件前に夢想したように)。
この考えは、常に天皇に誤りはない、という天皇を道徳的/政治的聖人として捉えることでもある(元田永孚的な思想。こちらを参照)。

それでは「人間天皇」(本書には「存在(ザイン)としての天皇」ということばが紹介されている)と「カリスマ天皇」(同様に「理念(ゾルレン)としての天皇」)とが矛盾したばあいには、いかにするのか。

二・二六の青年将校も、その挟間に落ちてしまった。

「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉(ことごと)ク倒スハ、真綿ニテ、朕ガ首ヲ絞ムルニ等シキ行為ナリ」(昭和天皇)
   対
「天皇陛下 何と云う御失政でありますか 何と云うザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」(磯部浅一)

また、現在も、靖国神社へのA級戦犯合祀問題で、その矛盾が、ある立ち場の人びとに突きつけられている。

けれども、著者は、その点にはさほどの関心は抱いていないようだ。
「ザインとゾルレンとしての天皇という考えは新鮮だった。しかし、今思うと、そんなに簡単に分けられるものではない。」
と、現実的な発言をして、はっきりした答えは出していない。
「皇室の大切さが分り、ずっと続いてほしいと思うのならば、もっともっと自由にしてもらったらいい。少なくとも、国民の『憧れの対象』になってまらいたい。」
というだけじゃあ、ちょっとなあ。

どうも、これ以上を著者に求めるのは、無理のようだ。
やはり、「余は如何にして愛国者となりし乎」をテーマにした「読み物」に仕立ててもらった方が良かったのではないか。

この項、おわり

最近の拾い読みから(26) ― 『愛国者は信用できるか』 その3

2006-07-22 11:15:40 | Book Review
条約改正に反対して大隈外相の暗殺を謀った
来島恒喜(くるしま・つねき、1859 - 89)。

少なくとも、著者は「対自的愛国者」であることに間違いはない(でなければ、このような本は書かないでしょう)。
そうでなければ、仮に書き物をして、声高なアジテーションにはなったとしても、「余は如何にして愛国者となりし乎」というようなテーマにはならない。

そのような自意識があるからこそ、
「愛国心は国民一人一人が、心の中に持っていればいい。口に出して言ったら嘘になる。また他人を批判するときの道具になるし、凶器になりやすい。だから、胸の中に秘めておくか、どうしても言う必要がある時は、小声でそっと言ったらいい。」
という発言にもなる。
新約聖書における、パリサイ人批判のようなもの。
「汝ら見られんために己が義を人の前にて行はぬやうに心せよ。(中略)なんぢら祈るとき、偽善者の如くあらざれ。彼らは人に顕さんとて、会堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。」(マタイ伝、第6章)
というわけです。

いささか本題から逸れました。

ここで、本書で何回か、玄洋社について触れていることの意味について考えてみましょう。

著者の玄洋社理解は次のようなもの。
「玄洋社は日本の右翼の元になっている。『皇室を戴いて民権運動をやる』、これが玄洋社のモットーだった。この時点では自由民権運動の一分派だった。ところが西欧に侵略されるアジアの実状を見るにつけ、強い国家づくりとアジアの連帯が必要、急務だと考え、国権運動に力を入れる。さらに大アジア主義にすすむ。条約改正に反対して、社員・来島恒喜(くるしま・つねき)が大隈重信外相の暗殺をはかり爆弾を投擲し、玄洋社は一躍名を知られる。また、天佑侠(てんゆうきょう)を組織し、朝鮮の東学党の乱を支援、孫文、ビハリ・ボースなど中国、インドの革命家たちを支援した。当時の右翼はインターナショナルだった。」

では、このような玄洋社に、著者はなぜ何度も言及しているのか。

この項、つづく