一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

「富士は日本一の山」

2005-04-30 00:45:21 | Essay
「頭を雲の上に出し」という歌い出しの唱歌は、「富士は日本一の山」と結んでいます。
それでは、なぜ「富士は日本一の山」なのでしょうか。

小学生ならストレートに「日本一高い山だから」と答えるでしょう。でも、それでは大日本帝国時代にも、そう言われていたことの理由が分からない。台湾が大日本帝国の植民地だった時代には、新高山(現地名「玉(ユイ)山」。標高 3,997メートル。例の「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の「ニイタカヤマ」ですな)が日本で最も高い山だったからです。

中学生くらいになると、やや変化球気味に「姿形が美しいから」と答えるかもしれない。しかし、これでは主観的過ぎて答えにはなりません。我が郷土には、もっと美しい山がある、と言われれば否定する根拠などありはしないのですから。

小生は、その背景に「富士信仰」があったからだとにらんでいます。

「富士信仰」というのは、その名のとおり、富士山をご神体として信仰することで、戦国時代に始まったといわれています。江戸時代中頃には最盛期を迎え、富士講という団体が盛んに作られました。
信仰の中心は江戸で、「江戸八百八講」といわれるくらいに数多くの富士講が結成され、また、富士山の見える関東一円とその周辺の地域にも信仰は広まっていきました。
北斎の『富嶽三十六景』も、富士信仰を背景にしていると見て、まず間違いないでしょう。

富士講は、実際に富士山に登るだけではなく、シミュレータとして各地にミニ富士(「富士塚」)を作りました。現在でも、23区内のミニ富士は、少なくとも品川区の品川神社、台東区の小野照崎神社境内(「坂本富士」)に残っています(その他、豊島区の「高松富士」、練馬区の「江古田富士」があるというが、小生未見)。

また、最近読んだ今尾恵介著『地図を探偵する』(新潮文庫)には、所沢市の荒幡(あらはた)富士が紹介されていました。
以下、今尾氏の著書によって、この富士を紹介すれば、着工が1884(明治17)年、「15年の歳月と工事従事者延べ一万人をかけて」作られたといいます。ミニ富士自身の高さ60尺(約18メートル)、台地の突端にありますから、標高で119.4メートルにもなるそうで、「すっきりと晴れれば新宿の高層ビル街なども見える」とのこと。

荒幡富士でも分かるように、富士信仰は明治時代になっても、なお人の心を引きつけていました。そこへ、明治政府の国民国家成立のためのシンボル操作が加わる。つまり、富士を日本の「美しく四季の変化に富んだ」自然のシンボルにしようというわけです。ここで『三四郎』にある、主人公と広田先生との車中の会話を思い出しても良い。
「あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々が拵えたものじゃない」(『三四郎』「一」)

そんなわけで、いくら新高山が加わろうが、各地に名峰があろうが、シンボルである以上「富士は日本一の山」の地位を譲ることはまずありえないでしょう。

『三四郎』を読む。その八

2005-04-29 04:53:17 | Criticism
人称の問題は、これまでにして、主題である「都市小説」の面についての分析を続けます。

主人公は、東京に来て、交通網の急激な発達に混乱させられます。これも国や熊本ではありえなかったこと。

「神田の高等商業学校(現在の一橋大学の前身。正確には東京高等商業学校)へ行くつもりで、本郷四丁目から乗ったところが、乗り越して九段まで来て、ついでに飯田橋まで持って行かれて、其処で漸く外濠線へ乗り換えて、御茶の水から、神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸を数寄屋橋の方へ向いて急いで行った事がある。それより以来電車はとかく物騒な感じがしてならない」

東京の路面電車は、明治37、38年を開通のピークとして基本路線が造られましたが、その後も、小刻みな延長が続き、ショート・カットがいたるところでできてきました(明治39年9月に鉄道会社三社が合併、一社体制になったのもその一因)。
ですから、三四郎が、行き先に向かう電車を間違え、とんでもない方向に運ばれてしまったのです。
しかし、それは上京したての三四郎だけのことではない。
国の先輩であり、もうとっくに東京には慣れたはずの野々宮君も、
「『僕は車掌に教わらないと、一人で乗換が自由に出来ない。この二三年無暗に殖えたのでね。便利になって却って困る。僕の学問と同じ事だ」と云って笑った。」
と述懐するくらいなのですから。

ここで述べられているのは、都市では交通機関が複雑に絡み合っている、ということの指摘だけでしょうか。
別の方向から見てみましょう。

三四郎は、この世の中を「三つの世界」に分けて認識しています。
「第一の世界」は、三四郎の「国」(故郷)です。この世界は、いわば過去に属するといってもいい。そして、その中心には母親がいる。
「三四郎は脱ぎ棄てた過去を、この世界の中へ封じ込めた。」
「第二の世界」は、大学の世界、学問の世界です。この世界は、未来へつながるかもしれないが、大学生である三四郎にとって、当面は現在に属する。
「第三の世界」は、象牙の塔の外にある、いわば「俗世間」。現在はモラトリアム状態にある三四郎も、いずれは、そこへ入っていかざるをえない、という意味では未来に属する。
「三四郎は遠くからこの世界を眺めて、不思議に思う。自分がこの世界のどこかへ這入らなければ、その世界のどこかに欠陥が出来る様な気がする。自分はこの世界の主人公であるべき資格を有しているらしい。それにも拘らず、円満の発達を冀うべき筈のこの世界が却って自らを束縛して、自分が自由に出入すべき通路を塞いでいる。三四郎はこれが不思議であった。」
登場人物の上では、広田先生、野々宮君、里見嬢が、この世界に属している。

そして、三四郎が乗るべき路線を間違った路面電車も、この「第三の世界」に属している!
上京したばかりの三四郎に、与次郎は、こう言いました。

「『電車に乗るがいい』と与次郎が云った。三四郎は何か寓意でもある事かと思って、しばらく考えてみたが、別にこれと云う思案も浮かばないので、
『本当の電車か』と聞き直した。その時与次郎はげらげら笑って、
『電車に乗って、東京を十五六返乗回しているうちには自ら物足りる様になるさ』と云う。
『何故』
『何故って、そう、活きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ。その上に物足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつ尤も軽便だ』
 その日の夕方、与次郎は三四郎を拉して、四丁目から電車に乗って、新橋に行って、新橋から又引き返して、日本橋へ来て、そこで下りて、
『どうだ』と聞いた。」

与次郎という存在は、「第二の世界」と「第三の世界」とを自由に出入りするトリックスターでもあり、三四郎に「第三の世界」を案内する、悪意のないメフィフトフェレスでもあった。しかも、巧妙に漱石は、与次郎に「専門学校卒業生の東京帝大専科生」というマージナルな属性を与えているのです。
また、「教養主義の世界」=「赤門文化圏」への案内者でもありました。

「語られるゲーテ・シュニッツラー・ニイチェの話を聞くと、何か自分はしんき臭い父母や縁者を去って全く自由な美しいコスモポリタンの世界で学芸にいそしんでいる感じになるのだった」
これは『三四郎』の一節ではありません。
フランス文学者新関岳雄の『光と影――ある阿部次郎伝』からで、まさしく、彼の感想と同じ経験を、三四郎はすることになるわけです。

『安心のファシズム―支配されたがる人びと―』を読む。

2005-04-28 00:35:43 | Book Review
この本を手に取ったのは、まずはタイトルに惹かれたから。

小生、近年の社会の底に、「大きなもの」に身を委ね、自らの頭で考えようとしないという傾向があると感じてきていた。また、今「現実主義」と称せられるものが、手段における合理性ではなく、現状追認の姿勢にほかならない、と判断してきた。
そのような現象や姿勢の背景になるものが何かを考える上で、参考になりそうなタイトルだった。

また、E. フロムの『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社刊)を久しぶりに書棚から引っ張り出して読もうとした。しかし、その内容の濃さにやや辟易し、目を通すだけで、内容を把握することを諦めかけていた矢先だった。
そんなところから、帯のキャッチ・コピーに誘惑されたのも確かなことである。
いわく
「なぜ私たちは自由から逃走するのか?」。
ね、ちょっといいコピーでしょ。読書欲をそそるよね。

ともあれ、一通り読んでみた。

テーマおよび題材は、アップ・トゥ・デイトで良いのだが、それを扱う手つきには不満が残る。
テーマに関しては、ほぼお分かりのことと思うので、ここでは触れない。
題材は、以下のようなもの。
「イラク人質事件」「自動改札機」「携帯電話」『心のノート』「監視カメラ」『バトル・ロイヤル』「G. オーウェル『1984年』と新語法(ニュー・スピーク)」
ここで多少の注釈が必要だと思われるのは『心のノート』だけで、ほかはメディアでさんざん取り扱われたり、ごく身近なもの。

『心のノート』とは、
――「ユング派心理学の権威である河合隼雄・京都大学名誉教授(二〇〇二年度から文化庁長官)を座長として設置された『心のノート作成協力者会議』の意見を集約し」まとめられたもので、建前上は「教科書ではなく補助教材」とされる。
内容的には、「いずれも四部構成で、発達段階ごとに、1.自分自身のこと、2.他人との関わり、3.自然や崇高なものへの畏敬の念、4.集団や社会、公共との関係、の順に進められていく」。
しかし、建前とは別に、「編集の中心にいた押谷由夫・昭和女子大学教授(当時は文科省初等中等教育局教育過程課教科調査官)は、(中略)『(〈心のノート〉を)では、いつ使うのでしょうか。実は全教育活動においてです。(中略)このノートは、一千二百万部刷られます。(中略)ここに書いてあることは大人も共通に考えなくてはいけない道徳的価値です。これを基に大人もまた自分を見つめ直してくれるのではないでしょうか』」と述べ、国会での質問に対して文科省は、「各市町村や学校が『心のノート』の使用を決定すれば、個々の教職員には使用する義務が課せられる」と答弁している。

以上、本書からの要約を見ただけでも、かなりの情報量が詰まっていることが分るだろう。
そう、本書の問題は、多くの題材を扱おうとするあまり、情報を追いかけ処理するだけで、かなりの紙幅をとってしまい、分析・提言に当たる部分が、紋切り型に近いものになってしまっているところである。

したがって、自分の頭で考える読者は、本書のキー・ワードやデータを参考に、論理構成や結論は自ら組み立てるべきであろう(それだけのキーや情報は掲載されている)。
そうでなければ、読者自身が、別の「大きなもの」に身を委ね、「自由からの逃走」を図ることになるからである。

斎藤貴男
『安心のファシズム―支配されたがる人びと―』
岩波新書
定価:本体700円+税
ISBN: 4004308976


『創られた伝統』を読む。

2005-04-27 10:37:23 | Essay
エリック・ホブズボウム、テレンス・レンジャーの『創られた伝統』(紀伊国屋書店)を読み始めた。1992年の翻訳刊行だから、もう読んでいる方もいるかもしれないが、
この手の本は古くなることはあまりないので、新刊でなくとも、いずれこの欄で、内容をやや詳しくご紹介したいと思う。
今回は、感想をあれこれ。

小生、この書を知ったのは、丸谷才一氏のあるエッセイに書かれていたから。そこでは、「日本の伝統」と言われるものも充分吟味しないと、「創られた伝統」の場合もあるから、要注意という趣旨だったと思う。

第2章「伝統の捏造」という部分を読むと、イギリスの例としてタータンチェックのキルト、バグパイプなどの例が出てくる。
これらは普通スコットランド特有の「伝統」的衣装や、「伝統」的楽器と思われている。けれども、実は、18世紀後半から19世紀初期に始まった。キルトの場合、スコットランド人が溶鉱炉で働くようになってから、今まで着ていた肩掛け服の代わりの、前掛けのようなものとして生まれたという。

日本も例外ではない。4月17日に触れた「武士道」がその一例である。
詳しくは、そちらに目を通していただくとして、菅野・佐伯両氏が指摘するところによれば、今日「武士道」と思われているものは、明治時代になり実際の武士がいなくなってから生まれたとのこと。佐伯氏は、これを特に「明治武士道」と呼ぶほどである。
同様に「標準語」なるものが、明治になって創られたフィクショナルな/理念的なことばであることは、今更指摘するまでもない。

その他、「相撲は国技である」という認識。
国技というからには、それなりの根拠が必要であろうが、普通、挙げられるのはタイマノケハヤとノミノスクネとの相撲(『日本書紀』)や、朝廷における「相撲の節会」などであろう。しかし、これが現在の相撲につながっているという証拠は何もない。
むしろ、史料的に明らかなのは、明治42(1909)年に初代の国技館が完成した折、文士の江見水蔭が「国技」ということばを使い、それ以降一般的になったこと。
まさしく、明治になってから「創られた伝統」である。

「武士道」に関連するものとしては、日本刀が武士の主要武器であったとする通説
これも、江戸時代から「遠い昔は武芸訓練の中心は騎射(馬上で弓を射ること)であった」と山鹿素行が言っているし、「古くは弓を持たずに馬に乗る者はいなかった」と伊勢貞丈が記しているとおり、源平時代からの伝統ではない。
それでも、戦国時代はそうではなかったのではないか、と指摘する向きもあるかもしれない。
それに反論するには、鈴木眞哉氏の最近の研究を見るのが一番早い。
鈴木氏によれば、応仁の乱以降島原の乱に至るまでの期間、もっとも多い戦傷は矢傷(42.0%)、次いで槍傷(20.4%)。一方、刀傷は5番目で4.1%に過ぎない。ちなみにこれは、石傷・礫傷の10.4%より少ない。
つまり「戦国時代もまた白兵主義時代などといえるものではなく、遠戦志向のきわめて濃厚な時代だったのである」(『謎とき日本合戦史』講談社新書)。
日本での主要な合戦の武器は、刀ではなく、弓矢や槍だったのである。

特に「日本的なもの」と言われ、大事にしなければならないと主張されている伝統にも、「創られた伝統」であったり、東アジア全域共通のものであったり、古代中国から伝来されたりといった場合も多いであろう。
「伝統」と一言で表現されるものも、その由来を充分に吟味しなければ、「夜郎自大」と誹られてもやむを得ないのである(もちろん、日本以外においてもそうであることは、ホブズボウムが明らかにしている)。

いずれにしても、思い込みを修正するのは、個人同様、社会においても難しいようだ。

『三四郎』を読む。その七

2005-04-26 00:22:48 | Criticism
基本的に『三四郎』の視点が、一人称小説的であることを示す、卑近な例をもう一つ。

一人称小説で意外と難しいのは、自己紹介です。
三人称小説なら、地の文でいかようにでも説明できることが、一人称小説の場合は、必然性を持った形式で行うことがなかなかできにくい。不自然になりやすい。
思い切って居直れば、
(1) 地の文で自己紹介を行う。
という手がある。
例としては、かの有名な「猫」が冒頭から行っている。この小説では、一種の意外性やユーモラスな感じを狙っているから、このような形で居直れる。
普通の手としては、
(2)  会話文での処理
といことになるでしょう。小説中で他人から呼びかけられる、他人に自己紹介する(名刺を差し出すなども、珍しいが、この一つ。『三四郎』でもヒロインは、これを行っている)。
これを普通のやり方じゃあ嫌だ、となると、こうする。

「名は何と云う。」
「大江匡(おおえただす)。」と答えた時、巡査は手帳を出したので、「匡は〓(はこ)に王の字をかきます。一タビ天下ヲ匡スと論語にある字です。」
 巡査はだまれと言わぬばかり、わたくしの顔を睨み、手を伸ばしていきなりわたくしの外套の釦をはずし、裏を返して見て、
「記号(しるし)はついていないな。」つづいて上着の裏を見ようとする。
 (中略)
「住所は」
「麻布区御箪笥町一丁目六番地。」(永井荷風『墨東綺譚』)
 *さんずいのある「ボク」の字は表示できませんので、「墨」で代用します。

と、以下、不審尋問に答える形で、職業・年齢・家族構成と「わたくし」の属性が示されます(冒頭に近い部分。これが普通。推理小説で最後にこれをやる、なんてのも「謎解き」としてありうる)。
面白いことに、『三四郎』の場合は、名古屋で泊まった宿屋で宿帳に、
「福岡県京都郡真崎村小川三四郎二十三年学生」
と記すことで、出身地・姓名・年齢・職業が分るような仕掛けになっているのです(冒頭に近い、この部分で主人公の属性を明らかにしないと、後の展開が難しくなる)。
これは、一人称小説での「自己紹介」の芸と同質であることは、荷風の例を見ればよく理解できるでしょう。

『歴史を考えるヒント』を読む。

2005-04-25 00:05:28 | Book Review
「ふだん何気なく使っている言葉」から「意外なほどの長い歴史」を読み解き、その「深い意味を」とらえ直すのが、本書の意図である。

とらえ直していくのは、「I『日本』という国名」から始まって、「列島の多様な地域」「地域名の誕生」と、まず、その土地に関する名称の起源から範囲までを、具体的な歴史の中から読み解く(今回は全9章の中から前半3章を取り上げる)。

著者によれば、「日本」という国名が公式に決まったのは、「六八九年の浄御原令施行の時が最も可能性が高」く、この時以前には「日本国という国は地球上に存在していなかった」わけである。
そもそもそれ以前の「倭」という国名は、さす範囲がもっと狭く、「関東人はおそらく倭人ではないでしょうし、東北人や南九州人は倭人ではない」。
したがって、「『倭』という国名を使って、明らかに随以前の中国大陸の帝国に朝貢していたヤマトの支配層が、小さいながら律令を定め、自らの帝国を作るのだという姿勢を明確に打ち出した」のが「日本」国名の決定であるとみる。

以上が第1章の主な内容であり、第2章以下で出て来るのは、多様な地域が、一元的に「日本」に飲み込まれていく過程を示す。
その一番大きな相違が、東の地域と西の地域(ヤマトの範囲)であろう。
東の地域に住む人びとは、長らくヤマトの支配層から「東夷」(東の野蛮人)と呼ばれ、「西の『文明』に魅かれつつも、言葉も違い、確実に違和感を抱いていた」。
「このように東と西の人たちは、もともと相互に体質の違う社会であることを、古代から意識し合っていた」(南九州、西南諸島、東北・北海道は、また別の地域の独自性をもっていた)。

さて、その中で、各地域が自立しようという動きが、10世紀になり国家の統制力が弱まるにつれ出てくるのは、いわば当然のことであろう。
平将門の「乱」(「天慶の乱」)が、まず第一の動きである。
「将門の死後も、東国人の独自の動きは更に活発になっていきます。将門の新国家の記憶が坂東の人々の頭の中に残り、地域の自立性を支えていたと言うことができると思います。それがやがて、十二世紀末の鎌倉幕府の成立につながっていきますが、一方で東北の『奥羽』と呼ばれる地域にも新たな動きが湧き上がってきます」
と、著者は、平安末から鎌倉初めまでの歴史を概観する。

第3章では、そのような動きを、地域呼称の面から考察する。
「関東」なる語も、当初は伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発(あらち)三関の東という意味で、あくまでも「『日本国』の中心である大和から見た」用語だった。それが鎌倉幕府が東国に樹立したことによって、「幕府は半ば国号のような扱いで『関東』を使」うようになる(「関東御教書」「関東下知状」など)。

「十五世紀にはさらに、北海道に『夷千島王』と名乗る人物が出現し、一方では琉球王国も誕生します。つまり、この頃になると日本列島には『日本国』以外の国家が現れ、列島全体に実に多様な地域が分立していたことが明瞭になってくるのです。」

さて、日本の「輝かしい歴史」を大事にしたいと標榜なさる方々は、このような各地域の多様な分立/自立状態をも、「伝統」としてお認めなさるのでしょうな。

網野善彦
『歴史を考えるヒント』
新潮選書
定価 本体1,100円(税別)
ISBN4106005972


毛づくろいと言語の起源

2005-04-24 02:46:11 | Essay
夕べ、小生が住んでいる街のローカル・サイトを、初めてのぞいてみた。
いやあ、不満や不安の投稿が多いこと。
特に目立ったのが、病院・タクシーに関するもの。その不満や批判というのは、コミュニケーションに関することが圧倒的。
医者がまともに病状を説明しない、看護士や運転手がつっけんどん、など。
「最近、他人とのコミュニケーションが取れない人間が多くなってきてるなあ」
という、小生が日頃抱いている感想を裏付けているようだ。

さて、人類学者の一部には、言語の起源を「毛づくろい」に求める説があるという。
人類以外の霊長類(以下「サル」とするが、「サル」の皆さん、悪く思わないでね)は「毛づくろい」を行って、互いの「親睦」を図っている。ここに、人間の場合、脳のサイズから考えて、最適な群れの大きさは150個体となるが、そうなると互いに「毛づくろい」をすると時間がかかり過ぎてしまうので、その代わりに言語が生まれた、というのだ。
つまり、言語の基本的な機能は、サルの「毛づくろい」と同様に、「雑談とかスモール・トークというようなもので、高尚なものではない」そうだ。

この機能、今でも言語に色濃く残っている。雑談のほか、社会性を加えたものには、「挨拶」とか「口上」とかいうのがある。
人類の「挨拶」がサルの「毛づくろい」の代わり、というのも面白いじゃあありませんか。

「毛づくろい」よりずっと短い歴史しかないのだから、「挨拶」や「口上」、ひいては他人とのコミュニケーションが難しいのも無理はないか、という気がしてきません?

じゃあ、どうすればいいの? ということはまた今度。

『三四郎』を読む。その六

2005-04-23 00:23:36 | Criticism
この項「その一」では、この『三四郎』という小説の冒頭で、「主人公=読者という主客が未分明の状態に置かれるよう、慎重に描かれている」と指摘しました。
そして、それ以降も、三人称で書かれているにもかかわらず、ほぼ一人称と同様の視点を採っているのです。

この小説は、上京した青年が、明治40年代初めの「東京」をどのように見たか、体験していったかという描写を通じて、作者の「東京」論を語ろうという構造をもっています。そのため、描写の視点は三四郎を離れることはまずない。
三四郎がこう見た、三四郎がこう体験した、三四郎がこう思った、という描写が続きます。これらの描写において、三人称小説にあるような「第三者の視点」はありません。いわばカメラは常に、三四郎にフィックスしているわけです。
われわれ読者は、三四郎に取り憑いてさまざまな体験をする、といってもいい。

これは一人称小説のあり方なのです。
ですから、試みに、どの一節でも「三四郎が/は」という部分を、「私は/僕は」に代えてみられるとよろしい。
ほぼ、違和感なしに読めるものと思います。

例えば、任意の一節。

「三四郎(僕/私)は全く驚いた。要するに普通の田舎者が始めて都の真中に立って驚くと同じ程度に又同じ性質に於て大いに驚いてしまった。今までの学問はこの驚きを予防する上に於て、売薬程の効能もなかった。三四郎(僕/私)の自信はこの驚きと共に四割方滅却した。不愉快でたまらない。」

いかがでしょうか(もっとも、厳密なことを言えば「要するに~驚いてしまった。」の一文は、素朴ではないにしろ「単純な」青年である三四郎にしては分析的過ぎる、との感はある。漱石の肉声が聞えてくるのだ。このようなポリフォニックな効果を与えるため、作者は、視点は一人称でも、三人称の「語り」を採ったのかもしれない)。

美術における天心の責任

2005-04-22 19:09:53 | Opinion
岡倉天心(1862 - 1913)について述べる。

「アジアは一つ」と言った人物だ。このことばには、いくつもの問題があるのだが、それはさて置く。
今、言いたいのは、日本の近代美術に与えた影響のことだ。
歴史において1人の人間に大きな責任ありとするのは、いささか酷な話だが、今は彼を代表とする「ある制度」と考えておいていただきたい。

さて、天心の責任というのは、ある程度進んでいた近代美術の流れを、強引に自分の美意識ないし価値観の方向に引っ張っていってしまった、ということだ。

日本画の分野でいえば、江戸琳派はかなりのレベルで近代性を示していた。浮世絵にしても北斎を代表とするように、西欧の遠近法や陰影法を技術として獲得していた。したがって、明治初期の西欧文化との本格的な出会いによって、自主的に達成できたものがあったはずだ。
それを明治政府の美術行政に携わっていた天心は、狩野派主流の方向にもっていってしまった。
また、洋画を排斥する余り、東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)から洋画の教育課程を排除した。したがって、本格的な美術を学ぶには、帰国した美術家につくか、自らが留学しなければならなくなった。
日本画、洋画という垣根が生じたのも、天心の美術行政に起因するだろう。

以上のことが、日本の近代美術を偏ったものにした。
一つは、美術においても派閥を作り、自らの派閥を主流化しなければならないという意識を、画家達に植え付けたこと。それは、ややもすれば美術における技芸ではなく、発言力の大きさを重要視することともなったし、権威主義的な傾向をも生んだ。
二つ目は、新しい傾向を国外に求め、それをいち早く持ち帰った者が、権威となれるという、輸入依存体質である。
先程述べたような、日本画・洋画という特異なジャンル分けを生んでしまったことも、日本美術特有の世界を形作った。

天心の評価は、生前の美術行政の面ではなく、死後、「アジアは一つ」という発言が誤解されることによって高まっていった。
そして、未だに等身大の天心像は、描かれていないような気がする。

『日本人の戦争観』を読む。

2005-04-22 02:22:15 | Book Review
本書は「占領期」から1990年代にいたるまで、日本の国民および政府・政治家、知識人の戦争観がどのように変化したかを、刊行物、メディアに示された発言・意見、世論調査、投書などの動向を通じて分析したもの。

著者が、1950年代から現在まで通しての存在を指摘し、問題にしているのが、日本人の戦争観における《ダブル・スタンダード》である。
これは、
「対外的には講和条約の第一一条で東京裁判の判決を受諾するという形で必要最小限度の戦争責任を認める」
一方、
「国内においては戦争責任の問題を事実上、否定する、あるいは不問に付す」
といった
「対外的な姿勢と国内的な取り扱いを意識的にせよ無意識的にせよ、使い分けるような問題の処理の仕方」
である。
近年の事例で言えば、
「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジアの諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」
とする《村山談話》の立場を小泉内閣は継承しつつも、靖国神社への8月の参拝を行なう、といった事実が《ダブル・スタンダード》が依然として存在することの端的な表れであろう。

このような《ダブル・スタンダード》が存在する限りは、本年3月1日に行なわれた韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領演説の一節のような、
「2つの国の関係発展として、日本政府と国民の真摯(しんし)な努力が必要だ。過去の真実を究明し心から謝罪し、反省し、賠償することがあれば賠償し、和解しなければならない」
との指摘が、韓国のみならず中国からも、何度も繰り返されることになるであろう(それへの外交的対応を「弱腰外交」「土下座外交」とすることこそ、まさしく著者のいう《ダブル・スタンダード》の存在の証明になる!)

本書は、以上のような観点からの重要な指摘だけではなく、出版物の動向に表れた《戦争観》の変遷にも触れている。小生は、その部分が個人的には面白く読めた。
例えば、同じ戦記物でも、1950年代前半のそれは「旧幕僚将校による戦記」であり、後半から「国民の戦記」(一兵卒としての「父親」の戦記)が登場し始め、1970年代になると「庶民の戦争体験の記録化」が進んだとの指摘、「海軍史観」「宮中グループ史観」「経営書的戦記」の問題点、など。

世論調査の結果分析や「架空戦記」の分析などは、ごく一般的で、鋭い指摘は見られないが、それ以外の部分はなかなか興味深く読むことができた。
21世紀に入って、日本人の《戦争観》にも大分変化がありそうに思えるのだが(特に「プチ・ナショナリズム」の問題)、その点の考察を含めた「増補改訂版」ないしは続編の刊行を望みたい。

『日本人の戦争観―戦後史のなかの変容』
吉田裕
岩波現代文庫
定価:本体1000円+税
ISBN4006031076