「頭を雲の上に出し」という歌い出しの唱歌は、「富士は日本一の山」と結んでいます。
それでは、なぜ「富士は日本一の山」なのでしょうか。
小学生ならストレートに「日本一高い山だから」と答えるでしょう。でも、それでは大日本帝国時代にも、そう言われていたことの理由が分からない。台湾が大日本帝国の植民地だった時代には、新高山(現地名「玉(ユイ)山」。標高 3,997メートル。例の「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の「ニイタカヤマ」ですな)が日本で最も高い山だったからです。
中学生くらいになると、やや変化球気味に「姿形が美しいから」と答えるかもしれない。しかし、これでは主観的過ぎて答えにはなりません。我が郷土には、もっと美しい山がある、と言われれば否定する根拠などありはしないのですから。
小生は、その背景に「富士信仰」があったからだとにらんでいます。
「富士信仰」というのは、その名のとおり、富士山をご神体として信仰することで、戦国時代に始まったといわれています。江戸時代中頃には最盛期を迎え、富士講という団体が盛んに作られました。
信仰の中心は江戸で、「江戸八百八講」といわれるくらいに数多くの富士講が結成され、また、富士山の見える関東一円とその周辺の地域にも信仰は広まっていきました。
北斎の『富嶽三十六景』も、富士信仰を背景にしていると見て、まず間違いないでしょう。
富士講は、実際に富士山に登るだけではなく、シミュレータとして各地にミニ富士(「富士塚」)を作りました。現在でも、23区内のミニ富士は、少なくとも品川区の品川神社、台東区の小野照崎神社境内(「坂本富士」)に残っています(その他、豊島区の「高松富士」、練馬区の「江古田富士」があるというが、小生未見)。
また、最近読んだ今尾恵介著『地図を探偵する』(新潮文庫)には、所沢市の荒幡(あらはた)富士が紹介されていました。
以下、今尾氏の著書によって、この富士を紹介すれば、着工が1884(明治17)年、「15年の歳月と工事従事者延べ一万人をかけて」作られたといいます。ミニ富士自身の高さ60尺(約18メートル)、台地の突端にありますから、標高で119.4メートルにもなるそうで、「すっきりと晴れれば新宿の高層ビル街なども見える」とのこと。
荒幡富士でも分かるように、富士信仰は明治時代になっても、なお人の心を引きつけていました。そこへ、明治政府の国民国家成立のためのシンボル操作が加わる。つまり、富士を日本の「美しく四季の変化に富んだ」自然のシンボルにしようというわけです。ここで『三四郎』にある、主人公と広田先生との車中の会話を思い出しても良い。
「あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々が拵えたものじゃない」(『三四郎』「一」)
そんなわけで、いくら新高山が加わろうが、各地に名峰があろうが、シンボルである以上「富士は日本一の山」の地位を譲ることはまずありえないでしょう。
それでは、なぜ「富士は日本一の山」なのでしょうか。
小学生ならストレートに「日本一高い山だから」と答えるでしょう。でも、それでは大日本帝国時代にも、そう言われていたことの理由が分からない。台湾が大日本帝国の植民地だった時代には、新高山(現地名「玉(ユイ)山」。標高 3,997メートル。例の「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の「ニイタカヤマ」ですな)が日本で最も高い山だったからです。
中学生くらいになると、やや変化球気味に「姿形が美しいから」と答えるかもしれない。しかし、これでは主観的過ぎて答えにはなりません。我が郷土には、もっと美しい山がある、と言われれば否定する根拠などありはしないのですから。
小生は、その背景に「富士信仰」があったからだとにらんでいます。
「富士信仰」というのは、その名のとおり、富士山をご神体として信仰することで、戦国時代に始まったといわれています。江戸時代中頃には最盛期を迎え、富士講という団体が盛んに作られました。
信仰の中心は江戸で、「江戸八百八講」といわれるくらいに数多くの富士講が結成され、また、富士山の見える関東一円とその周辺の地域にも信仰は広まっていきました。
北斎の『富嶽三十六景』も、富士信仰を背景にしていると見て、まず間違いないでしょう。
富士講は、実際に富士山に登るだけではなく、シミュレータとして各地にミニ富士(「富士塚」)を作りました。現在でも、23区内のミニ富士は、少なくとも品川区の品川神社、台東区の小野照崎神社境内(「坂本富士」)に残っています(その他、豊島区の「高松富士」、練馬区の「江古田富士」があるというが、小生未見)。
また、最近読んだ今尾恵介著『地図を探偵する』(新潮文庫)には、所沢市の荒幡(あらはた)富士が紹介されていました。
以下、今尾氏の著書によって、この富士を紹介すれば、着工が1884(明治17)年、「15年の歳月と工事従事者延べ一万人をかけて」作られたといいます。ミニ富士自身の高さ60尺(約18メートル)、台地の突端にありますから、標高で119.4メートルにもなるそうで、「すっきりと晴れれば新宿の高層ビル街なども見える」とのこと。
荒幡富士でも分かるように、富士信仰は明治時代になっても、なお人の心を引きつけていました。そこへ、明治政府の国民国家成立のためのシンボル操作が加わる。つまり、富士を日本の「美しく四季の変化に富んだ」自然のシンボルにしようというわけです。ここで『三四郎』にある、主人公と広田先生との車中の会話を思い出しても良い。
「あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々が拵えたものじゃない」(『三四郎』「一」)
そんなわけで、いくら新高山が加わろうが、各地に名峰があろうが、シンボルである以上「富士は日本一の山」の地位を譲ることはまずありえないでしょう。