一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

今日のことば(41) ―― T. パラケルスス

2005-11-30 06:38:04 | Quotation
「ただ外部をしか見ないというのは農夫のやり方だ。内なるものを、隠されているもを見ることこそ医師の課題なのだ。」
(『オープス・パラミールム』)

T. パラケルスス(Theophrastus Paracelsus, 1492? - 1541)
スイスの医学者。本名は、テオフラトゥス・フィリップス・アウレオールス・ボンバトゥス・フォン・ホーエンハイム (Theophrastus Philippus Aureolus Bombastus von Hohenheim)。
ルネサンスと宗教改革の時代、人体を化学的にとらえ、「病気」は無機物の服用で治療できるとして、鉛や銅などの金属の内服薬やチンキ剤などを作った。「医科学の祖」と言われる。
その生涯で、大半を逃亡(伝統的医学の改革者は「当局への反抗と侮蔑的態度」の廉で、大学を追われた)と遍歴で過ごしたが、実際の治療を数多く行い、同時に著作や手稿も大量に残した。
その非伝統的な/革新的な実験的態度から、ファウスト博士のモデルの一人とも言われる。

科学技術の進展は、人類に何をもたらすのか。
かつて、それには「進歩」と答えれば用が足りた。
しかし、現在、生活の利便性と同時に、科学技術は効率的な人類の殺戮方法をももたらすことが明かになっている(と同時に自然の破壊方法も)。
その長いリストの最後の方には、「核兵器」「化学兵器」「細菌兵器」といったものが挙げられる。

パラケルススにおいて、人間存在は宇宙(コスモス)を忠実に模した小宇宙(ミクロ・コスモス)だった。であるから、医師自体も、患者もミクロ・コスモスの一部であり、医師は神を代行して知と力を発揮し、自然を助け、病気を治療する。
「内なるもの、隠されているもの」とは、コスモスの秩序=ミクロ・コスモスの秩序を知ることを意味する。

信仰の問題は、さて置いて、ここにあるのは、機械論的な自然観・人間観への反措定である。
「科学の知は、その方向を歩めば歩むほど対象もそれ自身も細分化していって,対象と私たちとを有機的に結びつけるイメージ的な全体性が対象から失われ、したがって、対象への働きかけもいきおい部分的なものにならざえるをえない」(中村雄二郎『哲学の現在』)
のである。

科学技術が、機械論的な自然観によって、人類を滅ぼすに到る道を切り開いたとするなら、非機械論的な自然観の可能性を確かめる必要が充分にあるだろう。

参考資料 大橋博司『パラケルススの生涯と思想』(思索社)
     *上記引用は、本書から行なった。

今日のことば(40) ―― A. ミッチャーリッヒ

2005-11-29 03:02:27 | Quotation
「ある集団が禁欲的で高潔な理想に依拠している時代には、同時に激しい攻撃的傾向が高まり、それが内部、あるいは外部の敵(《反革命派の人びと》)に投射されるのが観察される。ひとたび偏見によって、敵の上に危険な連中だというレッテルが貼りつけられると、自分がもっている攻撃性は、合法的な正当防禦とされ、公然と発揮されることになる。」
(『喪われた悲哀 : ファシズムの精神構造』)

A. ミッチャーリッヒ(Alexander Mitscherlich, 1908 - 82)
ドイツの心理学者。ハイデルベルク大学精神分析学・精神身体医学教授、フランクフルト大学心理学教授を歴任。1960年以来フロイト研究所所長を兼任。
戦後ドイツの精神分析学の中心的存在だが、心理学のみならず、社会学や動物行動学も議論の展開に応用するなど、幅広い観点を持っている。1969年には、ドイツ出版協会から平和賞を受賞した。
夫人は、心理学者のマーガレーテ・ミッチャーリッヒで、『喪われた悲哀 : ファシズムの精神構造』は彼女との共著。
「ミッチャーリッヒ曲線」で知られるドイツ人化学者の A. ミッチャーリッヒ (1836 - 1918) とは同姓同名の別人。

上記引用の『喪われた悲哀 : ファシズムの精神構造』は、ファシズムの社会心理学的考察。
過度に抑圧された「前社会的な状態に留まっている過剰な衝動の残余」が、時として、代償作用としてスケープ・ゴート(「犠牲の山羊」)を求めることになる、と説く。ここでは、ナチ体制下におけるユダヤ人排斥が主なテーマであるが、それ以外にさまざまな社会現象を、この原理で説明することができる。
前近代における日本社会では、「村八分」「憑き物筋」など、西洋においては「魔女狩り」など
また、現代においては、アメリカでの「赤狩り=マッカーシー旋風」、ソ連での「トロツキスト狩り」など。
外国人排斥(ゼノフォビア)などは、ほとんど、このパターンということができるだろう。
しかし、「禁欲的で高潔な理想に依拠している時代」ならざる現代においても、異質なものを排撃する傾向は、同じパターンを踏むようだ。

E. フロムの『自由からの逃走』と併せて読まれることをお勧めする。

参考資料 A .& M. ミッチャーリッヒ著、 林峻一郎/馬場謙一訳『喪われた悲哀 : ファシズムの精神構造』(河出書房新社)
     アレクサンダー・ミッチャーリヒ著、竹内豊治訳『攻撃する人間』(法政大学出版局)
     A.ミッチャーリヒ著、小見山実訳『父親なき社会―社会心理学的思考―』(新泉社)

今日のことば(39) ―― K. ケレーニィ

2005-11-28 06:16:41 | Quotation
「神話の出来事は世界の根底を形づくる。というのは、一切が神話の出来事を基礎とするからだ。神話の出来事はアルカイ(始源)である。神話の出来事が常に老いることも尽き果てることも知らず、克服されることもなく残っているころ、つま底知れぬ太古のある時代、永遠に繰り返される再生によって不滅の姿を現わす過去のある時代に、一切の個別的特殊的なものが特に自己の拠り所とし、また自己形成の原点とする、あのアルカイである。」
(『神話学入門』)


K. ケレーニィ(Karl Kerenyi/Ka'roly Kere'nyi, 1897 - 1973)
ハンガリー生れの神話学者。ブダペスト大学でギリシア哲学を学んだが、1929年のW. F. オットーとのギリシア旅行を契機に、比較宗教学と社会史とを結合させる方法を模索し始める。一方、K. G. ユングとも親交を結び、現代心理学の成果をも知ることになる。
彼の神話に対するスタンスは、上記引用をより端的に示した、
「神話はものごとを説明するためではなく、『基礎づける』(begrunden)ために存在する」
という語にもっとも良く表れているであろう。
ギリシア神話に関する著者として『プロメテウス:ギリシア人の解した人間存在』(法政大学出版局)『ギリシアの神話 英雄の時代』『ギリシアの神話 神々の時代』(中央公論社)、神話学に関しては『神話と古代宗教』(新潮社)などの他に、『物語創作と神話学:トーマス・マンとの往復書簡』などが邦訳されている。

ともに〈アルカイ〉を目指した、ドイツ・ロマン主義の視線が、中世ドイツや古代北欧神話に向ったのに対して、一方、ハンガリー生れのケレーニィのそれが、ギリシアに向ったのは興味深い。それは、単にギリシアに旅したから、という理由ではない。
ユングとの親交に見られるように、そこにはヘレニズムに源流をもつ文化こそが、西欧思想の根底である、という確信めいたものがありそうだ(ユングは、グノーシス主義への関心から、ヘブライズムへその対象を広げていったが)。

このことは、人類全体のアルカイなるものは、理念形としてはあるものの、実際に研究対象にするのはきわめて困難であることを示しているようだ(心理学とても同様。〈集合的無意識〉なるものを想定するにしても、それは〈個別文化〉的無意識の地層に厚く覆われているから)。

参考資料 ケレーニィ/ユング、杉浦忠夫訳『神話学入門』(晶文社)

今日のことば(38) ―― 岸田日出刀

2005-11-27 03:30:22 | Quotation
▲岸田日出刀設計の東京大学安田講堂

「『モダーン』の極致を却ってそれら過去の日本建築その他に見出して今更らに驚愕し、胸の高鳴るのを覚える者は決して自分丈けではないと思ふ。」
(『過去の構成』)

岸田日出刀(きしだ・ひでと、1899 - 1966)
建築家、建築学者。1959(昭和34)年まで東京大学で建築意匠学を講じていた。
代表的な設計作品には、東京大学安田講堂(1925)がある。
岸田自身はモダニストではないが、その流れには共感・理解をもっていた(装飾過多の〈様式建築〉に対する反撥)。
上記引用は、1929(昭和4)年刊行の写真集の編集意図を述べたもの。
丹下健三は、
「わたしもまだ学生のころでしたが先生(註・岸田日出刀)の『過去の構成』には非常に感銘をうけました」
と座談会で述べている。

岸田の意図は、
「純粋な日本建築は簡素なものであり、よけいなかざりつけはぜんぜんない。シンプルな構成美を誇っている。つまり、モダニズムの建築は、日本の伝統美とつうじあう一面をもっている。その意味では、正統性のあるデザインだ」(井上章一『つくられた桂離宮神話』)
という点にあった。

このような考え方は、後に広く実際の建築に応用され、吉田五十八の「現代数寄屋建築」などにもつながる。

なお、井上の前掲書では、桂離宮の「美」の第一の発見者は、ブルーノ・タウトではなく、岸田ら、先見の明のある日本人建築家であったことを明らかにしている(それだけが、主なテーマではないが)。

参考資料 井上章一『つくられた桂離宮神話』(弘文堂)
     井上章一『アート・キッチュ・ジャパネスク』(青土社)

今日のことば(37) ―― 齋藤緑雨

2005-11-26 00:00:10 | Quotation
「それが何(ど)うした。唯この一句に、大方の議論は果てぬべきものなり。政治といはず文學といはず。」
(「萬朝報」明治31年11月6日)

齋藤緑雨(さいとう・りょくう、1867 - 1904)
小説家、評論家、随筆家。本名は賢(まさる)。正直正太夫、江東みどり、緑雨醒客、登仙坊などの筆名もある。明治法律學校中退。新聞界に入り、「今日新聞」「東西新聞」「国会」「萬朝報」などを渡り歩く。1879(明治22)年の『小説八宗』以降は批評家として、1881(明治24)年の『油地獄』以降は小説家としても知られる。1897(明治30)年『おぼえ帳』以下の短文隨筆集、1898(明治31)年『眼前口頭』以下の警語集(アフォリズム集)を書き始める。初期の批評では激しい罵倒を行い、あちこちから反感を買った。晩年に至っても新聞で筆禍事件をたびたび起した。

齋藤緑雨は、貧窮の中で亡くなった。「貧」に関するアフォリズム、
「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡(しゅうか)敵せずと知るべし。」(「青眼白頭」)
は良く知られている。
そのほか、政治・風俗・文学とその筆の対象は多いが、中でも、次のようなアフォリズムは、後の芥川龍之介の警句集『侏儒の言葉』を思わせるものがある。
「軍人の跋扈を憤れる人よ、去つて淺草公園に行け、渠等(かれら)が木戸錢は子供と同じく半額なり。」(「萬朝報」明治31年11月12日)
――「軍人は小児に近いものである。(中略)この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。(中略)わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」(『侏儒の言葉』「小児」)

参考資料 齋藤緑雨著、中野三敏編『緑雨警語』(冨山房)

『戊辰戦争―敗者の明治維新』を読む。

2005-11-25 10:40:17 | Book Review
今回は、ストレートな書評ではなく、見解の相違を明らかにする。
勝海舟の行動および意図に関することである。

新政府軍の江戸城総攻撃を控えて、海舟は幾つかの手を打った。
海舟の腹は、開城止むなしとするもの。
そのために、海軍兵力での決戦を回避、「主戦派の暴発を極力抑えてきた」。
というのも、徳川家の存続を図るためには、「戦争をせずに談判交渉で、できるかぎり有利な譲歩を政府(一風斎註・維新政府)からかち取ろうともくろんでいたからである」。

打った手の1つは、イギリス公使パークスに働きかけること(この件に関しては、半藤一利『それからの海舟』に詳しい)。
この工作によって、薩摩側に立っていると思われていたパークスが、
「恭順している者を攻撃すべきでないとし、また居留民の安全も保証できないようでは新政府を信頼できない」
と言いだしたのである。

もう1つの手は、宮廷への工作である。
静寛院(皇女和宮)から宮廷の親近者や公家へ、輪王寺宮(後の北白川宮)から大総督宮(有栖川宮熾仁親王)へ、山内容堂・松平慶永(春嶽)などの諸侯へ、といった工作ルートであるが、海舟はこの工作には深くは関与はしていないようだ。しかし、その工作の成否に関しての報告は受けていたことであろう。

しかし、最悪の事態を想定する必要はある。
それが「焦土作戦」だった。
「もし敵が自分らの嘆願を受入れずに、あくまでそうした策(一風斎註・自軍の進んだ後の市街に火を放ちながら、一挙に江戸城目がけて襲いかかるという新政府軍の作戦)を用いるなら、自分の方から敵の進路の市街を焼いて妨害しよう」
という作戦。

――余談ではあるが、勝は長崎海軍伝習所時代に、オランダ人士官からナポレオンに攻め込まれたモスクワ郊外での、ロシア軍の作戦を聞いていた可能性がある。

ここからが、小生の異論である。

著者は、「難民を救うように手配した」勝の策を、
「それにしても江戸の市民こそいい迷惑である。彼らは家財とひきかえに一体なにを得ることができるであろうか。勝にとっては徳川家およびその家臣の存亡がなによりも優先し、一般の市民などは生命さえ助かれば、まずそれでよいと考えていたにすぎなかったのである。」
と評価する。

けれども、「一般の市民」などは、この時代存在しない。
火事に慣れた下層町民に家財などはあってなきがごときもの、「生命さえ助かれば」それで充分だったのではないのか。
また、彼らにとって火事は、その後の復興によって手間賃も上がり、仕事のチャンスも増える、絶好の機会でもあったのである。

であるから、家財を失うことを恐れるのは、上層町民あるいは「お歴々」と称せられる上級旗本層だけなのだ。
ましてや、気の効いた上層町民などは、深川辺りに復旧用の資材を用意している。
となると、焦土戦術で一番迷惑するのは、かえって上層旗本層だけではないのか(中層、下層の旗本・御家人などは、下層町民と事情はさほど変わりない)。

どうやら著者は、江戸時代の常識を忘れ、近代戦(「沖縄戦」辺り)を想定して、「一般市民」は常に被害者である、という固定観念にとらわれ過ぎているのではないかと、小生には思えてならない。

佐々木克
『戊辰戦争―敗者の明治維新』
中公新書
定価:本体735円(本体700円)
ISBN4121004558


今日のことば(36) ―― 内田魯庵

2005-11-25 00:08:28 | Quotation
「我々は高等遊民其の物を決して国家の為に恐れるものではない。たゞ、高等遊民を恐れて、高等の智識に走らんとする国民の大勢を抑へんとするものあるを恐れるのである。」
(『文明国には必ず智識ある高等遊民あり』)

内田魯庵(うちだ・ろあん、1868 - 1929)
小説家、翻訳家、評論家、随筆家。本名は貢(みつぎ)、幼名は貢太郎、別号は不知庵。1887(明治30)年以降は、魯庵の名で知られた。若くして『罪と罰』を翻訳、『くれの廿八日』『血ざくら』などのほか、多くの小説を書いたが、1901(明治34)年から丸善株式会社に入社、図書顧問として輸入図書の大半に目を通したといわれる。この丸善には終生務め、雑誌『學鐙』の編輯にも当たった。また、書誌学者としても重んじられた。

国民に有用性を求める、明治日本のような「一流国に追いつく」ことが目標の国家にとって、「無用」としか思えない「高等遊民」の存在が増えることは、「亡国の兆し」としか考えられなかった。
したがって、高等教育機関での学問と言えば、国家の官吏として必要なものが主流。文学などは、「高等遊民」をつくるだけの無益な学問視されていたのである(柳田國男にとって、民俗学は「経世済民」の学の1つであるという意識が抜けきらなかった。彼は、東京帝大法科大学卒業後、農商務省に入省。その後、法制局参事官、貴族院書記官長を務めたという官僚生活を送っている)。

このような官学アカデミーに対峙する知識人として、「高等遊民」という存在を捉えることができよう(官学アカデミーの内部にありながら、「高等遊民」の積極的な価値を認めていたのが夏目漱石)。

このような構造に、旧幕臣系の知識人という存在が重なり合ってくるのが、明治という時代の特徴の1つ。内田魯庵も、幕臣内田正の長男という、準「旧幕臣系の知識人」と呼んでもいい存在である。

山口昌男によれば、
「近代日本の諸学(人類学・考古学・民俗学・美術史……)は、学校のようなタテ型でない趣味や遊びに根ざした市井の自由なネットワークに芽吹き、魯庵はその象徴的存在だった」
という評価になる。

参考資料 山口昌男『内田魯庵山脈―〈失われた日本人〉発掘』(晶文社)
     山口昌男『「敗者」の精神史』(岩波書店)

「道行」雑考 その3

2005-11-24 00:01:20 | Essay
▲作詞者大和田建樹(おおわだ・たてき)直筆の鉄道唱歌
(鉄道博物館所蔵)

社会の世俗化が、より進展するに従い、〈道行〉も、より脱宗教化/散文化していく。
下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下にやって参りまして、三枚橋を渡って上野広小路に出てきた。
あれから御成り街道をまっすぐに参りまして、その頃堀様と鳥居様のお屋敷の前をまっすぐに、筋交御門から大通り、神田須田町へ出て参りました。
新石町(しんごくちょう)から鍛治町(かじちょう)、今川橋を渡って本銀町(ほんしろがねちょう)、石町(こくちょう)から本町(ほんちょう)、室町(むろまち)を抜けまして日本橋を渡って通り四丁、中橋から南伝馬町を抜けて京橋を渡ってまっすぐに、尾張町を参りまして、新橋を右にきれて、土橋から久保町、新シ橋(あたらしばし)の通りをまっすぐに、愛宕下へ出てまいりまして、天徳寺をくぐって神谷町から飯倉六丁目、坂を上がって飯倉片町、その頃おかめ団子という団子やの前をまっすぐに、麻布の永坂を下りまして、十番へ出て、大国坂を上がって一本松から麻布絶江、釜無村の木蓮寺についた時は、みんな随分草臥れた。」(落語『黄金餅』)
――ああ、志ん生が懐かしい!

早桶(棺桶)の「道行」なのだが、ここにはもはや情緒はない。
地名の羅列が、散文的な印象をより強める(森田芳光監督作品『の・ようなもの』に『黄金餅』の「道行」のパロディーがあった)。
近世も末期になって、「時間」と「空間」を認識する方法が変ったという印象を与える。それでも、棺桶の「道行」という点に、かろうじて宗教性の痕跡を留めていると言えようか。

「絵すごろく」の登場も、このような経過と関係があるように思えるが、それはまた別に論じたい(「盤すごろく」という、抽象的な升目の上をサイコロの目に従ってコマを進めて行くゲームが、「絵すごろく」*という、具体的な絵柄の描かれたマスを進んでいくゲームへと変ったのは江戸時代のことである)。
*『滑稽東海道中弥次喜多寿語六』『天満宮参詣双六図』などの道中ものが、人生ものと並んで存在する。いわば前者が「空間軸」に沿った展開だとすれば、後者は「時間軸」に沿った展開と言えよう。

さて、明治に入ってから、「道行文」の伝統は、近代産業の所産を媒介にして、思いもかけない復活を遂げる。
それが、各鉄道路線で盛んに作られた、沿線の地名・名所・名産・歴史などを歌い込んだ「鉄道唱歌」である。
「汽笛一声新橋を」に始まる東海道線は、あまりにも有名であるので、ここでは山陽本線編の冒頭をご紹介しよう。
夏なお寒き布引の
滝のひびきをあとにして
神戸の里を立ちいずる
山陽線路の汽車の道

兵庫 鷹取 須磨の浦
名所旧蹟かずおおし
平家の若武者敦盛が
討たれし跡もここと聞く

「鉄道唱歌」を最後にして、「道行文」に目立ったものは見られなくなる。

そして現在、情緒も宗教性もない、「旅の恥は掻き捨て」というアジール的道中観が零落した感覚が、われわれの中に残っているだけなのである。

『「道行」雑考 』了

「道行」雑考 その2

2005-11-23 12:09:28 | Essay
▲人形浄瑠璃『曾根崎心中』のお初と徳兵衛

アジール的道中観が、近世になってもまだ生きていた。
それを証しするのが、近松門左衛門(1653 - 1724)の心中ものにおける「道行文」である。
この世のなごり 夜もなごり 死にに行く身をたとふれば、 
あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く
夢の夢こそあはれなれ
あれ数ふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて
残る一つが今生(こんじょう)の 鐘の響きの聞き納め
寂滅為楽(じゃくめつ いらく)と響くなり
ご存知、『曾根崎心中』である。
ここにおいては、彼岸と此岸との境もあいまいになり、〈この世〉はすなわち〈あの世〉、〈あの世〉はすなわち〈この世〉、という世界が文章の力によって現出する。

すなわち、道中=アジール(聖域)という観念があったればこその〈道行文〉であろう(しかも、ここには境界における〈両義性〉という観念が、前面に立ち表れてくる。それは、社会の世俗化の進行に伴い、道中=〈聖域〉観が薄らいだために、鮮明になったものではないのか)。

そのような観念は、世俗化が進む中でも、歌舞伎において痕跡をとどめている(藝能が神事から発生したからか?)。
例えば、『仮名手本忠臣蔵』の「道行旅路の花聟(みちゆきたびじのはなむこ)」*。
*『仮名手本忠臣蔵』自体は、人形浄瑠璃として1748年に初演されたが、この「道行」は、1833年に江戸歌舞伎で所作事として挿入されたもの。
清元に「落人」という別名があるように、判官刃傷の責任を感じたお軽と勘平が、お軽の実家へと落ちてゆくさまを描いたもの。

まさしく、この道中も、ハレの世界からケの世界への(歌舞伎的に言えば、「時代物の世界」から「世話物の世界」への)、世界移動の過程なのである。
この過程において、2人は両義的な存在となり、境界を移動するのである(鷺坂伴内と「花四天」は、「時代物の世界」から境界への闖入者?)。

「勤労感謝の日」とは言うものの……。

2005-11-23 00:31:22 | Essay
今日は「勤労感謝の日」、といっても別に労働組合の記念日や、アメリカのサンクス・ギビング・デイやレイバー・デイにちなんだ祝日というわけではない。
戦後、このような名前に変わったが、戦前は「新嘗祭(にいなめさい/しんじょうさい)」といった宮中行事。

一般の神社での「秋祭り」、収穫感謝祭といったところか。記紀伝承にまで遡れば、天皇家の先祖であるアマテラスからニニギへ穀霊が授けられたことを伝える儀式とされている由。であるから、宮中では最高の神官である天皇が、天地の神に新穀を捧げ共食するという。

だから、別に労働への感謝ではなく、穀霊を授けてくれた神々への感謝、というわけだ。それを「勤労」としたところにいささか無理があるし、何となくGHQ
(General HeadQuarter:連合軍最高司令部)を慮ってという感もある(「国民の祝日」が制定されたのは1948(昭和23)年だから、まだ占領下(Occupied Japan!)。

このほかに、戦前派には「建国記念の日」(紀元節)、「春分の日」(春季皇霊祭)、「秋分の日」(秋季皇霊祭)、「文化の日」(天長節/明治節)がある(「春分の日」「秋分の日」の天文学的な移動はあっても、基本的にこれらは〈移動祝祭日〉になっていない!)。

特に問題があるのは、やはり「建国記念の日」だろうね。根拠などなく、単に記紀神話を解釈して、この日にしただけだから。

「国」っていうのが、「日本」だとすれば、その国名が生まれたのは8世紀。その当時、現在の東北地方は自国として意識されていなかっただろう。
近代国家(=国民国家:nation state)としては、19世紀の誕生。まがりなりにも、北海道から九州・沖縄までも国土と意識されたのは、明治時代からなんだから、歴史的に「建国」といえば、この時点を採るべきでしょう。

特に北海道や東北地方、沖縄に住んでいる人たちは、どう思っているんでしょうねえ、自分たちを勘定に入れていない「建国記念の日」なんてものを。