一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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今日のことば(110) ― 横井小楠

2006-03-19 03:32:08 | Quotation
  尭舜孔子の道を明らかにし
  西洋機器の術を尽くす
  何ぞ富国に止(とど)まらん
  何ぞ強兵に止まらん
  大儀を四海に布(し)かんのみ

 (甥の左平太・大平を渡米させた際に与えたことば)

横井小楠(よこい・しょうなん、1809 - 69)
幕末維新期の論策家。熊本藩士大平の二男として生まれる。通称は平四郎、別号は沼山。1839(天保10)年江戸に遊学、翌年帰藩後は藩校時習館の保守的な学風を批判、長岡監物、元田永孚らと実学党をつくる。1858(安政5)年、福井藩に招かれ政治顧問となる。1862(文久2)年、政事総裁職となった福井藩前藩主・松平慶永(春嶽)を助け活躍。明治新政府の参与に起用されたが、1869(明治2)年、血統世襲否定論を天皇に当てはめるのではないかと疑われて、京で暗殺される。

小楠は「儒教原理主義者」と呼んでもよいであろう。
つまり、江戸時代に幕藩体制の教学として歪曲・矮小化された儒教ではなく、四書に基ずく正しい理解・解釈を行なう儒教を実践しようとするのである(それを「実学」と称する。「尭舜孔子の道を明らかに」すること)。

それを行なうことにより、幕藩体制による官僚支配は覆る。
なぜなら、元来の儒教によれば、世襲武士は支配階級とはならず、藩主や将軍も徳のない人物は最高支配者とはならないからである。
「藩主と家臣団とは、儒教の政治的理想に従って人民に奉仕する政治運動集団になる。その運動の先頭に立って指揮できないような藩主は藩主としての資格がないのだからクビにして、政治的道徳的に最もすぐれた人物を藩主にする必要がある。(中略)武士を、元来の儒教でいう『士』に切換え、その切換え能力の無い輩は廃業させるのである。」(松浦玲『明治維新私論』)

このような原理は、ペリー来航への対応問題にも適応される。
小楠は、開国/攘夷という選択肢を採らず、有道/無道という考えを選ぶ。
「儒教国家の場合、まず第一に判断すべきは、相手の言い分が道理か道理でないかである。道理なら受け入れ、非道なら拒絶する。拒絶するために武力が必要なことも多いから武備を怠ってはならないけれども、第一義的なことは、相手の要求について道理にもとづく判断を下すことである。」(松浦、前掲書)

ところが、実際の幕府の対応は、「相手が弱いとみれば、要求を聞きもしないで攘ち払う。強そうでとてもかなわないとみれば、要求の是非を判断することを初めから放棄して屈伏し、国内向けには、追い払うために武備を強化しなければならないという政策を打ち出」すというものであった。

そしてまた、反幕府側も、「攘夷論でつっぱしって、攘夷が戦力的に不可能とわかると百八十度転換して相手側の文化を全面的に採り入れる」ということになる。
明治政府の行なった政策は、まさしくこの路線である。

この路線が、アジアで帝国主義的な(覇道的な)政策を進めることにもなり(「植民地主義は西欧に学んだだけだ」という理由付け)、アジア・太平洋戦争にまでつながってくる。

そこには、小楠の路線に先にあった「中国・朝鮮との連帯による、アジア型近代」(「大儀(=大義に同じ)を四海に布(し)かん」)などというものは、微塵も見えてはこない。
あったのは、西欧型近代を基準(「富国強兵」)にして「遅れた隣国」から離れる「脱亜論」だけだったのである。

参考資料 松浦玲『横井小楠』(朝日新聞社)
     松浦玲『明治維新私論 アジア型近代の模索』(現代評論社)