一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
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『阿片王』を読む。

2006-03-28 09:28:45 | Book Review
一言で表せば「隔靴掻痒」。
セピア色の、しかもピントのずれた写真を見ているよう。

原因その1。
テーマである「里見甫(はじめ)」の実像に迫れていない。
魅力ある人物であるからといって、ノンフィクション作家まで、その魅力に捕らえられてしまってはいけません。

以下は、それが矛盾として現われた1例。

里見の火葬の際、「頭蓋骨が淡いピンク色に染まって」いたという事実(阿片常習者の特徴だという)のリアリティーと、彼の戦前の生活とのリアリティーとの間に、佐野は、どのような関係を見出しているのか。
阿片を商品として扱うことが、結局は阿片常習という罠に陥ることになったということなのか。

それにしては、
「うなるような札束に囲まれながら、里見はそれで私服を肥やすようなことはまったくなかった。酒は一滴も飲まず、贅沢といえば、英米製の高級シガレットを絶え間なく吸うくらいにものだった。/誰いうとなくつけられた『阿片王』という、殺伐としておどろおどろしいニックネームを感じさせる雰囲気はどこにもなかった。」
という表現との整合性が、あまりにもないエピソードである。

原因その2。
前半の「里見甫」の部分と、それを取り巻く女たちの部分が、十分に融合していない。

確かに「梅村うた」「梅村淳」と破天荒な人生を送った人物たちが、里見の周辺を彩っているが、それはあくまでも傍役に過ぎない。
それを忘れて、その副筋を半分近くの分量をとって扱うのは如何なものか。
しかも、記述の大部分が、必ずしも里見の人物に迫るためのものではなく、そこで完結してしまっているのだから。

以上、2点がノンフィクション作品としての大きな破綻。
その他に、文章作品としては、奇矯な表現や奇怪至極な言い回しが、あまりにも多過ぎるのではないか。

1例としては、
「これ(梅村母子の家系図)を手に入れたとき、梅村淳と梅村うた親子、そして里見甫の三人が、満州帝国皇帝に祭りあげられたラストエンペラーの宣統帝溥儀を連結器として、満州の夜と霧を切り裂いて疾走する長い夜汽車のように、静寂(しじま)を破って繋がったという妄想に似た思いにかられた。」
一読して、意味が分かる方はいらっしゃるのだろうか。

うーむ、これはいささかお勧めしずらい本であります。
小生、佐野真一の『巨怪伝』(正力松太郎)や『カリスマ』(中内功)は買うが、これは2書より出来がよろしくないのではないのか(対象へののめり込み度に、自制が働いているかどうかに原因あり)。

佐野真一
『阿片王 満州の夜と霧』
新潮社
定価:本体1,890円(税込)
ISBN4104369039