一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

「歴史其儘」と「歴史離れ」

2007-06-30 04:58:19 | Criticism
明治時代になって西欧化が進むと、従来の「稗史(小説)」は著しく非難の的になります。

その典型的な言説が、坪内逍遥の『小説神髄』であると言えるでしょう。
そこで彼は、「江戸時代の怪奇風で勧善懲悪式の物語作法を批判し、人間の感情や物事をありのままに描写する小説 novel を提唱」(HP「青空文庫」坪内逍遥の項目)します。

これによって、ほぼ従来の「稗史(小説)」的なものは、講釈や芝居などの民衆芸能の世界に追いやられていきます(一方で、劇場・脚本・演技のすべてに渡って、歌舞伎の近代化も進んでいく。「活歴もの」から「新歌舞伎」)。

また、次のような言説も、大正時代になると現れてくる。
「わたくしは史料を調べて見て、其中に窺はれる『自然』を尊重する念を発した。そしてそれを猥に変更するのが厭になつた。これが一つである。わたくしは又現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思つた。」

「わたくしはおほよそ此筋(=原・伝説の『山椒大夫』)を辿つて、勝手に想像して書いた。地の文はこれまで書き慣れた口語体、対話は現代の東京語で、只山岡大夫や山椒大夫の口吻に、少し古びを附けただけである。しかし歴史上の人物を扱ふ癖の附いたわたくしは、まるで時代と云ふものを顧みずに書くことが出来ない。そこで調度やなんぞは手近にある和名抄にある名を使つた。官名なんぞも古いのを使つた。」
というのが、森鴎外の「歴史其儘と歴史離れ」に説明された2種類の小説作法です(「歴史小説」概念の2類型と見るより、鴎外の2とおりの小説作法と読んだ方が適切だと思われる)。

一方で、地下底流化していた「稗史(小説)」が、講釈の文字化という形で表面に出てくるのも、この頃です(「立川文庫」「講談倶楽部」など)。

森鴎外
『歴史其儘と歴史離れ―森鴎外全集(14)』
ちくま文庫
定価:各 1,427 円 (税込)
ISBN978-4480030948

「史伝」と「稗史(小説)」

2007-06-29 00:48:25 | Criticism
歴史を書き物にした場合、「史伝」に対して「稗史(はいし)」という二項対立する概念が伝統的にあるわけですが、この対立、今日でいうと、どういうジャンルになるのでしょうか。

「歴史」そのものを、われわれは五感で直覚的に捉えるわけにはいきませんので、普通は文字を通じて理解しようとします(ここでは「図像史料」は脇へ置いておく)。その基になるのが「史料」でしょう。
その「史料」に主観的な要素や史観が加わっているかどうかは別にして、とりあえずは、これが一番の基礎になることは間違いないところ。
ここでは、「史料」をまとめたものとして、とりあえず「史書」を扱います。

「史書」をベースにして、フィクションの要素を排除し、著者の歴史観に基づき書いたものを「史伝」、フィクションを入れて著者が再構成したものを「稗史」と呼んでいるのではないでしょうか。
また「稗史」の場合には、時によりプロットの都合で歴史的事実を改変する場合もあるので、「史伝」より一段低く見られる場合もありますが、これはプロットを重視するか、それとも歴史的事実を重視するか、という叙述における態度の違いで、そこに文学的価値の高低はありません(著者自身がコンプレックスを持つことはあるけどね)。

例を挙げれば、中国の場合でいえば、「史書」が陳寿の『三国志』、「稗史」が『三国志演義』となるでしょう。『水滸伝』も同様で、「史書」はおそらく『宋史』、しかし直接、史書からというわけではなく、説話集『大宋宣和遺事』辺りが中間項としてあるのでしょう。

日本の場合、江戸時代の読本が、代表的な稗史(小説)のジャンルで、
「時代設定と場所、そして登場人物たちの固有名詞は自在に設定できるわけではなく、演劇世界で培われた伝統的な枠組であるいわゆる〈世界〉に規制されている。つまり制度化された歴史叙述の様式的方法からいかに離れられるかが、草双紙とは異質な江戸読本にとっての一つの課題でもあったのである。」(高木元「江戸読本研究序説」
となるのでしょう。
分りやすい例では、馬琴の『椿説弓張月』。おそらく、それなりの「史書」や『保元物語』を中心とした伝説に基づいているのでしょうが、馬琴独自に描いたフィクションの要素がかなり強いものになっています。

以上のような「史伝」と「稗史」という概念を、江戸時代人は持っていたと思われるのですが、明治になり西洋風の「小説(ノヴェル)」という概念が入ってくると、また事情がいささか変化してきます。

その辺については、またの機会に。

人物を読む(8)―三河屋幸三郎(1823 - 89)その2

2007-06-28 01:12:32 | Person
さて、三河屋幸三郎ですが、父親が八丈島に流罪中に生まれた、と、小生手持の資料にありますから、母親はどうやら八丈島での「現地妻」だったようです。けれども、父親の罪名は分っていません。

ちなみに、江戸時代「流刑」は「死刑」より一段階軽い罪で、教唆されて殺人を犯した者や、殺人の共犯者、博打の胴元になった者(一例としては、侠客小金井小次郎が同じ八丈島に流された)などが、この罪を課せられます。基本的には終身刑ですが、将軍家の慶事などの場合には赦免されて、本土へ帰ることもありました(江戸時代を通じて、八丈島流罪者計1,804人の内、恩赦されたのが407人、22.6%いたと資料にあります)。

幸三郎の父親の場合も、おそらくは家斉から家慶への将軍の代替りに伴う恩赦で、江戸に戻ることができたのだろうと思われます(代替りは、1837:天保8年)。その場合には、島での妻も連れて帰ることができたそうですが、多くは「現地妻」として島へ置いたまま、ということが多かったとのこと。

父親の場合も、「現地妻」と別れ、当時十五、六歳になっていた幸三郎だけを連れて江戸に戻ってきました。

しかし、当然のことながら江戸には継母にあたる女性がいて、幸三郎とは折り合いが悪かったようです(いわゆる「生さぬ仲」というやつで……)。想像するに、それだけではなく、自分の実の母親を置き去りにしていった父親への悪感情もあったのでしょうね。
幸三郎は、家を飛び出して、お決まりどおり、博徒の仲間に入る。
ああ、青春のデスパレイト!

もともと彼の性格には、光雲が証言しているように「侠客肌」のところがあったものと思われますから、このままでいれば、名の知られた大親分になったかもしれません(猪野健治『やくざと日本人』では、新門辰五郎と並んで「佐幕博徒」に括られているが、これはちょっと拡大解釈し過ぎだろう。新門辰五郎は町火消「を組」の頭だし、「侠客」と「博徒」とはちょっと異なる概念だし……)。

人物を読む(7)―三河屋幸三郎(1823 - 89)その1

2007-06-27 02:23:06 | Person
今回は、今までの記事にもまして、知る人も少ない人物。

まずは、高村光太郎の父光雲の回想から。
「その宿所へ訪ねて見ると、それはなかなか立派な構え、御成道(おなりみち)の大時計を右に曲って神田明神下の方へ曲る角の、昌平橋(しょうへいばし)へ出ようという左側に、その頃横浜貿易商で有名な三河屋幸三郎、俗に三幸という人の店であった。
 私は、迂闊(うっかり)していたことをおかしく思いながら、通されて逢うと、幸三郎老人はなかなか話が分る。そのはずで、この人は維新の際は彰義隊に関係したという疑いを受けたこともあり、後、五稜廓(ごりょうかく)で奮戦した榎本武揚(えのもとたけあき)氏とも往来をして非常な徳川贔負(びいき)の人であって剣道も能く出来た豪傑、武士道と侠客肌(きょうかくはだ)を一緒につき混ぜたような肌合いの人物で、この気性で、時勢を見て貿易商になっているのであるから、なかなか、話も分るわけである。」(高村光雲『幕末維新懐古談』)
ここにあるように、彰義隊との関係でいうと、新政府軍の命令により放ったらかしのまま置かれていた隊士たちの死骸を、三ノ輪の円通寺の仏麿和尚と謀り、同寺に埋葬したんですね(「上野戦士之墓」として現存)。

今日の靖国神社と同じで、天皇側に立って戦った兵士は丁重に祀っても、反天皇側はそのまま放置する、という方針がこの当時からありました。

その最初は、上野戦争のあった1868(慶応4)年6月に行なわれた招魂祭。
「新政権の樹立へ向けて犠牲となった者を天皇の忠臣として祀り、敗死した『賊軍』の兵はたとえそれが怨霊となろうとも捨てて顧みないという態度を打ち出したのであるから、御霊信仰の伝統とは異なる新たな伝統の形成となってくる。招魂祭は、栄光に包まれた死者を顕彰することで、現世の権力側の価値観を宣揚する場となってくる。」(三土修平『靖国問題の原点』)

ですから、放置された上野の戦死者の死骸を祀るということは、新政府への反逆とも判定されるわけです。それが光雲の回想での「維新の際は彰義隊に関係したという疑いを受けたこともあり」という一節に示されています(同様のことは、清水に停泊した幕府軍艦〈咸臨丸〉の乗組員の場合にもあって、新政府軍との戦闘での戦死者を弔ったのは、清水の次郎長でした。「壮士の墓」として静岡市清水区に現存)。

高村光雲
『幕末維新懐古談』
岩波文庫
定価:798 円 (税込)
ISBN978-4003346716

「山の民」雑感

2007-06-26 14:32:51 | Essay
この国の中世、「木地師(きじし)」「鉱山師(やまし)」「山伏」「修験」など、山岳地帯を生活の場とする人々が大勢いて、一種の畏敬の念とともに、恐ろしい存在として見ていたことは、網野善彦の著者にも書かれているところです。
「人跡未踏の深山は畏敬の対象であり、それだけにそうした山を生業の場とする人々の動きを、平地の人々は一種のおそろしさをもってみていたように思える。鬼や天狗など、「異類異形」なものの住むところという見かたは、すでにこのころ(=鎌倉時代)には生まれつつあった。」(網野善彦『蒙古襲来』)

「山の民」の起源に関しては、諸説紛々で定説めいたものすらないのが現状ではないでしょうか。
弥生の稲作民に追われた縄文の狩猟民に起源を求めるものから、照葉樹林文化を持った民族が列島に移動してきたとするもの、社会変動による難民が山岳地帯に避難したとするものまで、さまざまな説(学説とは限らず俗説に到るまで)があります。
というのも、基層となるものの上に、多種多様な文化が重なり合っているため、それを分析することが、もはや不可能に近いんじゃないかしら。

そのような起源論は別にして、「山の民」に対しては、近年、過度に思い入れをする傾向もあるのね。
「農耕の民には危険はないけれど、自由もありませんでした。海の民や山の民には危険はありましたが、自由があったのです。それは行動だけでなく、何者にも縛られない心の自由でもあるのです」
などという高田宏の発言などが、その代表でしょう(HP「みずといで湯の文化連邦をゆく」掲載のインタヴューによる)。
たしかに、この発言には「自由」に伴う「危険」は述べられているもののの、それが「死」につながるものでもあることは示唆されているわけではありません。

また、「王権」の支配を脱した「自由」民という側面以外にも、エコロジカルな生活という面から、「山の民」を捉えようとする動きもあるみたい。
山の民は「自給自足の豊かな循環型の生活文化」を営んでいた、なんていう考え方がそうでしょう。

ただ、これらの中には、先に見た通り、自分にとって都合のよい、過度に理想的なものを見出そうとする傾向がなきにしもあらず。
その点で、学者らしく堅実な内容を説得力をもって述べているのは、網野善彦ではないでしょうか。ただし、『蒙古襲来―転換する社会』は、「山の民」がメイン・テーマではありませんが、なかなか興味深い内容なのでついでに挙げておきます。
内容は以下のとおりです。
「二度にわたるモンゴル軍の来襲は、鎌倉幕府にとっても、御家人・民衆にとってもこれまでにない試練だった。幕府内部の権力争いは激化し、天皇とその周辺も幕府打倒へと動いた。農村・漁村・都市の分化など、社会も大きく動いていた。古代から中世にかけて、「遍歴する非農業民」の存在を重視する著者が、新視点で切りこんだ新しい中世像」(「BOOK」データベースより)
網野善彦
『蒙古襲来―転換する社会』
小学館文庫
定価:各 1,050 円 (税込)
ISBN978-4094050714

最近の拾い読みから(162) ―『ユダヤ陰謀説の正体』

2007-06-25 15:31:58 | Book Review
この国ほど、ユダヤ人が少ないにもかかわらず、ユダヤ陰謀本が多量に作られている国は珍しいようです。
それはどのような原因によるものかを明らかにしたい、というのが本書での著者のねらいです。
「本書の目的は、ユダヤ人が数えるほどしかいない日本で奇妙に猖獗(しょうけつ)する反ユダヤ主義の消息を戦前から跡づけ、欧米の反ユダヤ主義の影響と日本人のユダヤ人に対する意識をあらためて問いなおすことである」

戦前はともかく、ここ近年の反ユダヤ主義とでもいうべき動きは、ことごとく欧米からの影響だある、というのが著者のまず指摘するところ。

旧聞に属しますが、雑誌「マルコポーロ」に「ナチ ガス室はなかった。」という記事が載り、ついには雑誌そのものの廃刊にまで追い込まれた、という事件がありました。

この記事そのものが、記事を書いた西岡某の独自な取材によるものではなく、その根拠自体が、ことごとく「欧米のサブカルチャーで猖獗している反ユダヤ主義の逐語的な受け売り」である、というのが著者の指摘。
いわゆる「リヴィジョナリスト(歴史修正主義者)」のホロコースト否定論が、輸入されたわけですな。

これに、「ファンダメンタリスト(聖書原理主義者)」系の反ユダヤ主義を合わせれば、ほぼ欧米の反ユダヤ主義の潮流が明らかになるようです。

そではなぜ、反ユダヤ主義(かつてナショナリズムの一つの現れでもあった。「ドレフュス事件」や、ロシアにおける「ポグロム」など)が、ここに至って、その勢力を強めてきたのか。

著者の意見によれば、
「情報・経済や文化のグローバル化が進行するなかで、これまで当然視されてきた国内の習慣にさまざまな変更が余儀なくされ、その結果人々の間に新たなストレスが生じ、ナショナリズムを養う腐葉土が堆積している。そして、ユダヤ人のコスモポリタン的性格にまつわる古典的な比喩が欧米でも日本でも新たな装いを凝らして動員されているというわけである。」
となります。
つまり、反ユダヤ主義が、ナショナリズムの一つの現れであることは、かつても現在も変わりないというのです。

ただ、ここに問題があります。
というのは、著者は「ドレフュス事件以降の文学と思想を現代ヨーロッパ社会の諸問題とのかかわりにおいて研究」しているそうなので、日本のナショナリズムとの関連については、本書でも少ないという傾向があります。
むしろ、欧米における資料的な紹介の部分(かなり詳細)を減らしても、その方面の記述を増やすことはできなかったのでしょうか。

松浦寛(まつうら・ひろし)
『ユダヤ陰謀説の正体』
ちくま新書
定価:693円 (税込)
ISBN978-4480058232

黒須紀一郎と「網野史観」「騎馬民族征服王朝説」など

2007-06-24 19:50:30 | Book Review
「網野(善彦)史観」が隆慶一郎に大きな影響を与えたのは、よく知られています。
本ブログでも「ビルドゥングスロマンとして『吉原御免状』を読む。【その2】」という記事で、その辺のことをご紹介しています。

その後も、「網野史観」は、何人かの作家に示唆を与えているようですが、最近読んでものだと、黒須紀一郎の書いたものに明らかな影響が見られます。
特に戦国ものだと、隆慶一郎の影響なのか、それとも「網野史観」によるものなのかが、判然としないほどの内容になっています。
例えば、『鉢屋秀吉』などは、秀吉が「道々の輩(ともがら)」であり、そのつながりを通じて、さまざまに成果を上げていく、というストーリー。

それでは、黒須紀一郎のオリジナリティはないのか、といえば、そうではありません。
この作家独自なものは、戦国ものではなく、古代ものに如実に現れています。
例えば、『役小角』『覇王不比等』などでしょう。

そこでストーリーの背後に使われている概念は、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」。
「騎馬民族征服王朝説」は、例えば豊田有恒などが、かなり早くから作品に描いてきました(『親魏倭王・卑弥呼』など)。

さて、黒須作品は、それらの考え方に影響を受け、また古代の東アジア情勢と日本の支配者に関しては、小林惠子『興亡古代史―東アジアの覇権争奪1000年』風の説を基にしているようです。

この辺り、松岡正剛のコメントによれば、
「小説ではあるが、著者の歴史上の仮説をかたちにするために書かれたとおぼしい。
 この小説の仮説はいろいろ多岐にわたっているが、根幹となっているのは、やはり天武が朝鮮系で、不比等がその一族だったかもしれないというものである。」(「松岡正剛の千夜千冊『埋もれた巨像』上山春平」)
となります。

まあ、小説=フィクションの世界ですから、トンデモ説でも面白くて、説得力があれば、それで十分なんですけどね。
問題があるとすれば、それをノン・フィクションのように受けとってしまう読者の方でしょう。

黒須紀一郎(くろす・きいちろう)
『覇王不比等』第一部 鎌足の謎
作品社
定価:各 840 円 (税込)
ISBN9784878934759

戊辰戦争の「謎」

2007-06-23 01:39:05 | History
戊辰戦争の勝敗を決したのは、火力の差だとよく言われます。
たとえば、
「戊辰戦争は一部の白兵戦を除いては銃撃戦であった。銃砲の良し悪しが勝負を決めた。(中略)連合軍(=新政府軍)の銃は最新式の西洋銃を多く使用しているに対して、幕府軍は火縄銃と西洋銃があっても連合軍のそれより一時代古い銃を使用している。」(『歴史への招待14』)
というのが代表的なものでしょう。

しかし、実際には、火力の差というよりは、その運用の差ではないかと、思われるのです。
「運用の差」で一番大きなのは、使用した武器の弾薬や弾丸が順調に補給できたかどうか、ではないでしょうか。
そのためには、ランニング・コストがどの程度かかるかを知らなければなりません。
例えば、アームストロング砲の場合、砲弾1発で0.44両(約1分3朱)掛かったという史料があります。こうなると、かなりの軍資金がなければ、大砲を思ったように発砲するわけにもいかなくなります(軍資金が乏しくなった榎本政権は、箱館の町民から無理な徴税をせざるをえなくなった)。

また、ほとんどの銃砲が輸入品だったために、弾薬や弾丸の補給ルートが確保できていなければなりません。
大鳥圭介率いる脱走幕府伝習隊は、〈シャスポー〉という最新鋭のライフル銃を装備していましたが、ペーパー・カートリッジという特殊な薬莢を使っていたため、日光に達した時には、既に不足してしまっていました。
もし、入手しようとすれば、当時、奥羽越列藩同盟側が制圧していた新潟港で陸揚げしなければなりませんでした(これも、慶応4年7月には、新政府軍側の手に入ってしまった)。

したがって、幕府伝習隊は、以後、会津戦線では〈シャスポー〉を有効に使用することができませんでした(その後、榎本政権下の箱館で入手できたかどうかは不明)。

こう考えてみると、資金力と補給ルートという要素が、戦争に与えた影響は、かなり大きなものではないかと思われます。

榎本艦隊の「謎」 その2

2007-06-22 00:33:55 | History
「三十万両」の行方については、出典からの引用を挙げて、綱淵謙錠『航―榎本武揚と軍艦開陽丸の生涯』で詳細に述べられていますので、そちらに考証は譲りましょう。
いずれにしても、大坂城の「三十万両」は、〈富士山丸〉あるいは〈長鯨丸〉
で、江戸に運び込まれました。その内、三万両(一説には三千両)は、横浜のオランダ領事ボードウィンに預けられ、それがオランダ留学生たちの費用となった、ということです。
ですから、十八万両の大部分が、そっくりそのまま榎本たちの軍資金になったことはないのです(綱淵は、大坂城にあった金貨自体が偽物であると、大胆な推理をしているが、それでは、オランダ留学生のために使用された金銭の出所はどこということになるのだろうか?)。

この話はこれまでにして、次に、〈開陽丸〉の江刺座礁の際、榎本は艦上にあったかどうか、という問題。
吉村昭『幕府軍艦〈回天〉始末』では、
「風波はおさまらず、〈開陽〉に乗る榎本をはじめ乗組員は艦内にとどまっていたが、ようやく十九日になって、わずかの兵器をたずさえて岸にあがることができた。」
と述べられており、座礁(十一月十五日夜から翌早朝にかけて)時には、榎本は艦上にあったように書かれています。
これは、おそらくは『雨窓紀聞』(小杉雅之進著)に、
「之(これ)に加(くわう)るに連日の暴風激浪にて、榎本を始め船に在るもの上陸するを得ず、漸く第三日に至り聊(いささか)風の凪間を計(はかり)、僅(わずか)に兵器を携(たずさえ)、岸に達するを得(う)」(原文は、漢字カタカナ混じり文)
を根拠にしているのでしょう。
小杉は、〈開陽丸〉蒸気方ですから、その場にいての証言です。

しかし、一方、〈開陽丸〉水夫頭見習の渡辺清次郎も回想録を残している(『渡辺清次郎回想録』)。
これによると、
「渡辺はまず、開陽丸が江刺に入港すると、『榎本、沢の正副艦長も上陸したが、私は船に残った』」(綱淵、前掲書)
と証言しています。

さて、どちらの証言が正しいのか、小生には判断するだけの資料はありませんが、次のような言明があることをお伝えしておきましょう。
「誰が開陽丸に残り、誰が上陸したかは諸説がある。榎本は上陸しなかったという説もあるが、これはあとからの創作である。
艦長の沢も一緒に上陸した。」(星亮一『箱館戦争』)

「沢はこのとき、前述したように、榎本と一緒に陸上にいた。したがって、沢は座礁時における開陽艦上の実際の光景は目撃していないはずであり……」(綱淵、前掲書)



星亮一(ほし・りょういち)
『箱館戦争―北の大地に散ったサムライたち』
三修社
定価: 1,890 円 (税込)
ISBN978-4384041019

榎本艦隊の「謎」 その1

2007-06-21 01:14:56 | History
ちょっと大袈裟なタイトルにしてしまいましたが、きっかけは些細なことです。

箱館戦争について調べている時に、吉村昭『幕府軍艦〈回天〉始末』に目を通しました。すると、今まで史実に忠実に小説を書いていると思っていた吉村の記述に、「?」という部分がちらほらとあった。
そこで、手持の綱淵謙錠『航―榎本武揚と軍艦開陽丸の生涯』と星亮一『箱館戦争―北の大地に散ったサムライたち』も見てみました。

その過程で気づいた「こりゃあ定説がないんじゃないか」と思われる部分を挙げてみたという次第です。まあ、他に適当なタイトルも思いつかないので、こうしておきましょう(歴史観がらみの部分は、この際さておいて、事実に関してのみ)。

まずは「謎」に当たらない、吉村のチョンボについての指摘から。

本ブログで、「『燃えよ剣』の間違い探し」「〈ストーンウォール・ジャクソン〉のこと」と2回に渡って指摘したように、〈ストーンウォール〉と〈ストーンウォール・ジャクソン〉とは、まったく別の艦です。
そして、日本に売却されて、最終的に新政府軍の手に入ったのは、〈ストーンウォール〉の方(例の「宮古海戦」でアボルダージュされた艦ね)。
したがって、〈ストーンウォール〉=〈甲鉄〉=〈東(あずま)艦〉となるわけです。

それが、『幕府軍艦〈回天〉始末』では、
「アメリカ政府は、フランスのボルドーで建造された〈ストーンウォール・ジャクソン号〉を幕府に引き渡すこととし、同艦は四月二日に横浜に到着していた。」
となってしまっているんですね。これは完全な誤り。

次は、まだ議論の余地がありそうな「十八万両」問題。
これは、榎本が大坂城から幕府の軍用金18万両を江戸まで運び出し、それからどうなったか、ということです。『幕府軍艦〈回天〉始末』には、
「〈開陽〉には、十八万両という多額の軍資金が格納されていた。それは将軍慶喜が鳥羽、伏見の戦いにやぶれて江戸に向けて脱出した時、大坂城に所蔵されていた金貨約十八万両を榎本が運び出し、艦にのせて江戸に持ち帰ったものである。」
と江戸脱出後も、〈開陽丸〉には十八万両がそのまま積まれており、それが箱館戦争の軍資金になったように暗示されています。

けれども、〈開陽丸〉艦長の沢太郎左衛門の回想「戊辰之夢」には、「和泉守(榎本武揚)江戸に帰着の後、大坂城より持越せし古金」と記され、その内三万両を慶喜公から下しおかれ、それを「阿蘭陀国へ送りたり」ともあるのです。
つづく


吉村昭
『幕府軍艦〈回天〉始末』
文春文庫
定価:各 357 円 (税込)
ISBN9784167169275