一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

今日のことば(68) ― 稲垣足穂

2005-12-31 08:10:21 | Quotation
「やっぱり物理学とか、文学とか絵画ってものはパッと出て、ひっくりかえってしまわなだめですよ。まちがったら自分が死んでしまう、というところがなけりゃいけないね。『腹を切りゃあいいだろう』、それが欠けるとダメですね。(笑)」
(『地を匍う飛行機と飛行する蒸気機関車』)

稲垣足穂(いながき・たるほ、1900 - 77)
小説家。関西学院普通部在学当時に同人誌「飛行画報」を創刊、初め飛行家、次いで画家を志す。1921(大正10)年に『月の散文詩』を発表、それが佐藤春夫に注目され『チョコレット』『星を造る人』などの小説を書き始める。1931(昭和6)年頃、アルコール中毒により創作不能となる。戦後、創作活動を再開、1968(昭和43)年、『少年愛の美学』を発表、第1回日本文学大賞を受賞、タルホ・ブームを引き起こす。作品に『一千一秒物語』『天体嗜好症』などがある。

海野弘が指摘するように、1920~30年代のモダニズムは、世界同時代的なものであったようだ。
つまり、それまでヨーロッパから輸入される一方だった藝術や風俗のブームやトレンドといったものが、初めて日本でも同時期に独立して起こったのが、この時代。

ことに関西が、その中心であったようで(東京は関東大震災からの復興が、まだ完全には済んでいなかった)、近年では「阪神間モダニズム」*なる用語まで登場している。
阪神間モダニズム(はんしんかんもだにずむ):明治時代末期から太平洋戦争直前の1940年(昭和15年)頃までの期間、阪神間(神戸市東灘区・芦屋市・西宮市・宝塚市・池田市)を中心とした地区に育まれた近代的な芸術文化・生活様式とその時代を指す。 1997年(平成9年)、兵庫県立近代美術館ほかによって「阪神間モダニズム展」が開催されて以降、近年使われるようになった用語である。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

その「阪神間モダニズム」を体現する存在として登場したのが、若き日の稲垣足穂ではあるまいか(特に『一千一秒物語』)。
ちなみに、音楽では最近注目された大澤壽人が、その代表例。

しかし、稲垣のモダニズムには、上記引用にあるように、自らの生と切り結ぶ「藝術」という根源的な指向があるのは、面白い。
そういった点が、いわゆる「軽薄才子」的なモダニストと一線を画すところであろう。

参考資料 『稲垣足穂全集』(筑摩書房)
     田中聡『怪物科学者の時代』(晶文社)

今日のことば(67) ― 幸田露伴

2005-12-30 08:34:29 | Quotation
「人によると、隅田川も夜は淋しいだらうと云ふが決してさうでない。陸(をか)の八百八街は夜中過ぎればそれこそ大層淋しいが、大川は通船の道路にもなつて居る、漁士(れふし)も出て居る、また闇の夜でも水の上は明るくて陽気なものであるから川は思つたよりも賑やかなものだ。」
(『夜の隅田川』)

幸田露伴(こうだ・ろはん、1867 - 1947)
小説家、随筆家。江戸下谷に幕臣幸田成延(なりのぶ/しげのぶ)の三男として生まれる。本名は成行(しげゆき)。電信修技学校を卒業後、北海道余市の電信局に赴任。1887(明治20)年、文学を志し、職務を放棄して帰京(その時の苦労の旅は『突貫紀行』に描かれている)。この途中で詠んだ「里遠しいざ露と寝ん草まくら」の句が、号露伴の由来という。
1889(明治22)年『露団々』『風流仏』で作家としての地位を確立。以後、『五重塔』『いさなとり』などを発表。日露戦争後は、考証と史論を主な著述とし、『運命』『芭蕉七部集評釈』などを発表、1937(昭和12)年の第一回文化勲章を授章する。
兄には北方冒険家の郡司成忠(ぐんじ・なりただ)、弟には歴史学者の成友(しげとも)、妹には音楽家の延(のぶ)、安藤幸(あんどう・こう)がいる。
娘は随筆家、小説家の文(あや)。

さて、露伴の住い蝸牛庵は、移転にも関わらず、大多数が川の傍にあった。
典型的なものが、寺島の最初の蝸牛庵(現在、家屋は明治村に移転)、第二の蝸牛庵である(現在、敷地は露伴児童遊園となり、碑がたっている)。
また、趣味が釣りということもあり、東京湾や隅田川での釣行や、水のある風景を描いた随筆もさまざま残されている(『水の東京』という東京論まである)。

そのような露伴だからこそ描けたのが、上記引用のような、普通気がつかないような川の光景なのである。

参考資料 『露伴全集』(岩波書店)
     『露伴随筆集』( 〃 )

今日のことば(66) ― A. ルシエ

2005-12-29 07:36:56 | Quotation
「これは人々が小さな子供のときに、海辺で貝殻を拾い上げて耳にあて、海の音を聴いた、そんな体験の延長にほかならないのです。人々はそこでやめてしまいます。大きくなるとそんなことはしなくなってしまうのです。人々はほかのいろんなこと、どうやって生計を立てるか、とか、いかに人に話をし、言葉でコミュニケーションするか、というようなことを考えるようになり、耳はそんなことをやめてしまうのです。私がしようとしているのは、人々が再び貝殻を拾い上げて耳にあて、海の音を聴くのをお手伝いすることだと思うのです。」
("Chambers")

A. ルシエ(Alvin Lucier, 1931 - )
現代アメリカの作曲家。しかし、従来の作曲家とは異なり、この "Chambers" (1968) という作品は、
奏者たちがトンネルや地下鉄の駅などの環境や貝殻、壜などの道具を利用して、ありとあらゆる音の反響が得られる状況を作り出し、思い思いの音を出しながら、それらのさまざまな響き合いを鑑賞しようとする」(渡辺裕『聴衆の誕生―ポスト・モダン時代の音楽文化』
ものである。
つまりは、「音」という振動現象に焦点を当てたインスタレーション作品(サウンド・アート)といってもよい。
上記引用は、その作品に関連して A. ルシエが述べたもの。
現在,ウェズリアン(Wesleyan)大学教授。

このような作品が生まれた背景については、前記渡辺裕の著書が詳しい。
ここで一言だけ付け加えるならば、藝術を〈鑑賞〉するのではなく、あたかも自然の一部のように〈観照〉するという態度は、われわれ東北アジアの人間にとっては、さほど縁遠いことではないのだ。

音楽だけをとって見ても、その楽器には、すでに自然の音を思わせるような〈雑音成分〉が含まれているし(尺八における〈風韻〉)、〈水琴窟〉や〈鹿おどし(添水)〉のような音響インスタレーションがあったのである。

今日のことば(65) ― S. ライヒ

2005-12-28 11:22:27 | Quotation
「一つの『音楽としてのプロセス』を演奏すること、そしてそれを聴くことは、次のような体験に似ている。
 ブランコを引いて、手を放す。そしてそれが次第に静止していく様子を観察する。
 砂時計を逆さに置き直し、砂が緩やかに下へ流れていく様子を見守る。
 波打ち際の上に立ち、波が徐々に足を埋めてゆく様子を見、聴き、感じる。」

(「緩やかに移りゆくプロセスとしての音楽」)

S. ライヒ(Steve Reich, 1936 - )
現代アメリカの作曲家。T. ライリーや P. グラスと並んで〈ミニマル音楽〉のパイオニアとして知られる。『イッツ・ゴナ・レイン』『エレクトリック・カウンターポイント』『ディファレント・トレインズ』『ドラミング』『デザート・ミュージック(砂漠の音楽)』などの作品がある。

〈ミニマル音楽〉とは、1960年代半ばに登場した作曲手法で、ごく短いモティーフに微妙な変化を与えながら何度も反復し続ける音楽である。
ただ、ライヒの場合は、その反復の過程で、同じモティーフを繰り返しながらも、各パートの間にズレを生じさせる、という手法(「緩やかに移りゆくプロセスとしての音楽」"Music as a gradual process")を採った。

ここで面白いのが、グラデーション感覚。
音ではなく、絵画におけるグラデーション感覚を楽しむ、というのは、日本では既に浮世絵に先行例がある。例えば、北斎や広重の版画の背景に見られる、空のグラデーションなど。また、衣装でも「紗」や「絽」の作り出すモアレ模様が、一種のグラデーションではないだろうか(現代絵画における〈オプティカル・アート〉を想起)。

これは、おそらく自然観の問題にもなってくるだろう。
上記引用が、〈ミニマル音楽〉の背景にある自然観を暗示しているようである。

参考資料 スティーヴ・ライヒ、近藤譲訳「緩やかに移りゆくプロセスとしての音楽」(「エピステーメー」4巻10号、特集 音の生理)
     ウィム・メルテン、細川周平訳『アメリカン・ミニマル・ミュージック』(冬樹社)
     渡辺裕『聴衆の誕生―ポスト・モダン時代の音楽文化』(春秋社)

今日のことば(64) ― 伊藤左千夫

2005-12-27 17:22:17 | Quotation
「娯楽は人間の生命である。品格ある娯楽なき人間は人間としての生命がないと云ってもよい。」
(『夾竹桃書屋談』)

伊藤左千夫(いとう・さちお、1864 - 1913)
歌人、小説家。搾乳業のかたわら、和歌を学び、1900(明治33)年、正岡子規の弟子となり根岸短歌会に参加。子規の死後、短歌雑誌「馬酔木」を創刊、次いで「アララギ」でも活躍した。その門人には斎藤茂吉、島木赤彦らがいる。
小説に『野菊の墓』『隣の嫁』など、歌集に『左千夫歌集』がある。

左千夫自身の生活を考えると、「品格ある娯楽」とは、茶の湯や短歌がそれだ、ということになるだろうが、今日の目から見て、さすがに茶の湯や短歌を勧めることに価値はなかろう。
むしろここは誤読して、仕事以外にやりがいのあることはあるか、とした方がまだしも今日的であろう。

特に仕事一筋に生きてきた団塊の世代が、これから定年退職の年を迎えてくる。
やることがなくて、今から趣味を探そう、娯楽を見つけようといっても、それは無理というもの。
付け焼き刃の趣味や娯楽など、何が面白いものか。

江戸時代、「隠居」という私的な制度があった。
一定程度の年齢を迎えた当主は、第一線から退き、後任(家業の場合、多くは息子)に一切の権限を委ねる、というものである。
「隠居」は「捨て扶持」を貰い、勝手気ままに生活を送る(落語に出てくる「ご隠居」を連想されたし)。
現役時代から、やりたいことのあった人間は、「隠居」になってから花を咲かせる場合もある。
典型的な例が、伊能忠敬。
今日的な課題をクリアーした人物として、一部ではもてはやされているようだが、江戸時代の大多数の人間は、無為に老後を過ごしたのではないか(平均寿命から見て、短いから多少は救われるでしょうが)。

これから、一斉に定年を迎える人びとを、ビジネス・チャンスと見て、あの手この手で、趣味を「教える」塾なども出てきそうな気配。
さて、団塊の世代の人びとは、「品位ある娯楽」を手にすることができるのだろうか?

参考資料 『左千夫全集』(岩波書店)

今日のことば(63) ― 島崎藤村

2005-12-26 10:20:40 | Quotation
「深思するかの如く洋琴の前に腰掛け、特色のある広い額の横顔を見せた、北部の仏蘭西人の中によく見るやうな素朴な感じのする風采の音楽家がバルドオ婦人の伴奏として、丁度三味線で上方唄の合の手でも弾くやうに静かに、非常に渋いサッゼスチイヴな調子の音を出し始めました。この人がドビュッシイでした。」
(「音楽会の夜、其の他」)

島崎藤村(しまざき・とうそん、1872 - 1943)
詩人、小説家。藤村が姪との恋愛事件を起こし、逃避するかのようにフランスに渡ったのは、1913(大正2)年のこと。藤村、41歳であった。
ドビュッシー(1862 - 1918) は森鴎外 (1862 - 1922) と同年生れだから、藤村より10歳年上ということになる。

藤村は、1896(明治29)年頃からヴァイオリンの稽古を始め、1898(明治31)年には高等師範学校付属音楽学校(東京音楽学校の当時の名称)選科に入学、ピアノを習うほど、西欧音楽に興味関心を抱いていた。
この西欧音楽への愛好は、パリ滞在時代も変わりなく続き、ドビュッシー(『子供の領分』を殊に好んだ)のほか、フォレの作品、イザイのヴァイオリンなどを音楽会で聴いている。

「私の心は今、しきりに音楽を渇き求めて居る。生そのものゝ音楽を求めて居る――文学の中にも、絵画の中にも」
と「音楽を求むる心」という文章に記したのは、渡仏前の藤村であった。

参考資料 中村洪介『西洋の音、日本の耳――近代日本文学と西洋音楽』(春秋社)
     『島崎藤村全集』(筑摩書房)

『日本の文化ナショナリズム』を読む。

2005-12-25 10:57:08 | Book Review
この手の本の定石として、まずはことばの定義から。

「ナショナリズム」とは、
「ある民族や複数の民族が、その生活・生存の安全を守り、民族や民族間に共通する伝統・歴史・文化・言語・宗教などを保ち、発展させるために国民国家(nataion-state) を形成し、国内にはその統一性を、外国に対してはその独立性を維持・強化することを目指す思想原理や政策、あるいは運動の総称。」(本書「第1章」より)
ということになる。

そして本書のテーマである「文化ナショナリズム」とは、
「ナショナリズムの、政治や経済の側面ではなく、その文化面を作ことばだ。そして、その文化が、実はナショナリズムの本体だった。『民族文化』や『国民文化』という観念に代表されるものが、その正体なのだ。」(同)

したがって、問題の対象となるのは、「国民国家」成立前後から。
「国民国家」創造の核となるアイデンティティーが、その「文化」の独自性に置かれたからだ。

本書の主な時代対象は、明治時代以降、その時代から、どのような形で「文化ナショナリズム」が形成され、変化していったかを、文化史・思想史的に解くのが本書の主な内容。

大きく分けて、
 1.歴史観(本書「第2章」)
 2.言語と文学(本書「第3章」)
 3.大衆ナショナリズムと文化相対主義(本書「第4章」)
が、本書の流れを作っていると見ていいだろう。

基本的な流れに異論はないのだが、叙述のしかたには、やや問題がある。
書き方が充分には整理されていない、と言った方が正確かもしれない。

1つの原因は、対象それ自身にあり、「日本人が描いてきた、多彩かつ錯綜した文化的自画像」が「ジグザグの道行きをたど」ってきたからだ。
つまり、ある時は近代化=西欧化の方向へ振れ、またある時はアジア主義の方向へ振れてきたのが、日本の「近代」だったから。

もう1つの原因は、著者自身の文章構成にあろう。
基本的に〈「歴史的事実」→「思想史的展開」〉を時代を追って記述してあるのだが、その「歴史的事実」の部分が中途半端。日本近代史に知識のある人には不要であろうし、ない人には不十分なのだ。
したがって、それと「思想史的展開」との関連が、必要にして充分な記述と成っていない(より構造的な記述が必要なところ)。

以上のような、やや見通しが良くない、という問題はあるものの、読者個々の立場は別にして、近代思想史のレファレンス的な整理をするには(また、今まで何が思想史的なテーマとなってきたかを知るには)役立つであろう。

鈴木貞美
『日本の文化ナショナリズム』
平凡社新書
定価:本体860円(税別)
ISBN458285303X

今日のことば(62) ― 岡本太郎

2005-12-24 01:34:53 | Quotation
「『伝統』『伝統』と鬼の首でも取ったような気になっているこの言葉自体、トラディションの翻訳として明治後半に作られた新造語にすぎません。(中略)伝統という言葉が明治時代に作られたように、内容も明治官僚によって急ごしらえされた。圧倒的な西欧化に対抗するものとして、またその近代的体系に対応して。」
(『日本の伝統』)

岡本太郎(おかもと・たろう、1911 - 96)
洋画家、彫刻家。漫画家の岡本一平を父に、小説家の岡本かの子を母に生まれる。1927(昭和5)年パリに渡り、超現実主義に近づくとともに、パリ大学で哲学・心理学・民族学を学ぶ。1940(昭和15)年、パリ陥落にともない帰国。
戦後、国際的な芸術活動を行ない、1970(昭和45)年の大阪万国博に『太陽の塔』を制作した。
著書も多く、『今日の芸術』『日本再発見―芸術風土記』『沖縄文化論―忘れられた日本』などがある。

岡本の『伝統』に関する考え方には、「創られた伝統」の概念に近いものがある。
そして、実際の活動として、そのような「創られた伝統」ではなく、「縄文式文化のたくましい、魔術的、神秘的な力」を「伝統」として探り続けた。

そこには、岡本が、パリ大学で触れた構造主義文化人類学の影響もあるであろうし、
アヴァン・ギャルドやシュールレアリズムの芸術家として、「生命感」ある文化の独自性に共感したということもあるだろう。
それが縄文文化や沖縄文化の発見にもつながっている。

岡本と言うと「芸術は爆発だ!」が有名であるが、彼の原点になったのは、『今日の芸術』(1954)の次のことば。
「今日の芸術は、うまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」

参考資料 岡本太郎『今日の芸術―時代を創造するものは誰か』(光文社)
     岡本太郎『日本の伝統』(光文社)

今日のことば(61) ― 前田愛

2005-12-23 10:51:39 | Quotation
「文学テクストを構成している言語記号は、数学の記号のように、純粋な意味と読者とを媒介するものではない。それがあらわしているのは、読者と非現実の世界との界面である。界面としての言語記号が消失し、表象としての空間をつつみこむかたちで現出する非現実の世界のひろがりこそ、読書行為によって現働化されたテクスト空間のひろがりそのものなのである。」
(「空間のテクスト テクストの空間」)

前田愛(まえだ・あい、1932 - 87)
国文学者、評論家。本名は、愛(よしみ)。読者論・記号論などを通して、日本近代文学研究に新たな道を切り開いた。主著に『近代読者の成立』『成島柳北』『都市空間のなかの文学』などがある。

上記引用は、『都市空間のなかの文学』の一章から。
前田の問題意識は、同書「あとがき」にも表れている。
すなわち、
私の念頭から離れなかったのは、日本の近代文学を自我の発展史として鳥瞰するこれまでの文学史研究のパラダイムにたいする異議申し立てであった。それはテクストとしての都市をメタテクストないしはサブテクストとしての文学作品と対応させて行く操作によって、実態概念としての作者を関係概念の括弧に括ることを意味している。
ということである。

そのための方法論として、上記引用のような手続き(定義)が必要になってくる。
ただ、この文章は読者論的な側面からの言説であるため、より詳しく「実態概念としての作者を関係概念の括弧に括る」方法を知りたい方は、実際に同書に当られたい。

参考資料 前田愛『都市空間のなかの文学』(筑摩書房)

今日のことば(60) ― 吉田健一

2005-12-22 12:34:31 | Quotation
「文化は一片の標語ではない。それは多くの人間が生活して長い年月を重ねていくうちに、石に苔が生(む)すように何とはなしに作られる。」
(『乞食王子』)

吉田健一(よしだ・けんいち、1912 - 77)
評論家、英文学者、小説家。ご承知のとおり、政治家吉田茂の長男。文藝評論から英文学論、随筆から小説まで幅広い著作がある。入手し易いものとしては『吉田健一集成』(全8巻/別巻1。新潮社刊)がある。

上記の引用に表れた吉田の文化観は、精神文化をともにする共同体を "Nation" としたドイツ流のものとは対照的だ。
領邦国家の統一が悲願だったドイツは、その根拠に「ドイツ語」を基礎とした精神文化を置いた。制度としての「国語」「国文学」「国民文化」である。
近代日本における「文化」も、ドイツ型に近いものとして長らく考えられてきた(新カント派の「文化主義」の影響もある)。

これに対して、吉田の文化観は、英米のそれに近いもので、「それぞれの〈民族〉に固有の生活様式」というニュアンスがある。

それを別の面から照らし出すのが、篠田一志の回想で、
「あの人は、ゲルマン的なものを全く受け付けず興味を示さないんだよ。トーマス・マンのいい翻訳が出たので貸したのだけど、全く読めなかったのですぐに返して来たよ」
というもの。

そのような生活文化的な文化観が、食と酒を愛するという吉田の態度にもつながってくる(今日の「グルメ」とはいささか違う)。
たとえば、『私の食物誌』の次のような一節であろう。
これは実際に食べたことはないが京都の寺などで夏にやる米の食べ方に就て聞かされた話で、それは確か米を先ず炊いてから渓流の清水に浸して洗い落せるものは凡て洗い落し、その後に残った米粒の冷え切った核のようなものを椀に盛って勧めるというのだった。京都の酷暑を冒して食べに行ってもいいという気持にさせるもので、まだそれをやったことがなくても氷見の乾しうどんの味でその話が久し振りに頭に浮んだ。

参考資料 吉田健一『私の食物誌』(中央公論社)
     鈴木貞美『日本の文化ナショナリズム』(平凡社)