一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

今日のことば(102) ― ナポレオン三世

2006-02-28 10:07:21 | Quotation
「皇帝(ナポレオン一世)がかくも大きな規模で行わせた公共事業は、たんに国内の繁栄の主要な原因となったばかりか、大きな社会的進歩をもたらした。すなわち、こうした公共事業は、人と物とのコミュニケーションを促すという点で、三つの大きな利点を持つ。」
(『ナポレオン的観念』)

ナポレオン三世 (Napoleon Trois。本名:Charles Louis-Napoleon Bonaparte、1840 - 1914。在位:1852 - 70)
ナポレオン・ボナパルトの弟、ルイ・ボナパルトの第3子。
イギリスで亡命生活を送っていたが、二月革命に乗じて帰国、議員を経て第二共和国の大統領に就任、さらに人民投票で皇帝に就任、第二帝政を開始。産業振興やパリ近代化などに尽力。
クリミア戦争などの対外政策で人気獲得に務めたが、1864年~1867年のメキシコ干渉に失敗したことで威信を失墜させ、さらに1870年にビスマルクの罠にかかって普仏戦争を開始してしまい、自ら捕虜となる大敗を喫して帝政も崩壊した。(『はてなダイアリー』より)

従来のナポレオン三世の評価は、「バカで間抜け」とか「ゴロツキ」「軍事独裁のファシスト」といったもので、まことに芳しからざるものだった。
「すなわち、ナポレオンの輝かしい栄光をなぞろうとした凡庸な甥が陰謀とクー-デタで権力を握り、暴力と金で政治・経済を20年間にわたって支配したが、最後に体制の立て直しを図ろうとして失敗し、おまけに愚かにもビスマルクの策にはまって普仏戦争に突入して、セダン(スダン)でプロシャ軍の捕虜となって失脚した。
ようするに、ナポレオン三世は偉大なるナポレオンの出来の悪いファルスしか演じることはできなかったというものである。」(鹿島茂『怪帝ナポレオン三世』)

しかし、サン-シモン主義の社会改良家でもあった、というのが近年の再評価。
「この意味で、ナポレオン三世は、それまでのどの君主とも異なる、世界で最初のイデオロギー的な君主であった。すなわち、彼は、民衆生活を向上させるために社会全体の変革を目指すという一種の世界観、すなわちイデオロギーを持つ君主であり、かつ、そのために自ら率先して政治を行う政治家だったのである。」(鹿島、前掲書)

上記『ナポレオン的観念』は、公共事業の3つのメリットを、次のように列挙する。
「その第一は、職のない人々を雇い入れることにより、貧困階級の救いにつながる。」
「第二は、新しい道路や運河を開通させて土地の価値を増し、あらゆる物品の流通を促すことで、農業や鉱工業や商業を振興させる。」
「第三は、地方的な考え方を破壊し、地方相互あるいは国家相互を隔てている障壁を崩す。」

徳川慶喜の政権構想には、ナポレオン三世の〈第2帝政〉がモデルにあったようだが、このような社会改良的な視点はあったのだろうか?

参考資料 鹿島茂『怪帝ナポレオン三世』(講談社)

今日のことば(101) ― A. T. マハン

2006-02-27 07:28:41 | Quotation
「大海軍の建造がまずアメリカにとって重要だ、二番目には世界各地に植民地を獲得する必要がある。三番目には、そのために海軍が世界各地に軍事基地を設けなければならない。それを踏まえてアメリカは世界貿易に雄飛すべきであり、その対象はとりわけて中国市場に目を向けなければならない。」
(『海上権力史論』)

A. T. マハン (Alfred Thayer Mahan, 1840 - 1914)
父親の意思で、セント・ジェームズ神学校からコロンビア大学に学び、宗教者としての教育を受ける。しかし、1856年にアナポリス海軍兵学校へ入学、2番の成績で卒業する。その後、海軍兵学校の教官や艦長などを歴任、海軍大学校の校長もつとめる。

『海上権力史論』(原題 "The Influence of Sea Power upon History, 1660-1783" 『海の支配力(シー・パワー)の歴史に及ぼす影響』) は、海軍大学校での講義をまとめたもので、1890年の刊行。

マハンからは、秋山真之(あきやま・さねゆき、1868 - 1918)がアメリカ留学当時に影響を受けたと言われるが、現在、本書は「主力艦(戦艦)の過大評価、固定観念化」として、ほとんど、その有効性を失っている。
けれども、19世紀後半のアメリカの戦略を考える場合には、史料としての価値がある。
特に、日本の開国に当り、ペリー艦隊にどのような意図があったのかを知る上では、避けて通れないであろう。

まず、考えねばならないのは、当時のアメリカの最大の関心は、中国市場の開拓であり、日本は、石炭・水・食糧などの供給地として必要と見られていたということである(ペリー艦隊が、最短の太平洋横断ルートではなく、大西洋―インド洋経由で日本へやって来たことを想起せよ。当時、太平洋には燃料・物資の補給基地がなかったのである)。

その上で、幕末当時、日本が欧米列強によって植民地化される可能性を考えるべきであろう。
当時の人びとの主観を、今日のわれわれが踏襲する必要はないのである(アヘン戦争のショックによる危機感が、過剰な被害者意識を生み、それが東アジア諸国への侵略につながったのではないのか)。

参考資料  アルフレッド・T.マハン著、 井伊順彦訳、戸高一成監訳 『マハン海軍戦略』(中央公論新社)

『「攘夷」と「護憲」』を批判する。

2006-02-26 02:50:10 | Book Review
「私たちは幕末の歴史を振り返ったとき、一つの疑問を感じます。
 それは誰が見ても正しい選択であるはずの「開国」「文明開化」という方向に進までに、なぜあれほど長い時間がかかったのかという疑問です。」
という表現が冒頭(「はじめに」)から出てきます。

しかし、「開国」にしても「文明開化」にしても、その方法にはいくとおりもあることは、完全に捨象しているんですね(本文を読めば、それは明らか)。

どこかで聞いたような論法だな、と記憶を探ると、わかりました。
わが国の宰相と同じなんです。

問題をごく単純にしてしまって、それへの賛成か反対かを問う、しかも反対者には「守旧派」という烙印が押されるという前提付きで。
例の「郵政民営化に反対ですか」「それなら、あなたは守旧派なのね」「あなたは私の敵だから、選挙では公認しません」という論法です。
ここでは、郵政民営化の方法手順については、何も議論がなされない。
まず「郵政民営化」というスローガンあり、というわけです。

井沢氏の論法は、完全にそれと同じ。
まず「開国」「文明開化」は「善」とする。その方法が複数あることは、問題にすらしない。
 {「開国(1)」「開国(2)」……「開国(n)」}
          対
 {「攘夷(1)」「攘夷(2)」……「攘夷(n)」}

ではなく、もう簡単に「開国」(=「善」)ですから、「攘夷」(=「悪」)という図式が見えてくる。

たしか、井沢氏は推理作家でした。
推理小説の関連分野であるSFにおける、外挿法 (エクストラポレーション: extrapolation) という方法論をご存じないのでしょうか(もっとも、推理小説とSFとは相性が悪いという説もありますが)。

井沢元彦
『「攘夷」と「護憲」―幕末が教えてくれた日本人の大欠陥』
徳間文庫
定価:本体571円(税別)
ISBN4198923442

今日のことば(100) ― 玉虫左太夫

2006-02-25 09:32:37 | Quotation
「貌列志天徳(プレジデント)ノ居宅ナレドモ、城郭ヲ経営セズ、他ノ家ニ異ナラズ(中略)花旗(アメリカ)国ハ共和政事ニシテ一私ヲ行フヲ得ズ、善悪吉凶皆衆ト之ヲ同(おなじく)シ、内乱ハ決シテ、ナキコトトスルナリ」
(『航米日録』)

玉虫左太夫 (たまむし・さだゆう、1823 - 69) 
仙台藩士玉虫平蔵の七男として生まれる。幼名は勇八。藩校養賢堂に入学すると、頭角を現し、藩士荒井東吾の娘を娶り養子となる。1846(弘化3)年、脱藩して江戸に走る。江戸では大槻磐渓(おおつき・ばんけい、1801 - 78)に認められ、大学頭林復斎の元で修業、やがて昌平黌の塾長となり、江戸仙台藩校順造館に復職。
1857(安政4)年、幕府箱館奉行堀利煕(ほり・としひろ)にしたがい蝦夷地に入り、「入北記」という記録を残す。1860(万延1)年、日米修好通商条約の批准書交換のための幕府使節一行にしたがい、アメリカ合衆国に渡る。この時残した記録が『航米日録(こうべいにちろく)』である。

左太夫は、アメリカでその共和政事(政治)に驚く。一つは、当時の日本の「門閥制度」がないこと(幕府高官は、かえってそれに反撥を感じ、国務長官を訪ねても茶の一杯もださない、などと批判している)。
このことが、左太夫に民主的な政治体制がどのようなものかに、目を開かせる元となった(ちなみに、"republic" に「共和」の語を当てたのは、左太夫の師磐渓である)。

戊辰戦争が始まり、軍務局頭取に任じられた左太夫は、「東日本政権」にも民主的な政治体制を取り入れようとしたが、仙台藩は新政府軍に降伏、その責任を取らされて切腹することになる。
「人心ヲ和シ上下一致ニセン事ヲ論ズ」
「和ハ天下ヲ治メルノ要法ナリ、此要法ヲ失ヒ、何ヲ以テ人心帰属セン」
とのことばを記したメモが、仙台の玉虫家に残されているとのこと。
そのメモでは、言論の自由、賄賂の禁止、賞罰の明確化を挙げ、
「その上に立って軍艦を建造し軍備を整え、他国の侵略を防ぐ。蒸気機関によって産業を興し、外国人を雇い技術の導入をはかる。万国と交易し、国を富ませる」(星亮一『奥羽越列藩同盟―東日本政府樹立の夢』)
という方策が述べられているそうである。

従来「奥羽越列藩同盟」ひいては「東日本政権」は、改革派(明治新政府)に対抗するだけの守旧的な体制である、と断じられてきたが、はたしてそうだったのか。
玉虫左太夫のような人物を見ることによって、もう1つの「明治」を考えることができるような気がする。

参考資料 星亮一『奥羽越列藩同盟―東日本政府樹立の夢』(中央公論社)
     佐々木克『戊辰戦争―敗者の明治維新』( 同 )
     小島慶三『戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える』( 同 )

ナショナリズムの応用問題 その14

2006-02-24 09:53:30 | Opinion
一方、蘭学寮の開設以前、1844(弘化1)年、藩には「火術方」が設けられ、西洋砲術の研究に公式に着手し始めている。
ついで、1850(嘉永3)年1月には、本島藤太夫という藩士が、江川太郎左衛門のもとに派遣され、同年6月には、早くも大砲鋳造のための反射炉が設置されることが決定されている(翌年12月には反射炉が完成、青銅製の大砲を鋳造し始めた。これが、日本最初の築地の反射炉である)。

驚くことに、これらの軍事科学技術を実施するにおいて、外国人の直接の力を借りてはいない。彼ら技術者は、すべて西欧の書物から、その知識を学びとり、実行にあたったのである。

集められたメンバーは、本島以下7人で「御鋳立方七賢人」と呼ばれた。
彼らは、西洋砲術家の本島以外に、蘭学者・洋学者はもちろんのこと、和算家・鋳物師・刀匠も含まれ、江戸時代末期における日本の在来科学技術のレベルの高さを思わせるものがある。

1854(嘉永7)年からは、青銅鋳造砲に代わり、鉄製の大砲が次々と生産され出す(1861(文久1)から、ここはライフル銃製造工場となり、維新戦争における佐賀藩の主要小銃の生産を支えることになる)。
またこのほか、67(慶応3)年には、当時最新式の大砲、アームストロング砲も試作されるにいたる。

これらの広い意味での軍事費は、膨大な金額に及んだ。一説によれば、築地の反射炉建設の当初予算は18万3千両余、実際には、この予算の他に約5万8千両が費やされたという。それをまかなえたのも、直正たちが藩政改革で産業奨励を行ったからであった。
その意味で、佐賀藩は明治政府の「富国強兵」政策を先取りしていた。

特にヨーロッパで珍重される陶磁器は、国内の内戦状態で混乱した中国に、有田・伊万里がとって代わり、藩の専売制の下での輸出が急速に延びていった。また、植樹に努めたハゼの木からとれる白蝋の生産も順調に伸びていき、軍事費をまかなう生産量に達した。
たとえば、1857~58(安政4~5)年に輸入したオランダ軍艦2隻の購入には、白蝋の代金が当てられている。

「薩長土肥」(薩摩・長州・土佐・肥前)と、佐賀藩が、戊辰戦争で活躍した4藩の1つに数えられたのも、以上のべたような、藩政改革とそれに続く幕末の近代化があったからなのである。

ナショナリズムの応用問題 その13

2006-02-23 00:25:29 | Opinion
「長崎海軍伝習所之図」

佐賀藩には、1781(天明1)年に開設された弘道館という藩校があった。
教員は、すべて儒者であったが、他の藩校とは異なり、儒学一辺倒の偏狭な方針はとらず、藩のために役立つものであれば蘭学も積極的に学ぶべきものとされていた。
これも、フェートン号事件が佐賀藩に与えた影響の一つであろう。

また、蘭学専攻の学校「蘭学寮」も1851(嘉永4)年に開設される。中心となったのは、長崎の鳴滝塾、ついで大坂の適塾での同門の蘭学者、大石良英、大場雪斉の二人であった。ここでは、蘭学のみならず、英語圏の文化にもいち早く目を向け、長崎には「到遠館」という英学塾も設けることになる。

このような動きの中から、1855(安政2)年、長崎に海軍伝習所が開設されると、いち早く48名もの藩士を派遣させることになるのである(幕臣は40名)。

したがって、戊辰戦争でも佐賀藩の海軍技術力は高く、函館戦争での海軍の総指揮官(参謀)の一人は、佐賀藩士・増田虎之助であり、副参謀や各軍艦の艦長にも、佐賀藩士の名が目立つ。
また、彼らの中からは、後に明治海軍の将官となる人びとや、明治の近代科学技術分野での高級官僚が出てくる。

『統帥権と帝国陸海軍の時代』を読む。

2006-02-22 11:31:11 | Book Review
「統帥権」とは「軍隊の最高指揮権」のこと(現行の自衛隊法では「最高の指揮監督権」と表現され、内閣総理大臣が持つ)。
帝国憲法では、第11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統率ス」とあり、天皇大権の一つである(「統率」=「統帥」)。

帝国憲法上では、他の天皇大権(立法権、官制および任命大権、編制権、外交権など)と同様に、国務大臣の輔弼責任事項であると解釈できるのだが、憲法発布(明治22年)以前、明治15年に出された「軍人勅諭」を「明文上の根拠」として、参謀本部の設立=「統帥権の独立」以後、内閣も議会も関与できない「聖域」となってしまっていた(大江志乃夫『靖国神社』)。

この点、司馬遼太郎の
「明治憲法はいまの憲法と同様、明快に三権(立法・行政・司法)分立の憲法だったのに、昭和に入ってから変質した。統帥権がしだいに独立しはじめ、ついには三権の上に立ち、一種の万能性を帯び始めた。」
という認識は、誤りである。

統帥権の独立は、1878(明治11)年12月5日、陸軍省の一局であった参謀局が、参謀本部として独立し、天皇に直属した時点から。
「天皇は参謀本部の補佐により、太政大臣、陸海軍卿に諮ることなく統帥権を親裁できることになった。/こうして、統帥権は政府の手から離れた。」(黒野耐『参謀本部と陸軍大学校』)
からである。

本書は、その統帥権独立の経緯を明らかにするのと同時に、参謀本部と「『帝国陸海軍』の80年の通史」を描くことを目的としている。

しかし、本書では「『帝国陸海軍』の80年の通史」の部分があまりにも大きな比重を占めてしまっているため(しかも、「通史」としては不充分な分量であり、参謀本部との関係が明瞭に描かれていない)、バランスを失している(参謀本部の歴史に関し、入手し易いものとしては、黒野前掲書や大江志乃夫『日本の参謀本部』などがある)。

それでは、参謀本部の設立と「統帥権の独立」についてはどうであろうか。
著者のまとめによれば(1、2省略)、
「3 明治憲法には国務ないし議会からの『統帥権の独立』に関する明文の規定はない。また国務大臣の輔弼権に相当する統帥部長(参謀総長、のちには海軍軍令部長も)の輔弼(輔翼)権は実存したが、やはり明文の規定はない。
 4 『統帥権の独立』は明治憲法制定以前に確立した『既定事実』として、黙示的に扱われてきた。」
となる。

したがって、問題は、実際に参謀本部の権限はどう移り変わってきたか、に移る。

結論的に言えば、著者は、参謀本部の設立自体に、山県有朋の意思が強く働いたとしている。
論旨的には、黒野の前掲書と同じなので、ここでは分り易い黒野の文を引く。
「陸軍を自己の権力掌握の基盤とするため、参謀本部の独立を推進したのが山県有朋であった。政敵となりうる政治指導者が陸軍に影響力を行使することを阻止するうえで、軍に対する政治の関与を排除する統帥権の独立は彼にとってきわめて好都合だったのだ。」

その後、
「新参の組織体が健全な活力を発揮できるのは、誕生から三十年と言われている。人間の一世代に相当する。参謀本部にあてはめると、誕生から三十年後といえば、日露戦争直後の明治四十年頃となる。」

「一方では巨大化した軍の組織は内部矛盾を生み出すようになる。陸海軍の分立、軍政部門と統帥部との対立、派閥抗争の発生などである。山県の死によって、彼に変わり人的統一を確保する大物がいなくなったせいでもある。(中略)日露戦争では参謀総長と海軍軍令部長は同位並列となり、天皇が親裁する以外に対立を解消するすべが失われたまま一九四五年に至る」
のである。

秦郁彦
『統帥権と帝国陸海軍の時代』
平凡社新書
定価:本体780円(税別)
ISBN4582853080

ナショナリズムの応用問題 その12

2006-02-22 09:40:20 | Opinion
佐賀藩の築地反射炉跡。「大砲鋳造所」と呼ばれた。

ここでは水戸藩の動向を見る前に、比較の意味で、佐賀藩の動きをのぞいておこう。
というのは、佐賀藩の場合は、水戸藩とは異なり、〈フェートン号ショック〉によって、藩を挙げての「富国強兵」政策を採ったからだ(「攘夷→尊王」とは違った路線)。

フェートン号の来航当時、長崎警備は佐賀藩の担当であったが、このイギリス軍艦には手も足も出すことができなかった。
事件後、佐賀藩は幕府から長崎警備の失態を責められ、藩主は逼塞、7名の家臣が切腹するという結果に終わった。このため、佐賀の町は物音一つしない、火の消えたような日々が続く。また、江戸藩邸では、正月を迎えるのに、門松やしめ縄もせず、藩士たちは髭を剃ることもできず髭ぼうぼうのまま。全藩士が、屈辱的な思いをしたという。

けれども、フェートン号事件は佐賀藩士に恥辱を与えただけではなく、西洋に対する強烈な関心を芽生えさせることにもなった。つまり、アヘン戦争やペリーの黒船来航以前に、佐賀藩はヨーロッパの進んだ軍事力による、東洋侵出への危機感をすでにもつようになっていたのである。

藩を富裕にすることによって、軍事力を強化しよう、という方向(「富国強兵」政策!)を明確にもった佐賀藩の藩政改革は、この時に始まったともいえる。

今日のことば(99) ― A. ブロサ

2006-02-21 10:59:04 | Quotation
自分がしたことを条件反射的に相対化する論理を、ブロサ氏はミメティスムと指摘する。「わが国だけが悪いのではない。他国もやっている」といった論理だ。「仕返し主義」「模倣の論理」などの訳語が研究者の間で候補にあがっている。フランス語の「mimer(模倣する)」から派生、元来は生物学の「擬態」という意味だ。学校を例にブロサ氏は説明する。校庭で子どもがけんかをしていた。「どっちが先にやったんだ」と先生が2人に尋ねる。「あっちです、先生」――双方から同じ答えが。植民地支配、アジアや太平洋での戦争などをめぐり公然と繰り返される日本の政治家の問題発言などは、そうした「校庭シンドローム」ともいうべきレベルの議論だとブロサ氏は指摘する。「アジアの植民地支配を先に始めたのは、ぼくたち日本人ではないのに、何でいつもぼくらだけが悪者にされるんだ」とか「確かに殴ったかもしれないが、ぼくらがやった以上に、ぼくらだって殴り返されたじゃないか」とか。
(「仕返し主義」今も死なず」'06年2月20日「朝日新聞」夕刊)

A. ブロサ (Alain Brossat, 1946 - ) 
パリ第8大学教授。専門は政治哲学。スターリン主義やジェノサイド、監獄制度などについて領域を横断する研究を展開。
フランス語の著作に『災厄の試練』('96)、『刑務所と訣別するために』('01) など。

名前がつけられたことで、実態がはっきりすることがある(言語による「分節化」)。
この「ミメティスム」などは、その1例。

小生は、「ミメティスム」ということばを知る前は、「先生言いつけ主義」とでもいうようなイメージを持っていた(上記引用の「校庭シンドローム」に近いもの)。

いずれにしても、「ミメティスム」の何と無責任なこと!
また、「校庭シンドローム」ということばに見られるように、子どもじみたこと!
まともな大人のする「言い訳」じゃあないね。

ナショナリズムの応用問題 その11

2006-02-20 09:12:00 | Opinion
佐賀藩に大きなショックを与えた英国軍艦〈フェートン号〉

ペリーの来航以前に、異文化と接触し大きな衝撃を受けた藩がある。
1つは、佐賀藩であり、もう1つは、水戸藩。

佐賀藩の場合は、〈フェートン号事件〉*で英国軍艦の圧倒的武力格差に衝撃を受けている。
*1808(文化5)年8月イギリス軍艦フェートン号が、フランス軍艦を求めて長崎港に侵入、オランダ商館員を捕らえ、食糧や薪水などを得て退去した事件。佐賀藩を初めとした日本の警備陣は、武力のあまりの格差に抵抗を諦め要求に応じた。その責任を取らされ、佐賀藩主鍋島斉直は逼塞処分を受けた。
その結果として、佐賀藩は反射炉を建造し、洋式武器の自藩製造への道を歩むことになる。

一方、水戸藩の場合は、大津浜(現北茨城市)にイギリス捕鯨船員が上陸した事件である。
1824(文政7)年、イギリス船2隻が出現、乗組員12名が上陸し薪水を求めた、というもの。
「このときは、水戸藩に十分の武備があり治安がたもたれていたから、漁民たちが禁令をやぶって密かにイギリス人に薪水・食料を売っても、それが争乱や混乱にむすびつくことはなかった」(松本健一『日本の近代1 開国・維新』)
が、その際に筆談役となった会沢正志斎は、海防の必要性に目覚めて一書を記すことになる。
これが、幕末攘夷運動のバイブルと言われた『新論』である。