『荘子(そうじ)』には、荘子(そうし)本来の言いたいことからかけ離れた部分がないわけではない。
前回述べた「無用の用」などは、その代表例。
結局、テクストから読めるのは、
「見る/考えるレヴェルを上げると、今までのレヴェルでは〈無用〉と思われたものも〈有用〉に変りますよ」
ということで、経営評論家と称する人々が、しばしば述べることと何ら違いがない。
小生が「荘子本来の~」と述べたのは、次のような1節があるからだ。
小生は、このように思う。
絵画でも彫刻でも音楽でも文学でも、その他何でもいい。
藝術にのめり込むと、われわれはこのような心理状態に近づく時が、たとえ一瞬であっても、あるのではないか。その一瞬を求めて、藝術に触れるのではないのか。
そこに「効用」などはあるのか。
「有用/無用」などという区別があるのか。
百年(ももとせ)は花に宿りて過ぐしてき
この世は蝶の夢にざりける 大江匡房
前回述べた「無用の用」などは、その代表例。
結局、テクストから読めるのは、
「見る/考えるレヴェルを上げると、今までのレヴェルでは〈無用〉と思われたものも〈有用〉に変りますよ」
ということで、経営評論家と称する人々が、しばしば述べることと何ら違いがない。
小生が「荘子本来の~」と述べたのは、次のような1節があるからだ。
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志與、不知周也。俄然覺、則遽遽然周也。不知周之夢為胡蝶與、胡蝶之夢為周與。(『荘子 斉物論篇)有名な「胡蝶の夢」である。
(むかし荘周は夢に胡蝶となった。楽しく飛び回る胡蝶であった。心が楽しくて思い通りだったせいか、自分が荘周であることを自覚しなかった。ふと覚醒すると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が夢で胡蝶となっていたのか、胡蝶が夢で荘周となっているのか)
小生は、このように思う。
絵画でも彫刻でも音楽でも文学でも、その他何でもいい。
藝術にのめり込むと、われわれはこのような心理状態に近づく時が、たとえ一瞬であっても、あるのではないか。その一瞬を求めて、藝術に触れるのではないのか。
そこに「効用」などはあるのか。
「有用/無用」などという区別があるのか。
百年(ももとせ)は花に宿りて過ぐしてき
この世は蝶の夢にざりける 大江匡房
以下、続く。