一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

最近の拾い読みから(91) ― 『黒船以降―政治家と官僚の条件』

2006-10-31 07:46:32 | Book Review
イスラム史の研究者(山内昌之)と歴史小説家(中村彰彦)とが、幕末の歴史をめぐり論じた対談集。

この手の本の場合、「異色の組合わせ」ということで、従来の定説や常識とはされていることが、思わざる観点から覆される面白さがセールス・ポイントとなることが多い。
けれども、本書の場合、意外にそのような面白さが少ないのが難。

例えば「第一章 徳川官僚の遺産」などは、
「江戸幕府が開国に踏みきった当時の政権の光と影を分析するとともに、当時ようやく育ってきたキャリア官僚たちについて話し合ってみた」
とのことであり、
「初めて外交とは何かという困難なテーマを突きつけられた徳川官僚のなかには、忘れがたい人材も少なからずいたのである」
と、「忘れがたい人材」を紹介しているのだが……。

実際に対談に登場するのは、川路聖謨、小栗忠順を中心として、杉浦譲、尺振八、福地桜痴、成島柳北など。

川路聖謨は吉村昭の『落日の宴』、小栗忠順は星亮一の『最後の幕臣 小栗上野介』などの小説にも取り上げられ、また、司馬遼太郎の『明治という国家』では小栗を「明治の父」とまで言って、その功績を讃えている。

ということで、この対談で目新しい見解は、ちょっと見受けられない。
徳川官僚の再評価は、この対談を待つまでもなく、近年の大きな傾向なのであるから。
また、旧幕臣の文化面での一つの有り様は、山口昌男『敗者の精神史』に詳述されている。技術系官僚の明治新政府への横滑りではない、屈折した「敗者」としての生き方が興味深い。

このような比較的常識的な「第一章」に比べると、「第二章 徳川斉昭と水戸学」の方が面白いか。

対談者二人ともに、徳川斉昭嫌い、水戸藩嫌いであるためか、歯に絹を着せずに思い切り語っている点が、その面白さの大きな原因。
山内の斉昭評に曰く、
(阿部正弘に比較して)「斉昭のほうはまず女性にはダメでしょう。男の私から見ても閉口するほど脂ぎっている。しかも獰猛な顔つきだから」
政治的にも、
「本当にやることがくさいのですよ」
「斉昭は、機密情報を朝廷に漏らしていく。(中略)不謹慎のきわみですよ。それだけで、政治家としては失格だと思います」
と、さんざんな言われようである。

ただ、この章の話題を真面目に言えば、光圀に始まる前期水戸学と、斉昭を中心に形成された後期水戸学とを、きっちり仕分けしていないのが、やや物足りない。

以下、「第三章 薩摩と長州」「第四章 一会桑」「第五章 ふたたび徳川官僚の遺産」と続くが、一、ニ章とほぼ同様。

全体に、もう一つの「明治維新」=「近代化」の可能性を軽視しているのは、小生としては物足りないところ――かろうじて、最終章で
「中規模であっても経済力と国防力をもち、東アジアにおいて独立自尊の国家として文化的にも自立した国に向かう可能性」
が述べられているが。

また、そのこととも関連するが、技術系の官僚(=テクノクラート)にとって、その能力はどのような政権であっても活用するのがア・プリオリに「善」とするのは、如何なものであろうか。

山内昌之、中村彰彦
『黒船以降―政治家と官僚の条件』
中央公論新社
定価:1,800 円 (税抜)
ISBN4120036960

最近の拾い読みから(90) ― 『芳年冥府彷徨』

2006-10-30 07:28:21 | Book Review
タイトルにある「芳年」とは、幕末から明治にかけて無惨絵で名を馳せた絵師・月岡芳年(つきおか・よしとし、1839 - 92) のこと(杉本章子『東京新大橋雨中図』にも、ちょっと登場する)。

本書は、その血みどろの残酷な浮世絵が、どのような心根から生まれてきたものなのかをストーリーの中で描く小説。
もっとも、ストーリーの枠としては、彰義隊と官軍との情報戦の謎解き、という推理小説的なものがあるのだが(その面から見れば、芳年は探偵役となる)。

肝心なテーマは、「人が人を殺すのは、どのような心理によるものなのか」といった問題にある。
「殺すときの心持ちを聞いてみたかった。人を殺すとき、いったいどんな思いが心をめぐるのか。それが殺気というものを説明してくれそうに感じられたのである。」

けれども、この小説の場合、芳年の作品とは違って、かなりあっさりとした文体/筆致なので、そのテーマが切実なものとして読者の胸に収まってくれない。
もちろん、テーマがテーマだけに、殺人(および擬似殺人)シーンは、かなりあり、最後には上野戦争での殺し合いといったものもある(それらの「殺し」のつながりが、一つの筋を作っているといってもよい)。
「芳年はひとつひとつの死体を子細に見て回った。
 腕や足を切り離された者、躯じゅうに鉄砲の弾を喰らっている者、切腹している者、首がない者、頭を真っ二つに割られている者……。
 官軍もあり、彰義隊もあった。そして、そのどちらの死体も血と泥にまみれていた。」
というのが、本作での死体の描写。
即物的な描写はいいのだが、具体性に欠けているため、類型的にしか感じられない。
このような筆致が、本作全体を覆っているので、すらすらは読めても、肝心なところで立ち止まらせる力を持っていない。

主人公とその絵画作品の傾向とは、かなり乖離した文章ではないか、という思いが抜けない。むしろ、穏健な作風の安藤広重についての小説などが向いているような文章である(北斎の異常さ、天才性ともまた違う)。

やはり、小説での文体と内容とは、切っても切り離せないものなのですね。

島村 匠(しまむら・しょう)
『芳年冥府彷徨(よしとしめいふほうこう)』
文藝春秋
定価:1,333 円 (税抜)
ISBN416317690X

時代小説と小説の reality 【その8】

2006-10-29 02:40:41 | Criticism
戦前期、同世代の2~3%が知識人で、残りが「大衆」だった時代に、「大衆文学」はエンターテインメントという意味だけではなく、「鍛錬」や「修養」といった教養主義的な色彩が含まれていました。
その典型が、吉川英治の『宮本武蔵』でしょう。
つまり、「大衆」の中の「向上心」のある層が、自らを高めるための一助として文学を読む、といった構造です。

戦後、都市中間層が成立することによって、その構造に変化が生まれます。
いみじくも「中間小説」というネーミングが、その構造をよく表していると思います。
もともとは大正時代の総合雑誌で、「中間読物」(巻頭論文と巻末小説との中間に読物が置かれたことから)と誌面構成の上で呼ばれた小説が、エリートと大衆の中間にある「都市中間層」のための小説を指すことばとして復活したわけです。

そこには、高等教育の普及が大きく関わっています。
専門学校と大学への進学率が、1940(昭和15)年頃には戦前期のピークを迎えます(10%)。それが、戦後、1948(昭和23)頃に再び同水準となり、その後は、急激に増加していきます。
そのような高等教育を受けた人々が、
「大企業で働いて、ゴルフをやったり、野球を見たり、旅行もすれば、活字も読む」(『座談会 昭和文学史 三』)
といった「都市中間層」を形成した。

それを受けて、メディアの側でも、1956(昭和31)年から出版社系週刊誌の創刊ラッシュが起こります(この年「週刊新潮」、翌57年「週刊大衆」、59年「週刊文春」「週刊現代」「週刊コウロン」創刊)。

このような週刊誌に連載されたのが、五味康祐(ごみ・こうすけ、1921 - 80)の『柳生武芸帳』と柴田錬三郎(しばた・れんざぶろう、1917 - 78) の『眠狂四郎無頼控』といった「剣豪小説」でした。
「二つとも破天荒でとんでもない小説だったが、当時のサラリーマン(ビジネスマンとは言わなかった)のほとんどが目を通した。両者とも独自の文体と奇妙なエロティシズムで鳴らしていて、五味はそこに加えて漢文趣味と集団的孤独感と忍者性というものを、柴田はそこに机竜之介につらなるモダンなニヒリズムとダンディズムを調味していた。」(松岡正剛『千夜千冊』)
とくに前者には、隆慶一郎にもつながる、「柳生一族の謎」や「後水尾天皇の皇子の死亡」といった題材が含まれていることを指摘しておきましょう。

五味康祐
『柳生武芸帳(上)』
新潮文庫
定価:900 円 (税込)
ISBN4-10-115108-3

幸徳秋水とサンフランシスコ大地震

2006-10-28 06:57:42 | Essay
1906(明治39)年4月18日午前5時12分、サンフランシスコに大地震が起こった。
このマグニチュード7.8 直下型の地震で、約3,000人が死亡、225,000人が家を失った。地震によって引き起こされた火災は3日間燃え続け、市の中心街約15平方キロメートルが焼失した。

ちょうどこの時、サンフランシスコに滞在していたのが、「亡命中」の幸徳秋水(1871 - 1911) である。
「『我の去らんと欲するが故にあらず、止まらんとして、止まる能わざれば也』
と書いている通り、
「非戦論以来の弾圧、検挙、投獄の連続に、悪戦苦闘、ほとんど刀折れ矢尽きて、しばらく難を国外に避ける亡命の旅であった。」(村雨退二郎「明治天皇への脅迫状」。『史談蚤の市』所収)

その「亡命中」の彼が、サンフランシスコの惨状の中で見たのは、アナーキズム状態がどのようなものであるか、であった。
「予は桑港(サンフランシスコ)今回の大震災に就いて有益なる実験を得た。夫(そ)れは外でもない、去る18日以来桑港全市は全く無政府共産制の状態に在る。商業は総て閉止。郵便、鉄道、汽船(附近への)総て無賃。食料は毎日救助委員より頒与(はんよ)する。食料の運搬や病人負傷者の収容、介抱や、焼跡の片付や、避難所の造営や、総て壮丁(そうてい。成年に達した一人前の男)が義務的に働く。買うとは云っても商品が無いので金銭は全く無用の物となった。財産私有は全く消滅した。面白いではないか。併し此の思想の天地も向う数週間しか続かないで、また元の資本私有制度に返るのだ。惜しいものだ」(4月24日付、雑誌「光」へ寄せた一文)
無政府状態とは、混沌の別名ではなく、市民による秩序回復の自助努力であったのである。

しかし、それも当時のアメリカ、しかも西海岸の一都市であったからありえたことであって、それから17年後、1923(大正12)年に極東アジアの大都市東京で起きたのは、「戒厳令の施行」であり、「甘粕事件(大杉事件)」であり、「亀戸事件」であり、「朝鮮人・中国人への襲撃・殺害事件」だったのである。

秋水は「非常に情誼に篤く、そして涙脆い人情家」であったという(村雨、前掲書)。
そのような人間の通例として、性善説を採っていたことは容易に想像がつく。
サンフランシスコにおけるアナーキズム状態の観察も、ひょっとするとこの「性善説」による偏りがあったかもしれない(「政治的発言」だった可能性も否定できないが)。

その秋水が、もし関東大震災を目撃していたら、どのような感想を抱いたであろうか。――残念なことに、秋水は、その12年前に「大逆事件」によって処刑されてしまっている(その裁判に当ってすら、「自分の無実を知りながら、一言の弁解もせず、笑って二十余人の同志、門下生と運命を共にした」という)。

したがって、実際には、災害下のサンフランシスコと東京との違いを見ることも、愛弟子大杉栄 (1885 - 1923) の殺害を知ることもなかったのではあるが、秋水の性格からくる「性善説」が、現実からの絶望によって「性悪説」に変わった可能性が大きかったのではなかろうか。

村雨退二郎(むらさめ・たいじろう)
『史談蚤の市』
中公文庫(改版)
定価:880 円 (税込)
ISBN4122046173

最近の拾い読みから(89) ― 『間諜 洋妾(らしゃめん)おむら』

2006-10-27 07:09:41 | Book Review
何度も鳶魚翁に倣って時代小説における「言葉とがめ」をしていても、あまり生産的ではないでしょう。

そこで、今回は「時代考証」的立場から見て褒められる作品をご紹介することにします。
一度、本ブログでも触れたことのある作家、杉本章子の作品『間諜 洋妾(らしゃめん)おむら』です。

さて、この作品の場合、タイトルの用語から説明しなければならないかもしれませんね。
「間諜」というのは「スパイ」、「洋妾(らしゃめん)」は文字でお分かりでしょうが、西洋人の日本での現地妻となった女性を蔑視したことば。「らしゃ」は「緬羊」「羊」で、辞書によりますと「西洋の水夫は綿羊を船内に飼育して犯した」という俗説から生まれたことばとのこと。

「唐人お吉」辺りから始まり、横浜は岩亀楼の喜遊(きゆう)は洋妾になることを拒み、「露をだに厭(いと)う大和のおみなえし 降る雨りかに袖は濡らさじ」という辞世の歌を残して自害した、なんてエピソードを残しています。
一方、オペラの「蝶々夫人」などは、明らかに「洋妾」なんですが、その悲劇に同情を買ってか、そうは呼ばれてはいない(もっとも、日本で初上演された頃には、このオペラは「国辱的」だとして排斥する向きもあったようですが)。

この辺りの「ゼノフォビア(xenophobia:外国人嫌い)・ナショナリズム」の現れ方の違いというのは、考察に値しますが、今は置いておきましょう。

さて、本作品の主人公は、葭町(よしちょう)の売れっ子芸者おむら。
薩摩藩士と相愛の仲になるのですが、薩摩藩の政略のため、やむなく洋妾となって英国公使館に潜入する、という筋立て。

ストーリー展開や書評はともかくとして、今回は、用語の豊富さを指摘しておきましょう。
しかも、世界が、芸者を中心とした江戸庶民のもの(『春色梅児誉美(梅暦)』の世界ですな)と、幕府や英国公使館の政治的なものとに二分されているにもかかわらず、その区別を用語でもはっきりさせているのが、なかなかのものです。

まずは、前者(江戸庶民の世界)から見れば、
「この子ほどの見目(みめ)よしなら、さきは売れっ妓(こ)まちがいなしだ。見目は果報の基(もとい)ってね」
という台詞。「器量よし」とも、もちろん「美人」ともいわず「見目よし」ってのがいいじゃありませんか。それに「見目は果報の基ってね」と、ちょっとした「ことわざ」めいた表現を挟み込むのも、いかにも江戸のことば遣い。

単語で拾っていくと、「お化粧(つくり)」「いい気味(きび)」「猫板(ねこいた:長火鉢のパーツ)」「衣桁(いこう)」「機嫌気褄(きげんきづま)」「取っかえべえ」「恰好(なり)」「近間(ちかま)」などなど。
とくに説明は施しませんが、いかにもという単語が、適切に使われています(作者は福岡出身とのことですが、「お勉強しました」感がありません)。

後者の侍ことばも、幕閣の大身(たいしん)はそれらしく、薩摩の陪臣(またもの)はそれ相応に、という使い分けができている。

ここでは、大身のことばづかいから、その一例を。
「吟味ちがいということで、邪曲(よこしま)な裁きをするのはさぞかし無念であろうが、ここはひとつ、大乗に立ってよしなに計ろうてはくれぬか」
無理がありませんね。
これでなかなか「さよう、しからば」ことばも難しいのですよ(漢語と和語のバランスがポイントの一つかな)。

ケチを付けるとすれば、公使館関係者のことば遣いや趣味に、やや違和感があること。
ここはもう少し、気取った翻訳調にしてもよろしかったのでは、と思います。ちょっと現代語に近く、平易に過ぎるのではないでしょうか。

とはいえ、鳶魚翁でも及第点を付けるのでは、と思わせる「時代考証」振りでありました。

杉本章子(すぎもと・あきこ)
『間諜 洋妾(らしゃめん)おむら (上) 』
文春文庫
定価:650 円 (税込)
ISBN4-16-749709-3

山崎正和における「保守性」

2006-10-26 02:51:49 | Opinion
10月25日付け「朝日新聞」朝刊「保守とはなにか」欄に、山崎正和がインタヴューに応えた記事が掲載されている。
「近代社会には〈政治的な保守〉というものは存在しないし、存在しえない。」
との言説についての小生の意見は、しばらく保留することにする(それにしても、現状を変えようとする場合に採る態度によって、良し悪しは別にして〈政治的保守性〉というものは立ち現れてくるのではないのか)。

しかし、後段の「文化的な保守」に関しては、ちょっと考察するに値する意見が載っているので、ここで紹介する。
「靖国は明治政府が、近代政府の生み出す負の面である〈国家のための戦死者〉を慰めるためにつくった。政治的イデオロギーの産物であって、信仰ではない。現に、靖国には日本人が文化として愛する人々がまつられていない。西郷隆盛、白虎隊。いずれも〈賊軍〉とされたからだ。
(中略)
靖国参拝を支持する〈保守派〉の一部は、『第2次世界大戦は日本にとって正しい戦争だった』と気勢をあげているが、先ほども言った通り、第2次世界大戦が正義の戦争だなどと言う主張は、きわめて革新的な意見だ。」
「政治的イデオロギーの産物であって、信仰ではない」という点には異論がある。
むしろ「政治的イデオロギーの産物でもあり、天皇信仰でもある」というのが妥当な認識ではないだろうか。この辺りは、政治と文化とを分けるという山崎の認識が妥当かどうかにも関わってくる。
また〈賊軍〉が祀られていないのは、「天皇にまつろわぬ者を排除する」という文化=信仰の問題でもあるのではないのか。

より面白いのが、
「いわゆるナショナリズムは、すべて革新の主張だ。歴史を見ても、慣習に従った長老支配が続く集団でナショナリズムを叫んだのは、旧体制を否定する青年たちだった。(愛国心を養おうとする政策は)保守化(的?)ではない。
また、伝統的には愛国心などというものはなく、みな〈うちのムラ〉が好きだっただけだ。後者は文化であり、保守にもなじむ。だが、『この国はこういうものだ』と名を付け、理念的な使命感を与えて『こっちに進むことが愛国心だ』と言ったら、これはまさに進歩主義だ。しかも少し、きな臭い。」
との意見。

前段は、やはり政治と文化とを分けて考えようとする山崎の思考法に、若干の問題なしとはしない。
それに対して、後段は、ほぼ妥当だろう。

近代化=進歩化こそ、ムラ=共同体を破壊した元凶だからだ。ムラ共同体を壊さない限り、近代国家(ナショナル・ステイト)は成立しなかったから。
したがって、「我が国と郷土を愛する」という表現は、そもそも成立不可能なのである。

古くは足尾鉱毒事件で谷中村が廃村となった事実から、今日の地方都市中心部商店街の衰退(「シャッター通り現象」)、高速道路建設や米軍基地建設による環境破壊、等々という事実にいたるまで、「郷土」を破壊しているのは「近代国家」なのでないか。

単純に「郷土」を愛することが、「国家」を愛することである、と考えている輩は「幸い」なり。

また、文化的にも「保守派」と考えられている山崎(本人も「文化の面では、どちらかと言えば保守的な人間」と認めている)が、次のような発言をしているのは、興味深い。
「(教育基本法の改訂論議で)伝統の継承もうたわれているが、空疎な言葉だ。今の日本人にとって伝統とは何か。三味線よりベートーベンに親しみを抱くのが実態だろう。『古いものにも価値がある』という意味で伝統一般を愛するのはいいが、日本列島という地域で生まれた伝統に限って尊重しようというならば、それは愚かな発想だ。」

山崎の意見には若干の「ねじれ」があり、真意が取りずらい気味があるもののの(彼とよく対談する丸谷才一の分りやすさと対照的)、今までの山崎の言動を知らない輩には、これらの発言はどのように思われるのだろうか。

時代小説と小説の reality 【その7】

2006-10-25 07:03:32 | Criticism
前回、歴史小説や時代小説が「日本近代文学に直接影響を受けない、一連の小説群」というジャンルだったと述べました。
これは、大きく「大衆小説」と捉えた場合にも同様で、これらの小説は、むしろ江戸時代の文藝に根を持っている、といってもいいかもしれません。
小森 大きな視点で見ると〈大衆小説〉の源流は江戸にさかのぼらないといけませんね。
井上 そうですね。黄表紙を代表とする江戸期の挿絵つきの大衆のための読物は、現在の新聞小説の先祖、大親玉のようなものですが、でも、そういう作物(さくぶつ)が大量の読者を獲得したのは大正時代に入ってからです。」(井上ひさし、小森陽一編著『座談会 昭和文学史 三』)
リテラシー(読み書き能力)の高さによって、江戸時代後期、既に〈大衆文藝〉とでも称せられるジャンルが成立していた、という指摘です。

そして、その流れは、明治時代の文学の近代化とは、一線を画す形で続いてきました。
「大衆文学の源流には〈講談〉がありますね。それから、幕末から明治に生きた三遊亭円朝の人情噺を速記したものがある。明治末年には、書き下ろし講談ともいうべき〈立川文庫〉が出ます。大正時代になると、前田曙山(まえだ・しょざん、1872 - 1941)、行友李風(ゆきとも・りふう、1877 - 1959) らの〈新講談〉が出てきます。そして、中里介山の『大菩薩峠』が「都新聞」に連載される。」(井上、小森、前掲書)
どうでしょうか、いわゆる日本近代文学史とは、まったく違った路線が見えてきませんか。
従来の日本近代文学史は、そうした意味で、非常に偏頗なものだったのです。

余談になりますが、もう一つ、従来の日本近代文学史の偏頗性が出てきたところで、大衆文藝には「反個人主義」という特徴があることを挙げることもできようかと思います。

丸谷才一の指摘(『日本文学早わかり』)によれば、従来の日本文学史は西欧19世紀の国別文学史をお手本にしているために、「かなり特異なもの」になっているといいます。

その特色の一つに「個人主義」があって、日本文学史とはそぐわない面があると指摘されている。

丸谷の場合、これは前近代の「共同体的」文藝、すなわち芭蕉の「座」の文藝――歌仙や、『義経千本桜』の合作などを、「個人主義的文学史」にそぐわないものとして挙げているわけですが、明治以降の大衆小説の場合にも、ある程度言えるのではないでしょうか(ここで「ある程度」というのは、そこにメディアが強力に介在するようになるから)。

いわば「座」にも似た、読者と作者との関係がそれに当ります。
「大衆小説というのは、たしかに読者との共同作業です。読者のことをよくよく考えます。」(井上、小森、前掲書)
というような井上ひさしの指摘や、
「彼ら(時代小説作家)は〈純文学〉のような個人世界に飽き足らず、より〈おもしろい話〉を〈多数の読者〉に提供することこそが文学の役割であると見たのです。」(関川夏央『おじさんはなぜ時代小説が好きか』)
という指摘を考えてみるとよいでしょう。

この項、つづく


井上ひさし、小森陽一編著
『座談会 昭和文学史 三』
集英社
定価:3,570 円 (税込)
ISBN4087746496

時代小説と小説の reality 【その6】

2006-10-24 06:05:56 | Criticism
森鴎外が登場したところで、ここで若干、日本の近代文学の流れについてみておきましょう。
その方が、歴史小説・時代小説の見通しが良くなるでしょう。

というのは、日本の近代文学、とりわけ自然主義文学(顕著な特徴としては「私小説」)から「純文学」という流れに、歴史小説・時代小説が対峙しているからです。
――そのような見通しからすれば、「森鴎外の歴史小説、史伝は、文学の主流と思われていた純文学にではなく、大衆小説、時代小説と呼ばれた系譜のなかに受けつがれて」(関川夏央『おじさんはなぜ時代小説が好きか』)いったのです。

日本の近代文学も、文化の他のジャンルと同じように、西欧のそれを模倣するところから始まりました。その段階で、江戸時代までの伝統的文学は否定されるに至ったのです。
「彼の曲亭の傑作なりける『八犬傳』中の八士の如きは、仁義八行の化物にて、決して人間とはいひ難かり。作者の本意も、もとよりして、彼の八行を人に擬して小説をすべき心得なるから、あくまで八士の行をば完全無缺の者となして、勸懲の意を寓せしなり。されば勸懲を主眼として『八犬傳』を評するときには東西古今に其類なき好稗史なりといふべけれど、他の人情を主脳として此物語を論ひなば、瑕なき玉と稱えがたし。」(坪内逍遙『小説神髄』上巻)
というわけです。

ここには、19世紀的な進歩史観があって、小説は、
 鬼神史(=神話)→奇異譚(ロマンス)→「真実の小説」
という発展段階を踏み、馬琴の『南総里見八犬伝』などは、その「真実の小説」へ達する前段階のもの、という評価になってしまう。

それでは「真実の小説」とは何かということですが、逍遥によれば「模写小説」すなわち「現実を模写した小説」ということになる。
ここから自然主義小説へは、ほんの一歩の距離しかありません。
「何事も露骨でなければならん、何事も真相でなければならん、何事も自然でなければならん」という田山花袋の『露骨なる描写』が、その小説観を端的に表しています(日本の自然主義とフランスのそれとの違いは、今は省く)。
「たぶん日本の自然主義者たちは、自分の体験といふ世界を信じすぎてゐて、ただそれを差出しさえすればいい、趣向なんか要らないと考へたのである。言ふまでもなく、私小説はここから生まれる。」(丸谷才一「趣向について」。『日本文学早わかり』所収)

しかし、ここに日本近代文学に直接影響を受けない、一連の小説群があります。
それが歴史小説であり、時代小説なのです。
「彼ら(時代小説作家)が距離を置きたがるのは夏目漱石や森鴎外ではなく、大正期以降の文学」(関川、前掲書)
だったのです。

この項、つづく


丸谷才一
『日本文学早わかり』
講談社文芸文庫
定価:1,200 円 (税別)
ISBN4-06-198378-4

時代小説と小説の reality 【その5】

2006-10-23 06:14:58 | Criticism
なぜ、小説家は歴史小説を書くのでしょうか。

その問いに答えるために、まず森鴎外の場合をみてみましょう。

鴎外の場合も、三田村鳶魚と同様に「古典主義者」だったと思います。

彼が歴史小説を書き始めた、日露戦争後の日本社会は、
「自由は規律とモラルがあって、はじめて謳歌され得る。野放図な自由は自由の名に値しない、それはただの自堕落とむきだしのエゴの突出にすぎない」(関川夏央『おじさんはなぜ時代小説が好きか』)
そのような時代であると、鴎外には思えたのです。

それに対し、江戸時代はどうだったでしょうか。
鴎外には、
「封建期を未開の遅れた時代とみなす時代の気分への強い反感がひそんでいました。江戸時代をなんら学ぶべきもののない時代と考え、そう教えていた度合は、現代より明治のほうがはなはだしかったのです。革命によって成立した新政府が前代を完全否定したがるのは、おのれの存在理由の正当化のためです。」(関川、前掲書)

1912(大正1)年9月に、鴎外は最初の歴史小説『興津弥五郎衛門の遺書』を書きます。
この年代に注目していただきたい。この年、7月30日に明治天皇が亡くなり、大正と時代が変わった。
その明治天皇の死に、鴎外が触発されて書かれたのが、この歴史小説だったというわけです。より正確に言えば、明治天皇の死とそれに引き続いて起こった乃木希典夫妻の殉死が、そのきっかけといった方がいいでしょう(同年9月13日)。

まず、明治天皇の死去によって、鴎外は、ある時代の終りを感じざるを得なかった。それは、1862(文久2)年生まれの鴎外だけではなく、1867(慶応3)年生まれの漱石も同様でした(漱石は『こゝろ』を書く*)。
*『こゝろ』には、「先生」の手紙として、次のような一節がある。
「すると夏の暑い盛りに明治天皇(めいじてんのう)が崩御(ほうぎょ)になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後(あと)に生き残っているのは必竟(ひっきょう)時勢遅れだという感じが烈(はげ)しく私の胸を打ちました。」(『こゝろ』五十五)
また、1868(明治1)年生まれの徳富蘆花は、
「明治が大正となつて、余は吾生涯が中断されたかの様に感じた。明治天皇が余の半生を持つて往つておしまひになつたかの様に感じた。」
と『みみずのたはごと』に書き付けている。

乃木将軍の殉死は、鴎外に次のように感じられたろう、と関川夏央は述べています。
「これが本人の意志がそうであったというのでは必ずしもありませんが、明治帝ではなく時代の終焉に殉じたと考えることもできます。少なくとも、鴎外や漱石はそのように実感したろうと私は考えます。大葬の現場で乃木夫妻の死を知った鴎外は、帰宅するとすぐに『興津弥五郎衛門の遺書』を書きはじめ、数日のうちに完成させました。」(関川、前掲書)

つまり、鴎外の場合、「歴史」に関する実感(手触り)が彼の歴史小説を生んだというわけです。
その場合、そうした実感(手触り)を、私小説のようにもろに自分のこととして提示しないで、ワン・クッション置いたところに、歴史小説という形が生まれたのでしょう。

そう言えば、司馬遼太郎も小説の上で、主人公と「私」を重ねることのない小説家でした。

この項、つづく


関川夏央
『おじさんはなぜ時代小説が好きか』
岩波書店
定価:1,785 円 (税込)
ISBN4000271040

時代小説と小説の reality 【その4】

2006-10-22 04:36:11 | Criticism
当然のことながら、歴史小説のみならず一般の時代小説にも、無意識の内にせよ、作者の歴史観が潜んでいます。

おそらくは、一番大きなものは、江戸時代をどのような時代として捉えるか、ということでしょう。

近年では大分是正されてきたとはいえ、一般には、江戸時代=暗黒時代という歴史観が幅広く通用していたようです。
八王子千人同心の子孫である三田村鳶魚は、それに対して『大衆文芸評判記』の中で、こう述べています。
「薩長が新政府で跋扈するとともに、江戸の幕府というものをむやみに悪くいうことにして、学校の教科書なんぞにもそういう意味のことを書いた。大衆小説の作家なんぞは、わけもわからずに、そういう教育を受けたから、わけもわからずに、こんなこと(「政治を私し、民を絞る大盗徳川」)を書いている。幕府の功罪というものは、六十年たった今日でも、まだ本当に考えられることが少い。教育というものは恐しいもので、時に赤いものを黒いとすることもある。」(「林不忘の『大岡政談』」)

鳶魚翁が指摘したように、江戸時代観を形づくった明治政府の教育のせいもあるでしょうが、それ以外に、小説観の問題も、ここには絡んでくるから、そう簡単には解決できるわけのものではない。

まず江戸時代観の問題として、ここで指摘しておきたいのは、鳶魚翁は江戸時代を平和であるが、スタティックなものと考えていたことです。そして「規範」というものが生きて働いていた時代であると。
つまり、侍は侍らしく、町人は町人らしく生きるために「規範」が働き、それゆえに二百数十年の平和な社会を作っていた、ということです。

ですから、鳶魚翁は、時代小説にもそのような「規範」を前提とした「時代考証」が必要だと考えていた。
「昔の人間の口語を現代語にうつすということについては、随分骨も折っておられるようであが、どうもその人間がそこに現れて来るようにはゆかない。昔の人間の思想なり、心持なりを現すというよりも、作者の現在の心持を現しているもののようにのみ思われる。」(「島崎藤村氏の『夜明け前』」)

そういう点からすれば、鳶魚翁は「古典主義者」であるともいえましょう。
ここでの「古典主義」というのは、次のような意味に考えておいていただきましょうか。
「古典主義を成立させる人間観は、人間とは本来的に限られた存在、堕落した存在――むしろ『原罪的』ともいうべき存在であるという思想であった。したがって、彼等にはなんらの価値をも自律的に、内発的に実現しうる能力はない。わずかに理性による抑制、規範による伝統というようなものをまってはじめて、積極的な価値を想像しうるにすぎぬとするのである。」(中野好夫『英文学夜ばなし』「浪漫主義と古典主義」)

これに対して、一般の時代小説家は、時代小説が「講談」の庶子であり、「活動写真」の兄弟であったことから分るように、その人間観において(また、広く歴史観において)「浪漫主義」的でありました。
「浪漫主義の基底になっている人間観は、一口にいえば人間万歳の思想――人間とは生まれながらにして『内なる光(インナー・ライト)』をもった善なる存在であり、そこには無限の可能性が内在させられている。その本来の人間性が発揮されなかったり、人間世界に悪や不幸が存在するのは、それらを抑圧する悪しき制度や法や因襲があるからにすぎぬ。それらさえ除かれれば、人間は限りないその完全性を実現しうるはずだという――言葉をかえていえば、実に大胆な人間讃美、人間肯定の哲学であった。」(中野、前掲書)

それが、過去に投影されると、明治以降の歴史教育とはまた別に、江戸時代はダイナミックな時代である、という認識になるわけです。

この項、つづく


中野好夫
『英文学夜ばなし』
岩波同時代ライブラリー
定価:968 円 (税込)
ISBN4-00-260152-8