一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

「覇道の帝」と「王道の帝」その3

2007-09-30 01:01:49 | History
明治帝に「王道の帝」を求めようとした代表的人物が、帝の「侍補(じほ)」元田永孚(もとだ・ながざね。1818 - 91)でしょう。
彼は、
「元田的に儒教の原理をおしつめ、『天子に無限の政治的道徳的努力を要求』し、その結果、『明治天皇個人は元田の教育によって、理想的な君主となった』とする。」
とされています(飛鳥井雅道『明治大帝』)。

しかし、実際の明治の国家体制(明治憲法体制=「国体」)では、天皇大権の一つとして「統帥大権」(軍の最高指揮権)が規定されておりました。
これは「戦う天皇」像を、伊藤博文などの憲法制定者が念頭に置いていたことを示しています。

その間の矛盾を、現実としての明治帝は生きていたのです。
日清戦争を前にしての帝の行動に、それが端的に現れています。
「天皇の宣戦の詔勅が公布された直後、宮内大臣子爵土方久元(ひじかた・ひさもと)は天皇の御前に伺候し、神宮ならびに孝明帝陵に派遣する勅使の人選について尋ねた。天皇の応えは、次のようなものだった。『其の儀に及ばず、今回の戦争は朕素(もと)より不本意なり。閣臣等戦争の已むべからざるを奏するに依り、之れを許したるのみ、之れを神宮及び先帝陵に奉告するは朕甚だ苦しむ』と。」(D.キーン『明治天皇』下巻)
つまりは、明治憲法で規定された立憲君主としては、開戦に詔勅を与えなければならないが、「王道の帝」として帝王教育されてきた人間としては、清国への開戦には賛成できない、というわけです。
それは、明治帝が平和主義者だった、ということではなく、日清戦争が自らが持つ道徳から見て「正しい戦争」かどうか、という判断だったのです。
*リアル・ポリティクスから見ても、この時点で清国を弱体化することは、東北アジアにロシアの侵出を早めることになる。

しかしながら、国家としては、明確にアジア侵出という覇道の道を歩んでいきます。
「貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。」(孫文「大アジア主義」
という孫文の忠告にもかかわらず、愛馬「白雪」にまたがり大元帥服を着た昭和帝を先頭に立てて。

「覇道の帝」と「王道の帝」その2

2007-09-29 00:45:42 | History
さて、明治帝に負わされたのは、「覇道の帝」と「王道の帝」とを兼ねる存在である/あらねばならぬ、ということでした。

まず最初は、「覇道の帝」としての側面が立ち現れます。

理由の第1は「攘夷」を正当化するために、「維新の志士」たちが天皇の権威を必要としたから。

第2として、「武力討幕」のシンボルとしての天皇を必要としたからです。その端的な現れが、皇族に与えた「錦旗」*でしょう。
*「錦旗」とは元来、普通思われているような「官軍旗」(官軍の軍旗)ではなく、「天皇旗」(「将軍旗」)です。
つまりは、その旗の元には、「戦う天皇」もしくは、その権限を委譲された皇族・将軍が存在している、ということを示しているのです(その延長線上に「官軍旗」という観念が生まれる)。

したがって、まずは「戦う天皇」が登場する。

岩倉具視による「王政復古」とは、神武天皇の東征にまで遡ることであり、したがって、三種の神器の「剣」は、「武の統帥を意味する。天皇は、剣を自らおとりにならなければいけない」と考えていたようです。
また、真木和泉なども、「天皇親征」(「親政」ではない)を唱え、「武」を天皇存在の核の一つとして重視していました。

つまりは、幕末・明治維新時に、「戦う天皇」(=「覇道の帝」)像がプラス価値を持つものとして急浮上してきたのです(それ以前、「覇道の帝」である後醍醐帝は「不徳の君」としてマイナス評価されていた)。

「戦う天皇」を戴いて、維新戦争、西南戦争などの国内戦争に勝利した明治新政府は、内政に一層の目を向けざるを得なくなる。
というのは、自由民権運動の高まりによって、新政府の正統性に疑問が投げかけられ始めたからです。

そこで、国内統一のために、一転して「道徳的天皇」が必要になってきます。つまりは「王道の帝」像を提示することが、急務となったのです。

どうやら、この論考は続くことになりそうです。
それでは、またの機会にこの続きを。

最近の拾い読みから(184) ―『西洋音楽から見たニッポン―俳句は四・四・四』

2007-09-28 05:48:31 | Book Review
本書は、日本音楽と西洋音楽との違いを話題の中心とした音楽エッセイです。

著者は、まず日本音楽のリズムを解明するため、俳句の音律の分析から入っていきます。それが副題の「俳句は四・四・四」というフレーズになっているわけですね。
著者の俳句の音律分析に当たってのポイントは、無字数にはこだわらずに、あくまで「音律」のみを対象にすること。
そこから得られた結論が、
「五・七・五のもつ調子のよさとは、じつは四拍子のもつ調子のよさなのである。いってみれば、七・五調というものはリズムとしては存在しない。あるのは四拍子だけである」
ということです。

次に、七・五調の歌詞が今様、和賛から始まり(平安時代末期ごろから)、多くの流行歌にまで引き続き愛好された様を見ていきます。
しかし、その七・五調も今や終焉を迎え、
「日本人の歌は旧来の流行歌から脱し、アメリカの影響のもとにポップ調、フォークソング、ロックなどさまざまな方向に分裂していく、そこに生まれてきた新しい歌は、すでに七と五に捕われない自由律で散文的な歌詞に変わっていた。」

さて、ほぼ以上の第1章から第3章までが、韻文を中心とした日本語のリズム分析ということになります(散文、歌舞伎などの名台詞のリズムについては、第3章で触れている)。

第4章「音楽に国境はある」は、若干内容が異なり、音楽の背景にある文化(主として言語イメージ)の違いについて触れていますので、ここではご紹介は省略。

第5章以降が、以上を踏まえての日本音楽論。
日本の多くの「現代音楽」は、なぜビート(律動)をもたない音楽なのか、ということが話の出だしとなります(著者は、そのような音楽を「ヒュー・ドロン・パッ」音楽と呼んでいる)。
結論的に言えば、著者は、それを日本人の自然観に見ているようです。
「いま日本人の若手の作曲家たちが、突然に三和音も対位法もないヒュー・ドロン・パッを書きはじめたのを見ていて、そのヒュー・ドロン・パッがじつは自然音の無意識的な模写に近いものだと思うとき、明治以来西洋の模倣に模倣を重ねてきた日本人が、西洋の模倣を離れて日本人本来の潜在意識に立ち帰るようになったのかと思えてくるのだが。」

「武満徹が成功して彼の名を世界に知らしめた『ノヴェンバー・ステップス』にしても、聞きようによってはビートのないヒュー・ドロン・パッ的発想の部分に西洋音楽の衣裳を着せたというふうにも、あるいは、ヒュー・ドロン・パッと西洋音楽との相剋とも聞こえるといっていいだろう。」

さて、以上のように著者の分析が進められてきたわけですが、本書全体の結論として、
「こうして流れるような美しい日本語は千年を経て、今、私たちの手の中にある。私たちが受け継いだこの言葉は、私たちが守らなければ、混乱の果(はて)に失われていしまう。」
というのは、いささか陳腐なのではありませんかねえ。
個々の分析に頷けるところがあるだけに、着地が平凡なのは惜しまれるところです。

石井宏
『西洋音楽から見たニッポン―俳句は四・四・四』
PHP研究所
定価 1,575 円 (税込)
ISBN978-4569659541

日本右翼の基礎を形作った肉体的文化

2007-09-27 03:47:23 | History
日本の近代右翼を考察するのに、その思想の分析から行なうのが普通の手法です。
しかし、日本の近代右翼を考えるに当たっては、我が国の肉体的文化を考慮に入れざるを得ません。というのは、我が国にも独自の「マッチョ文化」、すなわち「壮士文化」があり、近代右翼はその文化の上に成り立っているからなのね。

それでは「壮士文化」とは、どのようなものなのか。
杉森久英『浪人の王者 頭山満』の記述から、その肉体的文化を見ていきましょう。
「日本人は大正、昭和とくだるにつれて、おとなしくなったというか、紳士的になったというか、それとも士風がおとろえたとでもいうか、酒宴や会議の席での鉄拳沙汰が少なくなったが、明治初年は、まだ一般に殺伐の風が残っていて、何ぞといえば、殴り合いになったものである。」

「当時はまだ、維新から十数年しかたっておらず、男はたがいに体力、気力を誇る風がさかんであった。」

「普通、壮士といわれるような男は、性質に狂騒なところがあって、自己顕示欲が強く、人を見ては、けんか口論を吹き掛け酒や女に身を持ちくずして、放縦無頼の生活をする者が多い」
という肉体的文化が存在していたわけです。

このように、右翼のみならず、自由民権運動家も「壮士文化」を共有していました(当初「玄洋社」も、自由民権を唱えていた)。反体制家の文化といってもいいでしょう。
これは幕末の「志士文化」から引き継いだものかもしれません。

言論よりも行動を重視する、しかも、その行動には暴力も含まれます。
暴力でも、この時代は、腕力だけではなく、武力をも意味します。言論人や政府要人の暗殺も、その一環です(「日本刀」による高田早苗傷害事件、「爆裂弾」による大隈重信暗殺未遂事件など)。

その暴力性が、言論抑圧の方向にもつながっていく。
「彼(=頭山満)がイザとなれば何をしでかすかわからない男だということは、だれの目にも明らかなのでうっかり手出しをする者もなかった。こうして、頭山は強いということがみなに知れわたってしまえば、先方から折れて出るので、腕力をふるう必要もないわけである。いわば、巨万の富を持った男が、全部銀行に預けて、ふだんは無一文で歩いているようなもので、いちいち現金で払ってみせなくても、相手の信用が落ちるわけではない。頭山は何かあるごとに、いちいち腕力をふるってみせなくても、彼は強いという評判だけで、じゅうぶん相手を威圧することができたのである。」
政治的な圧力をかけるのに暴力を許容する文化は、昭和に入って軍部にも引き継がれ、5・15事件、2・26事件となっていったのです。

杉森久英
『浪人の王者 頭山満』
河出書房文庫
定価 441 円 (税込)
ISBN9784309400730

ご報告

2007-09-26 05:16:24 | Information
小生の作品『彰義隊異聞 少年鼓手』が、第32回歴史文学賞の第一次選考を通過しました。

本作品の梗概は、次のようなものです。
〈彰義隊〉隊士も数多い中で、最年少だったのは、当時数え12歳で、鼓手をつとめていた比留間数馬(ひるま・かずま)であろう。
「私」―報知新聞記者の篠田鉱造(しのだ・こうぞう)は、明治29(1896)年の初夏、東京音楽学校で打楽器を指導している比留間から、30年ほど前に起こった上野戦争について話を聞くことになる。

 数馬は、8歳の頃からオランダ流の小太鼓を習い、〈伝習隊〉でも鼓手の役をしていた。江戸無血開城により〈伝習隊〉は江戸を脱走、取り残された形になった数馬は、前から知り合いの丸毛靫負(まるも・ゆきえ)に誘われ、〈彰義隊〉に参加することになる。
 西洋式の戦闘方法に慣れていない〈彰義隊〉では、折角の小太鼓も役に立ちそうにないと思われた。けれども、元〈新選組〉十番隊組長の原田左之助(はらだ・さのすけ)など、隊士の面々とも親しむにつれ、士気を鼓舞するものとして、その役割が認められるようになる。

 慶応4(1868)年5月15日、上野戦争が始まった。
 数馬は、マーチで隊士の勇を奮い立たせたが、利あらず、新政府軍の圧倒的な攻撃により、ついに上野の山を単独で脱出することになる。その途中、新政府軍の哨戒線に引っ掛かったが、丸毛にもらった拳銃で若い3人の兵士を殺し、辛くも逃げ延びることができたのであった。

 12歳の少年鼓手の目に映った上野戦争の姿とは、どのようなものであったのだろうか? また、彼は、戦争を通じてどのような感慨を受けたのであろうか?

来月には、第二次選考の結果が発表になります。
また、ご報告しますので、ご声援の程よろしくお願いいたします。

最近の拾い読みから(183) ―『廃帝』

2007-09-25 00:20:12 | Book Review
南朝後醍醐帝によって廃帝とされ、明治以降は南北朝正閏論で南朝が正統とされたために歴代天皇から抹殺された、北朝の天皇・光厳帝を主人公にした長編小説。

珍しい人物を主人公に据えてはいるのですが、明らかに失敗作と評せざるを得ません。

その理由の第1は、何をテーマにした小説か、その全体構成の上から読み取れないことです。
推測するに、おそらくは「武」によって立った後醍醐帝に対して、別の原理で対峙しようとした光厳帝を示したかったのでしょう。
本書での光厳帝の科白に、次のようなものがあります。
「なぜわれらは弓矢を取らないか。武器は、勝敗を決するものだからだ。だが帝の座とは勝敗を超えた聖なるところにある。そうでなければ武門と変りはしない。『荒ぶる者どもには負けよ、武を以て侵し得ぬ場こそ王者の座である』……そう花園院は教えて下された。愚直のようだが私はそれを信じる。この座にいて、もし賊に首を斬られるなら、それが神意なのだと思う」
これが本作品の、もっとも中心になるテーマであると思われます。

しかし、光厳帝(もう「院」ではあったが)は結局世を捨てて、常照寺で仏道修行に勤め、世を去ることになるのね。
これは、光厳院の路線が、有効ではなかったことを示すエピソードではないのでしょうか。ですから、テーマをはっきりさせるためには、ラストの部分を別の形とする必要があったでしょう。

また、語り口としては、光厳院の日記の残欠からのパートと、後醍醐帝の命令により光厳院を襲撃し失敗した源鬼丸の回想のパートに分れています。
日記残欠の部分は、第一人称の語りですから、光厳院の内面に関して触れることができます。
そして、源鬼丸の回想の部分では、第三人称の語りとなり、当時の政治情勢を語り、かつ、後醍醐帝と光厳帝との両者の違いを語ることもできるわけです。
けれども、この回想部分が中途半端なため、そのテーマを立体的に浮き彫りにすることに失敗しています。

第2には、時代考証がちゃんと出来ていないことが、テーマを曖昧にすることにも繋がってきています。
というのは、この時代、後醍醐帝によって「異類異形」の徒が、歴史の表面に登場してくるわけですが、時代考証がいい加減なため、せっかく源鬼丸や「陀羅尼助」という「異類異形」に属する架空の人物を登場させたのに、それが十分には生きてこない結果に終わっている。

以上のような理由から、本作品を失敗作と断ずるわけです。
後醍醐帝vs.光厳帝など、せっかく面白い素材を選んだのにね(小生なら、網野史学の結果をもっと生かして、この2人の帝の対立を、「異類異形」=「非正統」vs.「正統」という形で描きますけれども)。

森真沙子
『廃帝』
角川春樹事務所
定価 1,890 円 (税込)
ISBN978-4758410298

「覇道の帝」と「王道の帝」

2007-09-24 05:01:36 | History
kuroneko さんのブログ「みんななかよく」(9月20日付)に、「両陛下訪問の案内状で入力ミス=悪天候を『悪天皇』、職員処分-秋田県」という記事が紹介されていました。

そこで、ブログの内容とは係わりなく、頭に浮かんだのが、後醍醐帝のこと。
戦前の皇国史観では、「建武の中興」を行なった偉大な天皇となっていますが、「覇道の帝」であったことは間違いない。

それでは「覇道の帝」とは、どのような存在か。

その前に、後醍醐帝については、ご存知ですよね?
人によっては網野善彦『異形の王権』を通じて、「異類異形」の徒を動員して王権の確立を図ろうとした「異形の王」としてご承知かもしれません。
また、ごく一般的には(教科書的には)、「正中の変」「元弘の変」を通じて鎌倉幕府(武士政権)の打倒を図り、隠岐配流はあったものの、ついにはそれを成功させた天皇として知っているでしょう。

この時代、幕府政権の打倒を狙う以上、何らかの形で「武力」を使わざるをえない。
その意図を典型的に示したのが、帝の皇子大塔宮護良親王です。
天台座主の地位にありながら武芸に励んだ、というのも父帝後醍醐の意図によるものでしょう。
『太平記』には、
「義真和尚より以来(このかた)一百余代、未(いまだ)斯(かか)る不思議の門主は御坐(おはしま)さず。後に思合はするにこそ、東夷征罰の為に御身を習はされける武芸の道とは知られたれ」
とあります。

また、権謀述数を討幕過程のみならず、成立しつつあった足利政権を崩すために駆使したことは、言うまでもありません。
代表的な事例を1例だけ挙げておけば、幕府打倒の功労者である護良親王ですら、帝によって捨て去られた形跡が大きい。
『梅松論』によれば、
「宮(=護良親王)の御謀叛、真実は叡慮(=後醍醐帝の意図)にてありしかども、御科(おんとが)を宮に譲り給ひしかば、鎌倉へ御下向とぞきこえし。宮は二階堂の薬師堂の谷に御座ありけるが、武家(=足利尊氏)よりも君(=後醍醐帝)のうらめしくわたらせ給ふと御独言(ひとりごと)ありけるとぞ承(うけたまわ)る」
ということです。

このように、武力および政治上の権謀述数を駆使して政治を行なうことを、「王道」に対して、古来「覇道」と言います。

したがって、「王道」を理想とする新井白石など、江戸時代の学者の評価では、後醍醐帝は「不徳の君」だった。

それでは、明治維新後の天皇は、どのような存在であるべきとされたのか、あるいは、存在であったのか。
これに関しては、また別の機会に。

森茂暁(もり・しげあき)
『後醍醐天皇―南北朝動乱を彩った覇王』
中公新書
定価 714 円 (税込)
ISBN978-4121015211

Musica est sceintia bene modulandi.

2007-09-23 05:08:27 | Essay
今回は、ちょっと小難しい理屈を。
拙宅の庭で咲き始めたばかりの、金木犀の香りに酔っぱらっての戯言だ、と思っていただければ結構であります。

西欧における音楽理論が、神学と密接に関わっていたことは、よく知られるとおりです。

特に大きな影響を与えたのはアウグスティヌス(354 - 430)で、彼の "De musica(音楽について/音楽論)" は、中世を通じて西欧宗教音楽の基礎ともなりました(世俗音楽はまた別の話ね)。

そのアウグスティヌスが音楽について下した定義が、タイトルのことば、
Musica est sceintia bene modulandi.(音楽とはよく調節づけることの学である)
なんです。

音楽が陶酔を引き起こすことを、アウグスティヌスは十分に知っていました。"Confessiones(告白)" 中にも、若き日の彼が、音楽の持つ「陶酔」と「(神への)敬虔さ(への誘い)」との両面に引き裂かれそうになったことを語っています。それゆえに、一層深く「正しい」(religious correct) 音楽のありかたを考えざるをえなかった。

それでは、音楽はどのようにして、後者(敬虔さ、崇高さ)をもたらすのか?

ギリシアにおける音楽論が、彼の考察に役立ちました。ギリシア哲学において、音楽は、数理的な秩序を持っているとされていました。

一つは和音のもつ、数理的な関係です。オクターブ高い音は、周波数で元の音の2倍の関係になっていることは言うまでもないでしょう。同様に、ド・ミ・ソの周波数の比率は、4:5:6という整数比となっています(純正律の場合)。このような楽音のもつ秩序が、神の御技以外の何でありましょう、というのが基本的な考え方です。

もう一つ、身の回りにある数理的な秩序は、天体の運行です(詳細は省く)。

これらの理論から導きだされるのは、音楽が人を揺り動かすのは、天体から音楽に至るまで貫徹している秩序=神の御技に、ミクロ・コスモスである人間が共鳴するからだ、ということになります。

ですから、音楽のもつ秩序を上手に(bene)「調節 (modulatio)」して、信者に正しい感動を与えてやることが、科学(あるいは技術・知識)としての「音楽」の役割だ、というわけです。

まあ、異教徒である小生の場合は、そんな神学的な意味ではなく、音楽的には楽理だと管弦楽法だとか、その他、音響学や心理学だとか、そういったものを「塩梅して(bene modulor)」音楽は造られているんじゃあないの、という程度に使っているんですが、きっと聖アウグスティヌスさまに叱られますね。

航空機と星々と

2007-09-22 04:31:12 | Essay
同じ空にあるものだからでしょうか、航空機の愛称と星の名まえとの親近性は強かったようです。

軍用機では、前回触れたように、対潜哨戒機 P-3 が「オライオン」でした。また、かなり古いジェット戦闘機になりますが、 F-104 は「スターファイター」との愛称を持っていました。

これ、どちらもロッキード製なのね。
というのは、ロッキード社は、星や星座の名まえを愛称に使う方針(?)があったからのようです。

結構よく知られているロッキード社製の民間機では、L-1011(テン・イレヴン) が「トライ・スター (TriStar)」。
これはジェット・エンジンを3発積んだ旅客機ですから、「3」に因んでオリオン座の「三ツ星」という名まえにしたわけですね(オリオンのベルトの部分にある3つの星。ミンタカ、アルニラム、アルニタクという2等星)。

もっと古い旅客機では、その名も「星座」、すなわち「コンステレーション」というプロペラ機がありました。
垂直尾翼が3枚という特殊な形態をもった、いかにもアメリカ的な「モダーン」な航空機でした。

一方、日本はというと、これが機体に付けられたケースが、ほどんどないのね(「彗星」艦上爆撃機が唯一の例か? これ以外にあったらご教示を乞う)。
その代わり、三菱の航空機用発動機が、惑星の名まえをつけたシリーズになっています。

「金星」という650馬力の発動機(1型)から始まって、900馬力の「瑞星」(10型。これは惑星ではない)、1500馬力の「火星」(10型)という系列がありました。
「星」シリーズとなったのは、おそらく、すべて「空冷星形」と呼ばれるタイプの発動機だったためではないでしょうか。

現在では、無機質な型番やら、もしこのような愛称を付けるにしても、猛獣やら猛禽類が多いようで、空の世界も殺伐としてきているようです。

オリオン座を見かけた朝に

2007-09-21 06:07:29 | Essay
この季節、朝早く東南の方角に目をやると、もう既にオリオン座がはっきりした姿を見せています。
最初に見たときには、小生、一瞬驚いた。
というのは、オリオン座は冬の星座、という先入観が強かったからです。

なにせ頭にこびりついているのは、
木枯(こがらし)とだえて さゆる空より
地上に降りしく 奇(くす)しき光よ
ものみな憩える しじまの中に
きらめき揺れつつ 星座はめぐる

ほのぼの明かりて 流るる銀河
オリオン舞い立ち スバルはさざめく
無窮(むきゅう)をゆびさす 北斗の針と
きらめき揺れつつ 星座はめぐる
という『冬の星座』の歌詞なのですから。

堀内敬三訳詩ということになっていますが、元の歌は "Mollie Darling" で、あまり叙情的なものではありませんし、星も、第2節でのこんな登場のしかたです。
Stars are smilling, Mollie darling,
Thro' the mystic vail of night;
They seem laughing, Mollie darling,
While fair Luna hides her light;
O! no one listens but the flowers,
While they hang their heads in shame.
They are modest, Mollie darling,
When they hear me call your name.
これを「木枯とだえて さゆる空より/地上に降りしく 奇しき光よ」とやるんですから、堀内さんの頭の冴えがうかがえます。

さて、オリオンは英語で "Orion"、こちらになると「オライオン」と発音することが多いみたい。
例えば、海上自衛隊の第一線の対潜哨戒機として使われていたのが、ロッキードP-3「オライオン」。
現在でも、いくつかの航空基地に配備されていて、拙宅の上空を飛んでいくこともあります。
まあ、もともとギリシア神話で、オリオンは狩人なんですから、対潜哨戒機の愛称に付けられていても不思議はないのかもしれませんが。

早く起きた朝に、まだ暗い東南の空を見上げてみてはいかがでしょうか。
地上では、まだまだ「残暑」といっていますが、天空では、もう季節が着実に変わってきていますよ。