明治帝に「王道の帝」を求めようとした代表的人物が、帝の「侍補(じほ)」元田永孚(もとだ・ながざね。1818 - 91)でしょう。
彼は、
しかし、実際の明治の国家体制(明治憲法体制=「国体」)では、天皇大権の一つとして「統帥大権」(軍の最高指揮権)が規定されておりました。
これは「戦う天皇」像を、伊藤博文などの憲法制定者が念頭に置いていたことを示しています。
その間の矛盾を、現実としての明治帝は生きていたのです。
日清戦争を前にしての帝の行動に、それが端的に現れています。
それは、明治帝が平和主義者だった、ということではなく、日清戦争が自らが持つ道徳から見て「正しい戦争」かどうか、という判断だったのです。
しかしながら、国家としては、明確にアジア侵出という覇道の道を歩んでいきます。
彼は、
「元田的に儒教の原理をおしつめ、『天子に無限の政治的道徳的努力を要求』し、その結果、『明治天皇個人は元田の教育によって、理想的な君主となった』とする。」とされています(飛鳥井雅道『明治大帝』)。
しかし、実際の明治の国家体制(明治憲法体制=「国体」)では、天皇大権の一つとして「統帥大権」(軍の最高指揮権)が規定されておりました。
これは「戦う天皇」像を、伊藤博文などの憲法制定者が念頭に置いていたことを示しています。
その間の矛盾を、現実としての明治帝は生きていたのです。
日清戦争を前にしての帝の行動に、それが端的に現れています。
「天皇の宣戦の詔勅が公布された直後、宮内大臣子爵土方久元(ひじかた・ひさもと)は天皇の御前に伺候し、神宮ならびに孝明帝陵に派遣する勅使の人選について尋ねた。天皇の応えは、次のようなものだった。『其の儀に及ばず、今回の戦争は朕素(もと)より不本意なり。閣臣等戦争の已むべからざるを奏するに依り、之れを許したるのみ、之れを神宮及び先帝陵に奉告するは朕甚だ苦しむ』と。」(D.キーン『明治天皇』下巻)つまりは、明治憲法で規定された立憲君主としては、開戦に詔勅を与えなければならないが、「王道の帝」として帝王教育されてきた人間としては、清国への開戦には賛成できない、というわけです。
それは、明治帝が平和主義者だった、ということではなく、日清戦争が自らが持つ道徳から見て「正しい戦争」かどうか、という判断だったのです。
*リアル・ポリティクスから見ても、この時点で清国を弱体化することは、東北アジアにロシアの侵出を早めることになる。
しかしながら、国家としては、明確にアジア侵出という覇道の道を歩んでいきます。
「貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。」(孫文「大アジア主義」)という孫文の忠告にもかかわらず、愛馬「白雪」にまたがり大元帥服を着た昭和帝を先頭に立てて。