昭和8(1933)年の「朝日新聞」に次のような記事が掲載されました。
おそらく、この記事が、「飛び安里(あさと)」について触れた最初のものではないかと思われます。
2年後の昭和10(1935)年の「沖縄日報」の記事では、「飛び安里」の名まえが出され、より詳しいものになっていますが、本土にまでこの情報は伝わったのでしょうか。
岡山の表具師幸吉が、飛行実験の咎で故郷を追われたのに比較すると、王から恩賞を受けたというのは、当時の沖縄が開明的であったことを思わせます(中国との中継貿易が盛んに行われていた)。
その後、「飛び安里」は飛行実験を繰り返したのかどうか、何も伝ってはいません。
戦後(1960年代)に刊行されて『沖縄風土記全集』第3巻コザ市篇によると、
現在では、南風原町には「飛び安里初飛翔顕彰碑」とモニュメントが立てられているそうです(初飛行は、1780年と1768年との両説がある)。
「越来村胡屋の安里家四代の祖が、その弾力を利用して、弓を水平に支柱をとりつけ、弓の上に鳥の翼形のつばさをつけて、これを足で上下に動かして飛行する装置を考案し、泡瀬の海に面した断崖から飛び上がって成功した。」(昭和8〈1933〉年7月30日「朝日新聞」)
おそらく、この記事が、「飛び安里(あさと)」について触れた最初のものではないかと思われます。
2年後の昭和10(1935)年の「沖縄日報」の記事では、「飛び安里」の名まえが出され、より詳しいものになっていますが、本土にまでこの情報は伝わったのでしょうか。
「飛び安里は、西暦1768年尚穆(しょうぼく)王の代、首里鳥堀小村で、安里周当の四男として生まれた。周祥と推定され、さらに花火の名人だったという事実もつきとめた。
飛び安里の子孫が越来 509番地に住んでいた。その安里ゴゼイ(76歳)さんの話では、明治の初年頃、爺さんたちに聞かされてきた話では、先祖に飛行機のような物をつくって、空を飛んだ人がいたことを聞かされていた。ゴゼイさんから五代まえの周祥が、王の恩賞にあずかった程の手柄をたて、空を飛ぶという奇抜なことをやってのけた、というのである。」(昭和10〈1935〉年3月21日「沖縄日報」)
岡山の表具師幸吉が、飛行実験の咎で故郷を追われたのに比較すると、王から恩賞を受けたというのは、当時の沖縄が開明的であったことを思わせます(中国との中継貿易が盛んに行われていた)。
その後、「飛び安里」は飛行実験を繰り返したのかどうか、何も伝ってはいません。
戦後(1960年代)に刊行されて『沖縄風土記全集』第3巻コザ市篇によると、
「周祥は1780年11月10日、13歳のとき元服し、1784年17歳にて築登えに叙せられ、1800年33歳のおり、御蔵筆者となった。安里家は花火師(ひはなじ)安里と呼ばれ、周当、周英、周頭の三代まで、花火師であった。(中略)彼の製作した飛行体は、タコに似た羽ばたきで、高台より飛び、命綱は妻がにぎっていた。飛行地は一説では、越来東方のチカサンムイという、泡瀬を見下す台地というが、安里家は五代目になってから越来に移ってきているので、実際の飛行地は南風原(はえばる)津嘉山からであろう。周祥は1825年、59歳で死去した。」となっています(南風原町役場HPによると、生年は1765年、没年は1823年)。
現在では、南風原町には「飛び安里初飛翔顕彰碑」とモニュメントが立てられているそうです(初飛行は、1780年と1768年との両説がある)。