一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「けがれ」考

2006-03-02 02:03:55 | Opinion
今日の観念だと、「けがれ」は「汚(よご)れ」と同様な意味に捉えられているようだ(「汚(よご)れ仕事」とは、非衛生的な仕事を指すわけではない)。

「死」の「けがれ」が、その代表的なもの。
「死」を「けがれ」(穢れ、汚(けが)れ=不浄)であるとする観念は、いまだに残っていて、葬儀から帰ってきた人へは、「清め」(=清浄化)の塩を振ったりする。

しかし、「けがれ」=「穢れ、汚れ」(=「不浄」)という観念、平安仏教が入ってきて以来のもののようだ。
民俗学の知見によれば、それ以前から、「死」に対する「けがれ」の観念はあったが、そこには「浄/不浄」観はなかったようなのだ。

「けがれ」とは、語源的には、「ケ(気)」が「枯れる」。
「ケ」とは「稲を成長させたり実らせたりする根源的な霊力」のこと、そのような霊力(エネルギー)が枯れ(衰え)た状態を、「けがれ」と呼んだ。その衰えたエネルギーを充填するのが、ハレの儀式(「ハレ行事」)なのである。

「死」が「けがれ」であるのは、日常生活を機能させる霊力が衰えたという意味なのである。
その霊力が衰えた状態は、個人に留まることなく、共同体へも波及する。
「ケガレが伝染すると考えられていた」(網野善彦『日本の歴史をよみなおす』)
からである。

基本的な「けがれ」には、死穢(しえ)のほかに、お産に伴う産穢(さんえ)があったようだが、これも、お産が、人間と自然との間にある、エネルギーのバランスが崩れた状態であると観念されていたから。

このような基底にある「けがれ」観に、「浄/不浄」という要素を持ち込んだのが、平安仏教(原型はヒンドゥー教の観念)である。
ヒンドゥー教の観念では、元々血液や屍体などは不浄なものとし、神々はそれを嫌うとした。

しかし、古事記・日本書紀には、そのような不浄観念は描かれてはいない(しいて「不浄」とされているものを挙げるなら、「糞」であろうか。しかし「糞」にも邪気をはらう力があるとも見ていたことは、「くしゃみ」の語源から分る。「糞喰(は)め」→「くさめ」→「くしゃみ」)。

「けがれ」=「汚れ」「穢れ」ではなく、民俗学の知見のように、「ケ(気)が枯れる」状態を「けがれ」と捉えるのが、この列島での古くからの観念のようである。

参考資料 桜井徳太郎「結衆の原点」(『思想の冒険―社会と変化の新しいパラダイム』所収)

鶴見和子・市井三郎編
『思想の冒険―社会と変化の新しいパラダイム』
筑摩書房
定価:1,900円)
1974年初版発行