一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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今日のことば(108) ― 池上嘉彦

2006-03-15 08:49:15 | Quotation
「新しいことば遣いも、ある表現があることを意味している(あるいは、意味しているように解せる)という限りは、やはり〈記号〉であることに変わりはない。しかし、それは、すでに定まった内容を慣習に従って何かが表しているというような〈符号〉ではない。むしろ、新しい〈記号〉が生み出され、その〈記号〉によって捉えられた新しい内容がわれわれの世界に新たな知見として加えられる。それは一つの創造的な営み――神学的な意味とは別の意味での〈言語創造〉の営みである。」
(『記号論への招待』)

池上嘉彦(いけがみ・よしひこ、1934 - )
言語学者、英語学者。昭和女子大学大学院教授・東京大学名誉教授。京都市生まれ。1961(昭和36)年東京大学大学院博士課程修了。主な著書に『ことばの詩学』『意味論』『意味の世界』『詩学と文化記号論』『「する」と「なる」の言語学』『英詩の文法」などのほか、エーコ『記号論』ウォーフ『言語、思考、現実』などの訳書がある。

「もの」が生まれるから「ことば」が生まれるのか、それとも、「ことば」が生まれたから「もの」が生じるのか?
ことが具体的事物の場合においても、「ことば」が生まれたがために、「もの」の外縁が決まってくる。名づける前には、アモルフな「もの」も、名前が生じてカッキリと輪郭を生む。

「劇画」なる語が生まれる前は、「漫画」はあっても「劇画」は存在しなかった。
「空飛ぶ円盤」ということばが普及する以前、人びとは空中に円盤状の物体を見ることはなかった("Flying Saucer"という「ことば」も、目撃者はその飛び方を示しただけで、形状を指したものではない)。

つまりは、「ことば」が人間の思考(場合によっては視覚すら)を規定するのである。

具体的な事物の場合でもそうなのだから、話が抽象的なレベルになれば、一層その傾向は強まる。
過去の人は、「名前」(=「もの」に付けられた「ことば」)が、「内容」(=「ことば」によって示された「もの」の意味)と一致しないことを、「名分の乱れ」と称した。
ごく大まかに言ってしまえば、「名」が「体」を表していないものを、「名分の乱れ」とする。そこには、人間の思考が「ことば」によって間違った規定をされてしまうことへの慮りや虞れがある(「敗戦」を「終戦」、「占領軍」を「進駐軍」としたのは、明らかに事態の本質にそぐわない「名分の乱れ」であろう。今、仮に「占領軍」を「解放軍」と呼び替えてみれば、その本質を誤らせること大なことが良く分る)。

しかし、現代では「名分の乱れ」は日常茶飯事、ほとんどの広告は大なり小なりそうだと考えられる。
しかし、意識的に「名分の乱れ」を操作するものとしての、
 1. 「ネーム・コーリング」:攻撃したい対象に負のイメージを植えつけるようなレッテルを貼る。
 2. 「カード・スタッキング」:都合のよい事柄を強調し、都合の悪い事柄を隠蔽する。
 3.「バンド・ワゴン」:大きな楽隊が人目をひくように、ある事柄が世の趨勢であるかのように喧伝する。
などの、プロパガンダの手法は、いかがなものであろうか。

少なくとも論争において、プロパガンダはルール違反だとするのは、小生の考えが「保守的」なのであろうか。

参考資料 池上嘉彦『記号論への招待』(岩波書店)