一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

最近の拾い読みから(7) ― 『算学奇人伝』

2006-06-30 10:04:43 | Book Review
「算学」とは、中国の数学を基礎に、日本で生まれた数学、いわゆる「和算」のことをいう。
本書は、その「算学」を謎解きのキーにした、珍しいミステリー小説。
市井の算学者・吉井長七の評伝、という性格も持っているため、開高健賞の選考委員が実在の人物と思い込んだというオマケ付き。

謎解きそのものは、そう大したものではなく、高校数学程度の知識があれば、すぐにでもポイントが分ってしまう。
しかし、著者の言うように、
「和算に関してだけは、数学分野の専門家は別として、小説としてはほとんど手をつけられていない」
のである。

第1は、確率による算学での博打勝負。
この辺りは、劇画にある「麻雀対決」や「料理対決」のノリ。
確率の知識を使い、庶民から博打で金をむしり取っている悪の算学者を、主人公が、より優れた知識を使い、逆に懲らしめてしまうという内容。

第2は、ピタゴラスの定理を使って埋められた大金を、千住宿に探すというもの。
海軍伝習所で日本人を教えていたオランダ人が証言しているように、算学は幾何の問題を図形としてではなく、数値計算で解く傾向がある。
そのことを著者は、理解しているようだ。

以上のような内容を、宿場町千住の四季折々の中に描いた、ユニークな作品である。

ただし、前にも書いたように(→こちら)、この著者、ことばの時代性には無関心なようで、若い下男が、
「やったー!」
などというのは、鼻白む思いがする。

永井 義男
『算学奇人伝』
TBSブリタニカ
定価:本体1200円(税抜)
ISBN4484972034

最近の拾い読みから(6) ―『いつの日か還る―新選組伍長島田魁伝』

2006-06-29 08:39:48 | Book Review
1900(明治33)年まで生きた新撰組隊士・島田魁(かい/さきがけ)の生涯を描いた伝記小説(おそらく、一番長く生きたのは永倉新八で、大正4年没)。

小説に描かれたことを事実として受け止めることに問題は多々あるのだが、島田の場合は『島田魁日記』などの資料を残しているため、小説も、これを踏まえざるをえない。したがって、細かな描写や私生活の様子にフィクションはあったとしても、基本線で事実を無視するわけにはいかない(もっとも、司馬遼太郎『燃えよ剣』では、島田は屯所のあった不動堂村で死ぬことになっている)。

『燃えよ剣』が出てきたところで言えば、司馬作品は、(1)新撰組の内部(主流派)に視点を置いている、(2)「漢(おとこ)」としての土方を描くために、新撰組の暗黒面には極力触れないでいる、といった特徴がある。

これに対して中村の作品は、島田を主人公、永倉を副主人公としたため、新撰組でも「傍流派」から見た、批判的視点が出てきている。

例えば、「池田屋事件」の端緒となった枡屋喜衛門への拷問に関して、永倉に次のような台詞を吐かせている。
「武士がその武士を責めるのに、あんなすすどい手口まで使うとは見たことも聞いたこともねえ。武州多摩郡の者は人気(じんき)が荒いと聞いちゃいたが、なんだかおれはげんなりしちまって、途中で部屋へ引きあげてしまった。」

高台寺党との「油小路の戦い」関する島田の感想は、こうだ。
(おのれの足を喰らう蛸のように元同志たちと斬り合いばかりしていては、われらもいつか伊東らと同じ運命をたどりかねぬぞ。)

とは言え、明治維新後の島田も永倉も、新撰組の人びとに対して悼む気持ちに変わりはない。
永倉は、多摩の高幡不動に「殉節両雄の碑」を建立するのに力を貸しているし、板橋宿に近藤・土方の記念碑を立てている。
また、島田は、新撰組の紙碑とでも言うべき『島田魁日記』を残している。

最後になるが、明治以降の島田らしいエピソードを、この書から引いておく。
1880(明治13)年のある日、時の海軍卿榎本武揚が、島田に一度会いたいとの使者を寄越した。
島田は、
「会いたくば、先方から出向いてくるのが礼儀というもの。おれが出かける必要が、どこにあるのだ」
と言って、ニベもなく断わったという。
しかし、以下の島田の内心独白は、おそらく作者のフィクションであろう。
「おれがさような途(みち)を選んだならば(明治政府に使えたなら)、若くして賊徒の汚名のもとに死に、地下に眠っている友人たちはどうするのだ。死すべきところを生きながらえただけでも相済まぬことなのに、おれが、この島田魁がかつての敵になど仕えられるか!」

中村 彰彦
『いつの日か還る―新選組伍長島田魁伝』
文春文庫
定価:本体840円(税込)
ISBN4167567083

最近の拾い読みから(5) ―『松本清張と昭和史』

2006-06-28 11:14:09 | Book Review
世に「清張史観」なることばがあるそうです。
現在では「司馬史観」が取りざたされますが、それよりちょっと以前には、この「清張史観」があれこれと言われていたとのこと。

「清張史観」への批判として代表的なものは、大岡昇平の次のような言説。
「松本の推理小説と実話物は、必ずしも資本主義の暗黒面の真実を描くことを目的としてはいない。それは小説家という特権的地位から真実の可能性を摘発するだけである。無責任に摘発された『真相』は、松本自身の感情によって否められている。(中略)
松本にこのようなロマンチックな推理をさせたものは、米国の謀略団の存在である。つまり彼の推理はデータに基づいて妥当な判断を下すというよりは、予め日本の黒い霧について意見があり、それに基づいて事実を組み合わせるという風に働いている。」(大岡「常識的文学論」。本書より再引用)
一言で表せば、「謀略史観」だというものです。

今でも佐藤一『松本清張の陰謀』(草思社)など、このような批判は多いようですが、著者の見解では、
「謀略史観に凝り固まった歴史観は、何が起きても特殊な謀略によって歴史を理解しようとする。(中略)こういった史観というのは一読すると面白いのだが、歴史そのものの客観性、あるいは史実の重みからしだいにかけ離れていき、特定の現象を歪んだ見方で染めてしまうことにもなる。
私はこうした歴史観は病的な側面を備えていると思う。これらの謀略史観と、松本がいう謀略との区別はどこかといえば、客観的に資料を集めているか、集めた資料がたとえ自分の史観に背くものであっても、それを紹介しているかといった尺度を持つことで見抜けるはずだ。松本はそういった謀略史観とは一線を画していると断じていいであろう。」
となる。

それでは、『日本の黒い霧』や『昭和史発掘』に欠点はない、とは言い切れない。
大きな原因は、資料そのものの時代的制約にあります。
端的な例は「謀略朝鮮戦争」。
近年の旧ソ連、中国の資料公開や証言により、現在では北朝鮮側がスターリン、毛沢東の同意を得た上で、南に「侵攻」したものと見る説が有力である。
しかし、昭和30年代の書き物としては、そこまでの資料は得られなかったため、松本も「米軍の謀略に基づく、南朝鮮軍による北へ侵攻」との誤りを犯していることは明らかです。

「しかし」と著者は言います。
「単に松本の見方をこの時代の狭い領域に閉じ込めて批判する限りでは傍観者的なエゴイズムでしかない。そのような批判を何度繰り返したところで、結果的に清張史観を越えるものは生み出せないであろう。」
これが、いわば著者の結論といってもいいでしょう。

*ちなみに、文庫版『日本の黒い霧』『昭和史発掘』に関する小生の書評は、以下のページにありますので、こちらもどうぞ。

 『日本の黒い霧』→ こちら
 『昭和史発掘』第2巻→ こちら
    〃   第3巻→ こちら
    〃   第4巻→ こちら
    〃   第5巻→ こちら
    〃   第6巻→ こちら

保阪正康
『松本清張と昭和史』
平凡社新書
定価:本体756円(税込)
ISBN458285320X

『世界がわかる宗教社会学入門』を読む。

2006-06-27 10:01:41 | Book Review
「宗教とはなにか」
という誰でもが、一度は考えたことがあるだろう疑問へ、「社会学」という視点からアプローチした書(とりあえず、「社会学は、社会現象を科学的に解明する学問です」としておく)。

そこから、それでは「宗教」とはなにか、という本題に入っていくわけだが、
一般的/抽象的な「宗教」という概念を形づくる前に、個々の具体的な宗教を知っておく必要があります。
「それぞれの宗教は、発想が違う。ロジックがまるで異なる。そこを理解できれば、目的は達したようなものである。とは言え、基本的な知識(人の名前や出来事や基本概念)を知らなければ、宗教を理解したことにはならない」
ということで、本書では、ユダヤ教、キリスト教(カトリックとプロテスタント)、イスラム教、仏教(初期仏教、大乗仏教、中国と日本の仏教)、儒教、尊王攘夷と分けて記述されています。

最後の「尊王攘夷」が宗教か、という疑問が出てきますが、これは「近代天皇制」(特に「天皇教」ともいえる「国家神道」)につながってくる思想だからです。
この辺りに、「神道」という項目をあえて立てなかった著者の意図があるようです。

さて、著者の基本的な考え方に戻ると、
「日本人にとって、宗教は知的な活動ではないから、病気や災難にあって困っているひとの気休めか、人をだます迷信ということになる。だから、外国で、人びとが熱心に宗教を信じていることが理解できなくなる。そこで、宗教とはなんだろう?という疑問を、もつようになる。
そういう素朴な疑問は、そろそろ卒業にしよう。
そして、それぞれの宗教について、具体的な知識をもとう。それぞれの宗教を信じる人びとに対して、敬意をもとう。そのうえで、宗教を知性と結びつけて、理解しよう。」
ということになります。

特に、最後の「宗教を知性と結びつけて」という部分が大事な点ではないかと思われます。

小生、個人的に「宗教は究極の説明原理」だと思っております。
生や死といったことは、現象としては科学で説明はつけられても、なぜ、その人間が死に、この人間が生きているか、ということの理由は分りますまい(生/死の不条理さ)。
また、何のために人は生きているのか、ということの説明も、そうたやすくできることでないでしょうし、それは科学の分野ではなく、文学や哲学などのジャンルの問題となる。
そういったことを説明する原理として、人間の知性が生んだものが、宗教なのでありましょう(したがって、文学や哲学と同根)。

ですから、社会構造にも深く関係してくるのです(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』!)。

本書は、「情操」ではなく、「知性」という観点から宗教を捉えようとする試みの一つであります。

橋爪大三郎
『世界がわかる宗教社会学入門』
ちくま文庫
定価:本体819円(税込)
ISBN4480422277

最近の拾い読みから(4) ―『御前会議――昭和天皇15回の聖断』

2006-06-26 10:45:27 | Book Review
沖縄戦の終結は、1945(昭和20)年の6月23日。
つい先日61年目を迎え、「沖縄全戦没者追悼式」が開かれた。

この日から8月15日の敗戦までの間、アジア・太平洋戦争の終盤期の数か月があったわけだ。

昭和天皇が戦争終結(和平交渉)を考慮し始めたのも、ちょうどこの頃であるようだ。
「天皇が和平について真剣に考えるようになったのは、『木戸幸一日記』によれば、5月25日夜の空襲で皇居を焼かれ、沖縄戦の情勢もほぼ絶望的となった6月9日のことであった。この日はじめて『御文庫にて拝謁、対策につき種々言上、思召(おぼしめし)を拝す』と和平問題にふれた記事が登場している。」(大江志乃夫『御前会議』)
*半藤一利『昭和史』では、6月15日の昭和天皇の「御不例」(体調不良による静養)で、敗戦止むなしの決意を天皇が行なったとの推察をしている。

しかし、昭和天皇の念頭にあった、もっとも重大なことは、三種の神器をどうするか、であった。
「7月31日、天皇は木戸に、『先日、内大臣の話[し]た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思い、種々考えて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思う。(中略)万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思う』と告げた。
(中略)
『昭和天皇独白録』には、『敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の圧制下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない。これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った』とある。」(大江、前掲書)

しかし、無条件降伏のポツダム宣言を受諾する決断につながったのは、広島被曝でも長崎被曝でもなく、ソ連の参戦であった(それまで、ソ連を通じて連合国との和平交渉が可能であると、政府・軍部の首脳たちは考えていた)。
「『ソ聯が我国に対し宣戦し、本日より交戦状態に入れり、就ては戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思う故、首相と充分懇談する様にとの仰せあり』と、天皇はソ連の参戦ではじめて即時和平に踏みきる決心がついた。」(大江、前掲書)
のである。

昭和天皇のこの和平決断を重視するあまり、戦争中も「平和主義者」であったとすることは、歴史を見誤ることとなるだろう(占領統治をしやすくするために、天皇を平和の象徴としたのは、アメリカの政策の一環だった可能性が強い→こちら)。

大江志乃夫
『御前会議――昭和天皇15回の聖断』
中公新書
定価:本体640円(税込)
ISBN4121010086

最近の拾い読みから(3) ― 『日米関係のなかの文学』

2006-06-25 11:44:12 | Book Review
日本文学および米国文学に、どのように日米関係が影を投げかけているかを考察したのが、佐伯彰一 著『日米関係のなかの文学』である。
「太平洋をはさんだ二つの国の、歴史的、文化的、政治的な相互関係のなかに据え直してみるとき、日本文学、またアメリカ文学について、新しく見えてくるものとは、果して何であるのか」
を探ろうというのが著者のねらい。

となると、どうしても「太平洋戦争」という世界史的なできごとが、もっとも中心となるのだが、ここでは、あえてそれを外して読んでみる。

まずは、メルヴィルの『白鯨』。
著者の〈『白鯨』体験〉(日米開戦当時、阿部知二訳の『白鯨』を読んでいた。そして、それは阿部の小説の愛読者であったから、というところから話が始まるのだが)を語り、D. H. ロレンスの『古典アメリカ文学研究』に話題を及ぼす。
「近代文学の中で、二つのものが真の極点に達した。それは決してフランスの新文学や、未来派や、アイルランドの文学ではない。ロシアとアメリカ、但し古きアメリカである。トルストイ、ドストエフスキーたちのロシアと、ホーソン、メルヴィル、ホイットマンたちのアメリカだ。近代のヨーロッパ人が求めてゐた極度の意識の急迫に、古いアメリカ人は正に達した。『故に世界は彼等を怖れた。今も怖れてゐる』」
と阿部も、ロレンスを引いている。

とはいえ、ここで、小生が興味を持つのは、文学上のメルヴィルおよび『白鯨』の評価ではない。

次のような一節がある。
「まだ二十代始めのメルヴィルが、捕鯨船の乗組員として、日本近海にやって来たのは、1842年(天保13年)の話だが、じつの所、これはかくべつ例外的な事件とはいえなし。むしろ当時のアメリカの捕鯨船として、おきまりのコースともいうべきで、この頃日本近海に出漁する捕鯨船の数は、年間約六、七百隻にも上っていた。(中略)はるばる太平洋を横切り、いや当時はもちろんパナマ運河以前だから、南米のホーン岬を廻った上で日本近海にやって来る捕鯨船の大群のために、手ごろな補給基地を確保したいというのは、自然な要求にすぎない。いや、アメリカ政府にとっては、国家産業保護のための、緊急な政治的課題であったろう。ペリー提督指揮下のアメリカ艦隊が、江戸湾に姿を現わしたのが、1853年6月、メルヴィルの『白鯨』刊行の翌々年のことである。」

小生が瞥見するかぎりで、捕鯨船の視点から、ペリー来航を捉えたものは、ごく少数に過ぎない。

この他にも、『日米関係のなかの文学』には、なかなか新鮮な視角からの考察が含まれているのだが、本日は、この辺で。

佐伯彰一
『日米関係のなかの文学』
文藝春秋
定価:本体1,575円(税込)
ISBN4163393706

時代小説の用語について

2006-06-24 12:12:01 | Book Review
さる時代小説を読んでいたら、次のような一節に出っ食わした。
江戸時代の農民の台詞としてお読みいただきたい。
「どういう文字がどれだけ使用されているかを調べたものです。使われている文字の種類をすべて拾い出し、またその使用頻度を示しました。」
いかがだろうか。
妙に引っかからないだろうか。

小生、最初に「使用頻度」なる用語に抵抗を覚えた。
このことばの初出は分らないが、いずれにしても明治以降、しかも学術用語だろう。そうなってくると、「使用されている」という表現にも抵抗を覚える。

以下、煩雑になるので、用語のみを示す(もちろん、いずれも「地の文」ではなく、「会話文」中に出てくる)。
「暗号」「系統」「整理」「使用度数」「最多頻度」「前提」「推理」「推定」「熟語」「解読」「逆効果」「実用性」「検証」「類推」

いかがだろうか。
ちなみに、この農民は「謎解き」が得意なので、主人公の八州取締が、彼に水戸藩の暗号を解かせる、という設定になっている。
したがって、暗号解読に関する説明が必要になるのだが、それを農民自身にさせる、としたことに用語の無理が生じている(この農民の一人称は「おら」だから、余計、テクニカル・タームに異質感がしてしまう)。

さる時代小説家は、このような自体を避けるために、その時代に使われていたかどうか、あやしいと思われる用語は、『国語大辞典』の初出を確認するとエッセイに書いていたくらいだ。

もちろん、シュールな感覚を読者に与えるために、わざと現代の用語(しかも外来語)を江戸時代人にしゃべらせる、という高等テクニックがないわけではない。それは、いわば「確信犯」。

しかし、「使用頻度」なる用語を使った小説家は、そのような「確信犯」ではなさそうだ。
不注意? それにしても、編集者や校閲者は異様に感じなかったのであろうか。

ということで、著者名・作品名をここに晒すこととする。
著者および担当編集者の目に触れることを期待したい。

 著者:永井義男
 書名:幕末暗号戦争
 出版社:幻冬舎

最近の拾い読みから(2) ― 『修復的司法とは何か―応報から関係修復へ』

2006-06-23 12:19:05 | Book Review
「修復的司法」ということばがあるそうです。
定義付けは、小生が語るより、そのまま引いた方がいいでしょう。
「被害者と加害者の直接対話などを通じて、両者の関係の『修復』を図る。近代刑事司法の限界や問題点を乗り越えるための試み」
なんだそうで、これは、従来の「犯罪観」「司法観」とは、異なったものから生まれた考え方のようです。

つまりは、
「刑事司法では、犯罪を国家が定めた法規範への侵害とみなし、国家を代表する検察官と被告人が裁判で対決する。」
と考えられていた(「応報的司法」)のに対して、
「犯罪を国家対個人でなく、加害者、被害者、地域社会の3者の関係でとらえ、3者が癒されることを目指すのが修復的司法だ」
ということです。

犯罪が、常に「国家秩序」への侵害とするなら、その運用次第によっては、「権力者」の恣意によって、どうにでもなってしまう虞れなきにしもあらず(そのための「縛り」が必要なのは、最近の「共謀罪」制定にも見られるとおり)。

また、「応報」が拡大する可能性もある(このメカニズムに関しては、別途考察したい。ただ、「応報的司法」ということばからも分るように、従来の考え方によれば、「処罰や抑止のために苦痛を与えること」を重視してきたことだけは考慮に入れておきたい)。

ましてや、いまだに「法は権に勝たず」という「非理法権天」意識が残っている現状においてをや(そう言えば「超法規的措置」なる政治的判断による行為がなされたこともありました)。

これに対して、「修復的司法」の考えには汲むべきものがある。
なぜなら、基本的に、
「犯罪を『規則への違反』ではなく、『人々や人間関係への侵害』とみなす」
から。
このことによって、客観的な基準の得にくい「倫理」の世界から、より客観性のある「社会科学」の世界に、法の分野とされてきたものを持ち出せるように思えます。

さて、このような「修復的司法」の考え方によって、「殺人」という犯罪行為をどう考えればいいでしょうか。

小生、まだ考えがまとまっていないので、このことに関しては、ちょっと考えさせていただきたい。
いずれにしても、「生者の傲慢」ということばが頭の中に点滅していることだけは言っておきましょう。

参考資料 ハワード・ゼア著、西村春夫/高橋則夫/細井洋子訳『修復的司法とは何か―応報から関係修復へ』(新泉社)

最近の拾い読みから(1) ― 『歴史探偵かんじん帳』

2006-06-22 08:13:31 | Book Review
「『日本語には、外国語に直訳できない言葉がむやみに多いんだな。“いっそ小田急で逃げましょか”の〈いっそ〉、“どうせ二人はこの世では花の咲かない枯れすすき”の〈どうせ〉、それから、せめて、という言葉。“カチューシャ可愛や別れのつらさ、せめて淡雪とけぬ間に”の〈せめて〉。これらをどんなに苦心して説明してみても、外国人に論理的にわからせるのは困難なことでね』
教授はこのあとそれこそ綿々と、これら言葉の底にある日本人の心理や心情や論理の流れを説明したくれたが、残念ながら略。非常に印象深く残ったところだけを書くことにとどめると、
『人はたえず挫折と妥協と忍耐の日常をすごしている。〈どうせ〉とか〈いっそ〉とか、覚悟しつつもなかなかいっぺんに思いきれない。そこに、〈せめて〉の心情が大きく浮かびでるというわけさ』
これには心から同感した。せめて一言、せめて一目でも、せめて子供にだけは、せめて二人でいるときは、エトセトラ。なんとわれらのまわりには多くの〈せめて〉があることか。」(半藤一利『歴史探偵かんじん帳』)

歴史探偵の半藤氏は、この〈いっそ〉と〈どうせ〉と〈せめて〉の論理が、終戦時にもはたらいたと指摘する。
連合国の、ポツダム宣言という無条件降伏の要求に対して、
「しかし、〈どうせ〉降伏しなければならないのなら無条件ではなく、〈せめて〉国体の護持という条件だけはつけようではないか」
というのであった。
この日本側の論理が通用しなかったのは、ご承知のとおり。

さて、現今の情勢を見ると……。

日銀の福井総裁である。
〈どうせ〉「報酬月額の3割を半年間返上する」のだから、〈せめて〉「職務を全う」(地位をそのままに)させてほしい、との論理。
自己責任を放棄する論理の立て方は、敗戦時とちっとも変わっていないように思えるのは、小生の僻目か。

半藤一利
『歴史探偵かんじん帳』
毎日新聞社
定価:本体1,325円(税込)
ISBN462031112X

さまざまな「黒船」感覚 その3

2006-06-21 10:13:23 | Essay
「黒船来航」時の老中首座・阿部正弘(1819 - 57)
(二世五姓田芳柳筆)

為政者はどうかと見ると、前に〈『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』を読む。〉で触れたように、オランダを通じて「黒船来航」が予告されていたこともあり、老中筆頭阿部正弘は、
「自分と意見を同じくする外様大名を江戸に留め置くことにした。久留米藩主有馬慶頼(よしより)、黒田(福岡藩主黒田斉溥(なりひろ))、伊達(宇和島藩主伊達宗城(むねなり))などがその対象であった。(中略)来るべき日に備えて少しでも仲間、というよりは動員できる人員(兵力)を増やしておきたかったのではないかと考えられる。しかし、予告された三月、四月になっても、合衆国艦隊は姿を現わさなかった。」(岩下哲典 『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』)

おそらく、阿部の腹は「黒船来航」を政治的にどのように処理するかで頭が一杯、「危機感」や「好奇心」とは全く別の次元で考えていたことだろう。
というのは、オランダ情報では、アメリカ側は日本に国交ないし通商を求めてくる、というものだったから、その要求を認めるかどうかが、最大の決断であったから(「鎖国」は祖法とされていた)。

もちろん、武力をもって打払うというのは、問題外である。
阿部は、自己責任で国交を認めるか、拒否するかを決断しなければならなかったのである。

であるから、一度国交を認めるとなった時には、かなり余裕ある態度を取ることができた。
「米使あるいは威嚇に類するの所為なきにあるずといえども、もとより本意にあらず、ただ開戦をもって最後の手段としたるがごとき気勢を示したることあるのみ。しかしてわが沿海地方においても、今回(1854年)は前年に比すればやや平穏にして衆人の動揺はなはだしからざりき、けだし政府の処置平和を旨とすること世に知られたるをもってなり」(『阿部正弘事績』)

というのが、再度来日したペリー艦隊への対応である。