ここで、改めて「黒船」ショックの内実を考えてみよう。
つまりは「黒船」のどこが脅威と感じられたのであるか、ということを検証してみよう、というのである。
まずは、事実から。
1853(嘉永6)年7月8日(旧暦6月3日)、浦賀沖に姿を見せたのは、次の4隻である。
〈サスケハナ〉Susquehanna
外輪式蒸気フリゲート、2,450トン
8インチ砲×3門、32ポンド砲×6門
〈ミシシッピ〉Mississippi
外輪式蒸気フリゲート、1,692トン
10インチ砲×2門、8インチ砲×8門
〈プリマス〉Plymouth
帆走コルベット、989トン
8インチ砲×4門、32ポンド砲×18門
〈サラトガ〉Saratoga
帆走コルベット、882トン
8インチ砲×4門、32ポンド砲×18門
まず確認しておかなければならないは、蒸気船は2隻、2隻は帆船であること。
ややもすると、「大平の眠りを覚ます上喜選たった四杯で夜も眠れず」との狂歌から、4隻とも蒸気船だったと思われ勝ちであるが、実際には艦隊の半数2隻であった。
ただ、航行の自由度を高めるためか、それとも軍事的アピールのためか、それぞれの帆船は、ロープで蒸気船に引かれていたようであるから、4隻ともが蒸気船だと見誤ったとしても不思議はないのだが。
第2に確認すべきなのは、各艦ともタール塗装で船体が黒かったこと(「黒船」と呼ばれた由縁であるが、この語自体は、それ以前の安土・桃山時代からあり、ポルトガル船やスペイン船を指していた)。
このことは、4隻とも木造船であることを示している。
タール塗装は、木造船体の腐食(海水によるもの、フナムシなどの動物によるものなど)を防ぐためのものである。
よく、黒色から鉄製の船体だと思われているが、これは誤り。黒色は鉄の色ではなく、タール塗装の色(同様の誤りが、信長の「鉄甲船」に関してもあるようだ)。
以上の事実を踏まえた上で、はたして「黒船」ショックとは何だったのか?