一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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ナショナリズムの応用問題 その18

2006-03-18 08:47:09 | Opinion
水戸藩建造の洋式軍艦「旭日丸」

前述したように、このような後期水戸学に影響を受け(「余深く水府の学に服す」)、それを超克して革命論に仕立て上げ直したのは、吉田松陰である。
けれども、松陰の後期水戸学批判の中に、1つ大きな誤りがあった。

それは、後期水戸学の欠陥を、
「会沢(正志斎)の塩谷(宕陰)のと云ふて新論の壽海私議のと云ふは高名なる著述なれども、其の当今下手守備の策は艦と砲とのみ、さあ大船官許ありたりと云ふ時、此の二人へ就いて軍艦は如何して作るものかと問うても其の作り方を知らず」(安政元年12月24日「兄杉梅太郎宛書簡」)
つまり「実際上の技術を知らない」と指摘していることである。

もちろん会沢正志斎自身は技術は知らなかったであろうが、その面において、水戸藩は造船、製鉄・大砲製造に関して後手に回っていたわけではない。
ややもすると、「攘夷論」の先駆けであるため、海外の技術導入に関しては拒絶していたように思われ勝ちである。けれども、世界的に見て原理主義は「近代に反発しつつも、近代を吸収し、その思想や技術を、局面によっては積極的に利用するのである」(小川忠『原理主義とは何か』)。

水戸藩の反射炉は、佐賀・鹿児島・韮山に続き、日本で四番目に火入れを行なっている(安政3(1856)年2月)。
「おそらく(徳川)斉昭は自分の主張している攘夷論を、まず自分の藩から率先して手本を示そうという気持ちが強かったのだろう。藩内の事情(財政逼迫や百姓一揆の多発)よりも、斉昭一人の立場が先行していたのでは、藩の役人たちの、この事業に対する力の入れ方にも熱が入らない。」(金子功『反射炉』)

斉昭自身の洋学に対する考え方は、以下のとおりである。
「洋学は今日大小砲之事をはじめ天文地理総て究極之事学中には用に足候義もこれあり申さば末事にて候。其人頗る薄情強欲無礼義は禽獣のごとく候。然らば国学にて、人心を定め、漢学にて道義を助け、洋学にて天文地理を明め航砲等の器械を造って我御国を守衛する助と致候事と存候。」(『水戸藩史料上巻』。大橋周治『幕末明治製鉄論』より)

このような洋学軽視も与って、技術者に不足していたのは確かなことである。その点では、松陰の批判も満更間違っていたとばかりは言えないのかもしれない(しかし、薩摩藩はともかく、長州藩は自力での大砲製造は行なわなかった)。
「必要な学者・技術者は、他の先進藩から人材を借りてこなければならない。藩外からの借物の人材だけでつくった反射炉というのは、水戸藩以外には例を見ない。」(金子、前掲書)

大砲製造に比べ、洋式軍艦建造は成功を収め、1854(安政1)年に起工、1856(安政3年)年5月に横浜で竣工して「旭日丸(あさひまる)」と命名され、輸送船として使用された。