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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

山県有朋の権力欲

2007-08-16 07:05:07 | Person
維新から明治時代にかけて、さまざまな人間が登場し歴史の上に足跡を残してきました。

その中で、名は知られてるのにも係らず、人気のない人物がいます。
ここで話題にする山県有朋なんかも、その代表例ではないでしょうか。ほぼ同じ時代に生き、同じ長州の下級武士の出身である伊藤博文と比較すると、それはより明らかになります。

それでは、なぜ人気がないのか、といえば、伊藤のような明るさに欠けているということや、基本的に軍人であること、政治上反動的であることなどが挙げられるでしょうが、それ以上に、権力欲が露に出ていることもあるんじゃないかしら。

ちなみに、山県の最後の官位、栄典、公職は、次のようなものです。
正二位、大勲位、功一級、公爵、元帥、陸軍大将、枢密院議長、軍事参議官、議定官、臨時帝室編修局顧問、貴族院議院……。

小生、このような権力欲がどこから生まれるのか、今一つ分らないのね。
そこで生活歴を見てみると、研究者によって挙げられているものに、上士に対する下級武士(山県の家は、仲間(ちゅうげん)という卒)のルサンティマンがあります。
「山県辰之助は十一歳のとき、阿武川の堤で士分の若侍と争い、かれを川のなかに投げこんだ。その訴えを聞いた士分の父が怒り、平身低頭する山県の父をおどしつけると、辰之助の身柄を拉致して堤に戻り、その子にさんざん辰之助を打たせた上で『下士のくせになんたる増長、思い知ったか』と川に投げこんだ。危く溺れそうになるところを祖母に救いあげられた辰之助は、いつまでも号泣していった。
『武士になりたい。武士にさえなれば……』」(半藤一利『山県有朋』)

けれども、それだけでは説明になったような、ならないようなハッキリしないものです。というのは、ルサンティマンを抱いていて、上昇志向がない人も少なからずいたからです(坂本龍馬なんかは、上昇志向があったのかしら)。
また、そのルサンティマンが、体制への反逆という形で出る人もいました。

もう一つ考えられるのが、山県の師ということになっている吉田松陰やその門人たちが、山県にもっていた評価への反発というものがあります。
「松下村塾時代、山県狂介(有朋)の前で、稔麿が塾生たちを題材に戯れ絵を描いたエピソードがある。鼻輪を通さない放れ牛が高杉晋作(なかなか乗りこなせない男)、坊主頭で裃を着ているのが久坂玄瑞(廟堂に坐らせて堂々たる政治家)、木刀が入江九一(素質はあるが、まだ本物ではない)、そして山県狂介は棒切れ(?)だったというもの。塾生たちの性格がよく解ると同時に、稔麿の鋭い観察眼が窺える。」(半藤、同上)

まあ、以上のようなものが定説のようになっているようですが、生育歴上の心理以外にも、何かありそうな気配がありますが、まだ確実には掴めていません(晩年は「老害」気味のある執念だが、それだけでは壮年期の権力欲の説明ができない)。
というのも、小生の周囲に権力欲の強い人物がいないからなのでしょうか(いれば観察ができ、類推もできるのでしょうが)。

半藤一利
『山県有朋』
PHP文庫
定価:610 円 (税込)
ISBN978-4569569215


*その他、入手しやすいものとしては、以下がある。
 岡義武『山県有朋―明治日本の象徴 』(岩波書店)
 藤村道生『山県有朋』(吉川弘文館)
 川田稔『原敬と山県有朋―国家構想をめぐる外交と内政』(中央公論社)
 松本清張『象徴の設計』(文藝春秋)

三河屋幸三郎について三たび

2007-07-23 04:42:08 | Person
以前に読んだ森まゆみ『彰義隊遺聞』に、三河屋幸三郎のことがありましたので、ご紹介しておきます(とりあえず、三河屋幸三郎のことは、これにて終了)。

基本的なことは、何回か書いたとおりですが、新しい事実としては東京日日新聞社会部編『戊辰物語』(万里閣書房、1928)には、幸三郎の職業を、「人足頭で侠客」としているそうですが、何か証言なり根拠なりがあったのでしょうか。
高村光雲や光太郎の書いたものだと、どう考えても「錺職の問屋」ないしは「美術品貿易商」としか解釈できないのですが。
なお、父親の名前は「與平」だそうですから、新字体では「与平」となります。

以下、少年時の経歴や戊辰戦争までのエピソードは、前述したとおり。

むしろ、新情報は、戊辰戦争以降のこととなります。
「明治維新後、道路拡張で神田筋違見付が破壊されるとき、三幸は『徳川氏の遺跡をを没却するものだ』と憤慨し、たまたま神田明神の祭礼で賑わっていたが、戸を閉じて何らの祝意を表しなかった。
遷都となって明治天皇が東京に向い、その祝いとして東京市民に政府より酒肴料を下付したことがあった。神田区あたりでも市民たちは狂喜乱舞したが、三幸一人は徳川氏の瓦解を嘆じ、家に忌中の札を貼って閉じ籠った。町内に空家があり、そこに集った町衆が花車を入れ、大騒ぎするのを聞くに忍びず、三幸は金をもってこの空家を買い取り、集った者たちを追い払ったという。」

こうなると「畸人」というに近くなる。
伴蒿蹊の『近世畸人伝』によれば、「畸人」とは、「一つは世人に比べて〈行ない〉が〈畸〉であるといわれ、中江藤樹や貝原益軒等の仁義忠孝の人」、そして、もう一つが「人としては「畸」であるが彼らの人間としての在り方は〈天〉に、あるいは〈自然〉にかなった生き方をした人たち」ということになります。
幸三郎の場合は、この二つを兼ねたような「畸」でありましょう。
ちなみに、森まゆみは、
「江戸っ子の気の変りやすさを三幸は苦々しく思い、明治の世に生き残った自分の孤独を感じたに違いない。」
と書いています。

また、幸三郎の場合、維新以前から「侠気」を持っていました。
「侠」とは、「自分の損になるを承知の上で、止むに止まれず行動すること」を指すようです。
「彰義隊が結成されると、三河屋はその忠義に感じて家産を傾けて応援した。」
こととか、
「大禅仏磨とともに(彰義隊士の)埋葬にしゃかりきになった」
ことなどが、これに当たるでしょう。

さて、「侠」と「畸」の人、三河屋幸三郎の子孫の方というのは、生きていらっしゃるのでしょうか。
血縁者の口碑に残る人物像を訊いてみたいものです。

長崎海軍伝習所 伝習生のこと

2007-07-17 00:09:17 | Person
前回、『海軍創設史―イギリス軍事顧問団の影』を元にして、長崎海軍伝習所伝習生第一期生の中に「太鼓打方」があり、そのメンバーには、関口鉄之助の他、関川伴次郎、近藤熊吉、村田小一郎がいる、と書きました。

けれども、藤井哲博『長崎海軍伝習所ー十九世紀東西文化の接点』(中公新書)によると、関口鉄之助は変りませんが、「太鼓打ち方」要員(ドラマー)は、金沢種米之助、福西甚平、吉村虎吉の計4名となっています(関川伴次郎、近藤熊吉、村田小一郎は「大砲方」要員(ガンナー)として名前が挙がっている)。

はたして、どちらが正しいのでしょうか。
近藤熊吉が、築地の軍艦教授所で「教授方手伝」になっていることから判断すれば、どうやら藤井書の方が正しいような気がするのですが、明確な根拠はありません。

また、堀内敬三の『音楽五十年史』も、講談社学術文庫版ではなく、鱒書房版のページそのものの復刻(「音楽教育史文献・資料叢書4」大空社版)に目を通すことができました。
ですから、前回までの本ブログの記述を改める必要があります。
正確に引用すると(カッコ内は神武紀元)、
「元治元年(二五二四)幕臣関口鉄之助・白石大八の両人が長崎に赴いて蘭人から伝習を受け半年の後江戸に戻り小石川西坂下、鉄砲方、田村四郎兵衛屋敷でこれを教授したと云ふのが最初の記録らしい。」
さて、間違い探しですが、まず「元治元年」(1864)は、上記、長崎伝習所関係の書籍から「安政2年」(1855)となります。
また、同様に「半年の後」も誤り。伝習所の伝習期間は、安政2年10月下旬から安政4年2月末ですから、「約16か月の後」となります。
なお、田村某の屋敷に関しては、『復元江戸情報地図』(朝日新聞社刊)では確認できませんでした。

このところ、訂正や補遺ばかりですが、今、この時代の軍楽を題材にしたものを書いている最中なので、お許しくださいまし。

藤井哲博
『長崎海軍伝習所ー十九世紀東西文化の接点』
中公新書
定価:各 693 円 (税込)
ISBN978-4121010247

関口鉄之助のこと

2007-07-16 01:00:05 | Person
迂闊なことですが、基本的な調べをするのを忘れていました。
というのは、長崎海軍伝習所の伝習生一覧を見ることです。

一覧は勝海舟の『海軍歴史』にありますが、その他の資料を使って総合的に示しているのが、篠原宏の『海軍創設史―イギリス軍事顧問団の影』(リブロポート刊)です。
この本によりますと、第一期生の中に「太鼓打方」として、確かに関口鉄之助の名前があります(その他、関川伴次郎、近藤熊吉、村田小一郎)。

したがって、堀内敬三の『音楽五十年史』の記述「1864(安政7/万延1)年……」は、明らかに誤りです。年代としては、もっと早く「安政2(1855)年~」とするのが正しい。ただし、白石大八の名は、伝習生の中にはないので、この人物が「1864(安政7/万延1)年」に、別のルートで学んだ可能性は、まだ残されています。

なお、関口は江戸に帰ってから、小石川西富坂町に塾を開いて、広く旗本や御家人の子弟に蘭式太鼓の手ほどきをしていたことは、前に本ブログ「〈軍楽〉による西欧音楽の導入」で触れた篠田鉱造の『幕末百話』にあるとおりです。
この証言が正しければ、既に関口塾では『ヤッパンマルス』が教えられていたようなので、安政3(1856)年作曲説は誤りで、安政2(1855)年作曲となる可能性も出てきます。

また、関口と同期の近藤熊吉が、安政4(1857)年、江戸築地に開設された軍艦教練所の「教授方手伝」となっていることは、前掲の『海軍創設史―イギリス軍事顧問団の影』にあります。

関口鉄之助について分ったことは以上のようなことで、どうやら軍楽初期の歴史的事実に関しては、まだ確実になっていないことが多いようですね。

三河屋幸三郎のこと―補遺と訂正

2007-07-14 00:28:08 | Person
目を通すことのできた山崎有信著『彰義隊戦史』(明治37年隆文堂刊)に、「三河屋幸三郎伝」なる記事がありましたので、以前に触れた本ブログ記事の補遺と訂正を。

いやあ、想像による経歴は、違っていることが多いものです。
手が掛かりになる資料が少ない中で、フィクショナルに人物像を描いていたのですが、ちょっと修正しなければいけませんね。

三河屋幸三郎の本名は、浅岡幸三郎。父親は浅岡興(與?)平。
家業は、「口入れ屋」ではなく、湯島天神女坂下に店を構える「金貸業」でした。
八丈島へ流罪になったのは、手代・久兵衛が武士へ貸金取り立ての強催促をしたことが、町奉行所の耳に入って、とのこと。
この手代が直接の責任を負って佐渡島へ流罪、興平へ家財没収の上、流罪ということです(享和1:1801年5月)。

母親は、八丈での「現地妻」(といっても、罪が下った当時、興平が妻帯していたかどうかは不明)。三根村の農・笹本八百吉の姉「ゆう」だそうです。

父興平が赦免になったのは、文政10 (1827) 年6月21日のこと。
これは想像と違っていましたが、この年、赦免になった理由は分りません。
文政6 (1823) 年4月8日に生まれた幸三郎と、その母は八丈島に残されます。

江戸に戻った興平は、富沢町の金貸業大黒屋又兵衛の手代(貸付金取立方)として働き、生活に目処の立った天保1 (1830) 年、幸三郎を江戸へ迎え取ります。
興平は、それなりの才覚があったようで、その頃には独立して本郷春木町で商売を行ない、天保5 (1834) 年には、浅草諏訪町の市原八郎右衛門より「一粒金丹」の商権を120両で買い取るほどにまでなっていました。

幸三郎は、当時の習慣どおり、前記大黒屋や神田台所町の糸商・辰巳屋嘉兵衛に奉公に出されますが、どこへもいつきませんでした。
この辺り、土方歳三の若い頃を連想させますね。

その内、幸三郎は小鳥の飼育や売買を行なうようになりますが、その取引相手だった鳥屋がまずかった。
というのは、その鳥屋は博打の仲宿だったため、博打に入れ込むようになったからです。

幸三郎の放蕩を見かねて意見してくれたのは、辰巳屋嘉兵衛(そうです、幸三郎のかつての奉公先ですね)の老母。
それを契機に、横浜で雑貨商になった(飾/錺職の問屋との説もあり)というわけです。

以後のエピソードは、前に触れたとおりですが、まだまだ前半生にも不明な点があります。
しかし、おそらくはこの『彰義隊戦史』に載っている資料以上には、あまり発掘されることはないでしょう。
ということで、一先ず、この補遺と訂正で区切りを付けておきます。

*なお、出典は明らかではありませんが、加来耕三『真説上野彰義隊―慶応四年の知られざる日々』(NGS刊)に次の記述があることを付け加えておきます。
「神田旅籠町に錺職問屋を商んでいたが、侠客として名高く、江戸府中に男を売っていた。
彰義隊が上野に屯集した折も、〈麻利子尊天〉の銘のある刀十二振をお気に入りの武人、木下福次郎以下八番隊へ寄贈したと伝えられる。上野戦争の際は縁の下の力持ちに徹して物資の供給や人集めに江戸っ子の意気地を見せ、戦争には直接参加しなかったものの敗戦後は、箕輪の円通寺住職(二十三世)仏磨和尚と計り、累々と横たわり放置されていた彰義隊戦士の屍を引き取り、ことごとくを埋葬するのに労を惜しまなかった。(この折の遺骸は二百六十六体)
明治に入っても彰義隊の生き残り西村賢八郎と交際を続けたり、ときに尊慕している榎本武揚を尋ねたという。死ぬまで丁髷を切らず、姓氏もしぶしぶ三河屋の屋をとり、三河幸三郎と称した。」

人物を読む(11)―三河屋幸三郎(1823 - 89)その5

2007-07-04 00:15:01 | Person
「松平鉄五郎、大舘昇一郎、石川春十郎、市川寅五郎、笹間金八、
三好源七郎、吉永徳太郎、戸井田源之丞、三宅與茂七、藍葉老之丞
大野吉之助、塩田又五郎、
蟹江錦之助、風間駒吉、藤野伊之助、新嶋楮之助、中村鋳三郎、
大谷栄治郎、栃堀休二郎、林一弥、金井弥一郎、福嶋鐘吉、
遠山鐘五郎、藤井銹三郎、
三宅八五郎、横田祐三郎、諏訪部信五郎、狩谷秀蔵、本山小太郎、
忠内次郎三、吉沢文五郎、古橋丁蔵、
金井米蔵、古屋作左衛門、永井堂之介、奥山八十八、春日左衛門、
大岡幸次郎、石井楳太郎、川島金治郎」
というのが、三ノ輪(荒川区)円通寺「上野戦士之墓」に刻まれた彰義隊士の名前です。
ここには40人の名しかありませんが、幸三郎が円通寺の住職仏麿和尚と共に荼毘に付したのは266体といわれていますので、二百数十人は、その名も定かではなかったのでしょう。
幸三郎が旧幕府軍に肩入れしていたことは、この碑に彰義隊士以外にも、「慶応戊辰之夏於野州日光山下戦没」「翌己巳之夏於奥州宮古及箱館戦没」した人々の名前があることからも分ります。
ちなみに、後者には、土方歳三、中島三郎助、伊庭八郎などの名前も見られます。

一方、美術貿易商として、神田旅籠町壱丁目拾番地に三幸商会を開いていた幸三郎は、多くの職人や美術家に記憶を残して、明治22(1889)に亡くなります。
その侠気からか人望もあり、葬儀には数千人の会葬者があったと言われています。

明治22(1889)年の幸三郎の死後も、三幸商会は存続していたようで、本項「その1」でご紹介した高村光雲の息子光太郎は、次のような回想を残しています。
「丁度憲法発布の頃だから明治廿二年、西町から仲御徒町三丁目に引越した。その頃父がひどい病気をした。家中で、「ことによると駄目かもしれない。」と言っているのを心細い思いで聞いていたのを覚えている。癒(なお)ってからも一年位手が震えて父は何も仕事は出来なかった。それで仲御徒町の時の貧乏は実にひどいものだった。山本国吉(後の瑞雲さん)が一所懸命父の代作をして、それを三幸商会に持って行き、其の日の薬代などにしていたらしい。私も母に連れられて三幸商会に品物を納めに行った記憶がある。」(高村光太郎『回想録』)

*なお、戸川残花(安宅)が編集していた雑誌「旧幕府」(明治30年4月第1巻第1号)~明治34年8月第5巻第7号)に、「三河屋幸三郎の伝」なる記事が載っているそうですが、小生未見なので、確認の上、またご報告いたします。

人物を読む(10)―三河屋幸三郎(1823 - 89)その4

2007-07-03 00:40:04 | Person
この項目、実は小説にならないかと思って調べた結果を書いているのですが(今のところ、主人公にするつもりはありません)、これだけマイナーな人物となると、資料が少ないのに苦労します。

それでも、市井の一庶民ではないので、まだこれだけ書かれたものが残っているのね。けれども、その書き物も真偽不明なので、いささかの判断が必要になります。
もっとも、小説の場合は、適宜採用して、お話として不自然にならない、筋の通ったものとするわけですが。

何となく眉唾に近い、明治維新時のエピソードには、次のようなものがあります。
資料は、明治42(1909)年刊行の井野辺茂雄編『七十偉人(しちじゅういじん)』に載っている「六九 快男児(三河屋幸三郎の事跡)」という文章です。

著者の井野辺茂雄(1877 - 1954)という人物は、『富士の信仰』とか『幕末史概説』などという書物を書いているのですが、『七十偉人』に関しては、菅原道真という古いところから、西郷隆盛に到るまで、1人1エピソードで、「偉い人」を顕彰するという意図が強い(「白虎隊」について書かれた項目があるのが異色)。

さて、『七十偉人』では、上野戦争直後のことが書かれています。
(彰義隊が予備の武器弾薬を、幸三郎の店の倉庫に預けていたことを述べた後)「戦(たたかい)の畢(おわ)つた後ち、官軍は、幸三郎の家に、彰義隊の軍器弾薬を隠してあることを捜(さぐ)り出し、兵を派してその家を囲み、幸三郎を店前(みせさき)に呼んで詰問したけれど、幸三郎はあくまでも、「そんなことはない」といひはるので、「然らば家宅捜索をしやう」といふと、「それこそ自分も希望する処である。どうか十分に捜(さ)がして貰いたい」といひながら、大胆にも弾薬を蔵(おさ)めてある庫内へ案内しやうとして、行き掛けるのを見て、官軍も気勢を呑まれ、自分で案内するといふ位ならば、実際無実のことであらうと、はじめて疑(うたがい)を晴らし、捜索をやめて立ち去つたので、幸三郎も漸く胸をなでおろして喜んだ。此の時彰義隊の落ち武者も隠れて居たといふから、幸三郎が官軍の気勢に恐れて、大胆の行為に出でゝこれを貽(あざむか)なかつたならば、その人の運命もまた危うかつたのである。
やがて世静まるに及び、幸三郎は或る心安い人に対して、家宅捜索を受け様とした時のことを話し、「あの時、官軍を倉庫内に導いた後、もしも事が面倒になると見たら、すぐに自分で火を火薬に点じ、諸共に斃(たお)れる覚悟であつた」といつたさうであるが、その剛胆にして、義心あることの一端を推察することが出来やう。誠に幸三郎のごときは感ずべき好漢である。」(本文は旧漢字)
はたして、ここに述べられたことが事実であるかどうか、何となく講談や歌舞伎芝居めいていて、今一つ信頼性に欠けるのですが、幸三郎が、彰義隊を含めた旧幕府軍に肩入れしていたことは確実な事実で裏付けられます。

人物を読む(9)―三河屋幸三郎(1823 - 89)その3

2007-07-01 03:15:43 | Person
三河屋幸三郎の実家の商売がなんだったかは、はっきりしませんが、どうやら「口入れ屋」(「桂庵(けいあん)」、「人宿(ひとやど)」とも。奉公人の就職斡旋業)だった節がある。
それに、特に人足などの土木作業員の斡旋を行なう「口入れ屋」は、「組」を名乗って集団で作業員を派遣していたといいますから、かなり「侠客」との親和性が高い。

ですから、前回「幸三郎は、家を飛び出して、お決まりどおり、博徒の仲間に入る。」と書きましたが、「博徒」ではなく「任侠」とした方が良いかもしれない。

いずれにしても、正業に就け、と意見した人があって、横浜で雑貨商になった、との資料がありますが、これも、父親から家業に身を入れろと言われて、とりあえず家業「口入れ屋」の手伝いを始めた、とすると、あるエピソードが生きてくるのです。

というのは、横浜が開港して、土地の埋立が盛んに行なわれていた頃の出来事です。
人足頭をしていた幸三郎が、腰に付けていた根付に、ある外国人が目をつけ注目した。幸三郎は、根付が外国人に受けることを知り、大量に仕入れて大儲けをした、というエピソードが残されています。
だとすると、「口入れ屋」の人足頭から雑貨貿易商、美術貿易商へ、という道筋が出来てくる。
ということで、幸三郎の転身は、家業の口入れ屋が契機となった、ということにしておきます。

こうして美術貿易商となった幸三郎は、その仕事を通じて、「その1」で触れたように高村光雲や、絵師の河鍋暁斎とも近しくなります。
特に河鍋暁斎とは気が合ったらしく、義兄弟にもなっています。
証言者は、三宅雪嶺の妻・三宅花圃(小説家。旧姓は田辺、本名は辰子/龍子。幕臣田辺太一の娘。中島歌子の歌塾「萩の舎」では、樋口一葉の姉弟子に当たる)。
「この人と暁斎先生は、兄弟の契約をしたとあって、それは親密に交際しておられました」(河鍋暁斎記念美術館学芸員・加美山史子の第13回河鍋暁斎研究発表会での発表による)
ちなみに、花圃は暁斎の絵の弟子でもあります(その他、暁斎の弟子には、鹿鳴館の設計者 J. コンドルがいる)。

横浜で貿易商をしていた時のエピソードとしては、文久1(1861)年5月28日の「東禅寺事件」(水戸浪士らによる英国公使館襲撃事件)で、たまたまその場に居合わせた幸三郎が浪士を捕らえ、オールコック公使がそれを絶賛して外国人社会に伝えたため、商売繁昌に繋がった、との話があります。
けれども、公式の「東禅寺事件」関係の史料に、幸三郎の名前は見当たらないので、真偽は不明です。

いずれにしても、30歳代の終りから40歳代にかけて、幸三郎は貿易商として、それなりの地位を築いていたのです。

人物を読む(8)―三河屋幸三郎(1823 - 89)その2

2007-06-28 01:12:32 | Person
さて、三河屋幸三郎ですが、父親が八丈島に流罪中に生まれた、と、小生手持の資料にありますから、母親はどうやら八丈島での「現地妻」だったようです。けれども、父親の罪名は分っていません。

ちなみに、江戸時代「流刑」は「死刑」より一段階軽い罪で、教唆されて殺人を犯した者や、殺人の共犯者、博打の胴元になった者(一例としては、侠客小金井小次郎が同じ八丈島に流された)などが、この罪を課せられます。基本的には終身刑ですが、将軍家の慶事などの場合には赦免されて、本土へ帰ることもありました(江戸時代を通じて、八丈島流罪者計1,804人の内、恩赦されたのが407人、22.6%いたと資料にあります)。

幸三郎の父親の場合も、おそらくは家斉から家慶への将軍の代替りに伴う恩赦で、江戸に戻ることができたのだろうと思われます(代替りは、1837:天保8年)。その場合には、島での妻も連れて帰ることができたそうですが、多くは「現地妻」として島へ置いたまま、ということが多かったとのこと。

父親の場合も、「現地妻」と別れ、当時十五、六歳になっていた幸三郎だけを連れて江戸に戻ってきました。

しかし、当然のことながら江戸には継母にあたる女性がいて、幸三郎とは折り合いが悪かったようです(いわゆる「生さぬ仲」というやつで……)。想像するに、それだけではなく、自分の実の母親を置き去りにしていった父親への悪感情もあったのでしょうね。
幸三郎は、家を飛び出して、お決まりどおり、博徒の仲間に入る。
ああ、青春のデスパレイト!

もともと彼の性格には、光雲が証言しているように「侠客肌」のところがあったものと思われますから、このままでいれば、名の知られた大親分になったかもしれません(猪野健治『やくざと日本人』では、新門辰五郎と並んで「佐幕博徒」に括られているが、これはちょっと拡大解釈し過ぎだろう。新門辰五郎は町火消「を組」の頭だし、「侠客」と「博徒」とはちょっと異なる概念だし……)。

人物を読む(7)―三河屋幸三郎(1823 - 89)その1

2007-06-27 02:23:06 | Person
今回は、今までの記事にもまして、知る人も少ない人物。

まずは、高村光太郎の父光雲の回想から。
「その宿所へ訪ねて見ると、それはなかなか立派な構え、御成道(おなりみち)の大時計を右に曲って神田明神下の方へ曲る角の、昌平橋(しょうへいばし)へ出ようという左側に、その頃横浜貿易商で有名な三河屋幸三郎、俗に三幸という人の店であった。
 私は、迂闊(うっかり)していたことをおかしく思いながら、通されて逢うと、幸三郎老人はなかなか話が分る。そのはずで、この人は維新の際は彰義隊に関係したという疑いを受けたこともあり、後、五稜廓(ごりょうかく)で奮戦した榎本武揚(えのもとたけあき)氏とも往来をして非常な徳川贔負(びいき)の人であって剣道も能く出来た豪傑、武士道と侠客肌(きょうかくはだ)を一緒につき混ぜたような肌合いの人物で、この気性で、時勢を見て貿易商になっているのであるから、なかなか、話も分るわけである。」(高村光雲『幕末維新懐古談』)
ここにあるように、彰義隊との関係でいうと、新政府軍の命令により放ったらかしのまま置かれていた隊士たちの死骸を、三ノ輪の円通寺の仏麿和尚と謀り、同寺に埋葬したんですね(「上野戦士之墓」として現存)。

今日の靖国神社と同じで、天皇側に立って戦った兵士は丁重に祀っても、反天皇側はそのまま放置する、という方針がこの当時からありました。

その最初は、上野戦争のあった1868(慶応4)年6月に行なわれた招魂祭。
「新政権の樹立へ向けて犠牲となった者を天皇の忠臣として祀り、敗死した『賊軍』の兵はたとえそれが怨霊となろうとも捨てて顧みないという態度を打ち出したのであるから、御霊信仰の伝統とは異なる新たな伝統の形成となってくる。招魂祭は、栄光に包まれた死者を顕彰することで、現世の権力側の価値観を宣揚する場となってくる。」(三土修平『靖国問題の原点』)

ですから、放置された上野の戦死者の死骸を祀るということは、新政府への反逆とも判定されるわけです。それが光雲の回想での「維新の際は彰義隊に関係したという疑いを受けたこともあり」という一節に示されています(同様のことは、清水に停泊した幕府軍艦〈咸臨丸〉の乗組員の場合にもあって、新政府軍との戦闘での戦死者を弔ったのは、清水の次郎長でした。「壮士の墓」として静岡市清水区に現存)。

高村光雲
『幕末維新懐古談』
岩波文庫
定価:798 円 (税込)
ISBN978-4003346716