一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

第二次世界大戦中の音楽を聴く。

2007-04-30 19:28:10 | CD Review
RICHARD STRAUSS
CAPRICCIO
GUNDULA JANOWITZ
TATIANA TROYANOS・PETER SCHREIER
DIETRICH FISCHER-DISKAU
KARL RIDDERBUSCH・HERMANN PREY
SYMPHONIEORCHESTER
DES BAYERISCHEN RUNDFUNKS
KARL BOHM
(DG 445 347)


世間は連休中ということで、こちらもちょっとお休みです。
手を抜いて、近頃聴いた楽曲で興味深く感じたものを、タイトル+コメントのみ御紹介。

まずは、R. シュトラウスで、オペラ『カプリッチオ』。
1940年から1941年の作曲で、1942年の初演。なんと、日本では昭和17年(10月28日)の作品なんですね。ドイツではスターリングラード攻防戦(1942年6月28日~1943年2月2日)の真っ最中。ウィーンでの初演は1944年で、カール・ベームがウィーン国立歌劇場管弦楽団を指揮しています。

さて、小生が聴いたのは、そのベーム指揮バイエルン放送管弦楽団の演奏。
歌手陣は、グンドゥラ・ヤノヴィッツ、ディートリッヒ・フィッシャー-ディースカウ、ペーター・シュライアー、ヘルマン・プライなどなど、錚々たるメンバーを集めています。

音楽は『薔薇の騎士』にも似たトロッとしたもので、「通俗への傾斜」「手の込んだ職人的手際の目覚しい音楽」(宮下誠『20世紀音楽 クラシックの運命』)となっています。

その他、マルティヌーの『交響曲第三番』は、「何でこんなに不安感に満ちた音楽が作曲されるの?」という疑問を抱かせる音楽です。
こちらも第二次世界大戦中の音楽で、1944年の作曲。マルチヌーがアメリカ亡命中の作品です。

この時代の不安感は、他の作曲家の楽曲にも聴かれますが、例えばショスタコーヴィッチなどの場合には、行進曲風の部分があったりして、その不安感を異化するものになっていたりする。
ところが、これは、ひたすら不安感に満ち満ちている、という、夜寝る前に聴くと悪夢にうなされそうな楽曲となっています。

不安で怖いものを聴きたい方は、是非どうぞ(!?)。

今日はフンメルでも聴いてみましょうか。

2007-04-29 08:29:12 | CD Review
HUMMEL
Piano Quintets
Klavierquintett
Wien
(camerata CMCD-28055)


モーツァルトについて取り扱ったら、ハチャさんに冷やかされたので、今回は、ちょっと趣向を変えてフンメル(Johan Nepomuk Hummel, 1778 - 1937) などはいかがでしょうか。

フンメルは、ご承知のようにモーツァルトに師事した作曲家で、ベートーヴェンの友人にしてライヴァル、しかもメンデルスゾーンのお師匠さん、ピアノの名手としてはショパンに影響を与えた、というのですから、この時代の音楽史のキー・パーソンのような人です。
その割には聴かれることがないのは、なぜなんでしょうか。
決して、楽曲が詰まらないからではないと思います。となると、この辺は、やはり運不運という要素が働いているのかしら(生きていた時代には、結構人気があったようですが)。

まあ、名前くらいは聞いたことのある方が多いと思いますが、楽曲の方になると、なかなか聴くこともないでしょう。そもそも、音源がそれほどありませんからね。

小生もご多分に漏れず、滅多に聴かないので、久々に耳にすると、実に清新な印象を受けます。
確かに、ライヴァルであったベートーヴェンほどの重厚さはありませんが、それだけが音楽じゃあありません。
この清新さとか、叙情性は、師匠だったモーツァルトや、また後進のシューベルトに通じるものがあるような気がします。
また、作品番号87のピアノ五重奏曲は、シューベルトのピアノ五重奏曲『鱒』と同じ楽器編制で(ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)、1802年の作品。これはシューベルトに20年先行していることになります(同じCDに収録されている作品番号74は、彼自身がピアノ七重奏曲を編曲したもの)。

形式的には、ウィ―ン古典派のものですが、この作品番号87のピアノ五重奏曲の旋律には、ところどころに「憧憬(Sehnsucht)* 」が感じられ、この辺り、ロマン主義を準備した精神動向のようなものがあったのではないかしら(演奏家の解釈もあるのかもしれませんが)。
*「ロマン主義は憧憬(Sehnsucht)として純粋であり、そしてただ憧憬としてのみ純粋である。」(カール・バルト『プロテスタントの神学』)

なお、ここでご紹介したCDの演奏は、ウィーン・ピアノ五重奏団。なお、ピアノは、浦田陽子がベーゼンドルファー・インペリアルを弾いていることをつけ加えておきましょう。

介護はつらいよ 大型連休編

2007-04-28 07:55:08 | Essay
'06年の12月28日に「介護はつらいよ 年末年始編」という文章を書きました。
その時に、
「近年は元旦から営業している顧客志向の業界も多い。来年は、福祉ももっと利用者志向になってほしいものだ。」
という新聞への投書を御紹介しましたが、大型連休でも事情は変わっていないようです(ただ、暦どおりの休みであるのが、多少は助かるが)。

ただ、より悪化していることが、ないわけでもない。
というのは、地方自治体の老人福祉への取り組み方です。
以下は、それについて、小生の身近にあったお話。

今月20日付けの文書が拙宅の老人宛にやってきました。
その文書のタイトルは「老人医療費等助成制度の廃止について」というもの。
つまりは、従来、「68歳以上の方が入院したときの差額ベッド料およびおむつ代」について助成をしてきたが、それを本年6月30日で廃止する、というのです。

これも国の政策とリンクしているようで、この文書には、廃止の理由の一つに、
「国の医療制度改革などとの整合性を確保し、負担と給付の公平を図る」
という一節がありました。

さて、現在、拙宅の老人は、次のような老人福祉および身障者福祉として、次のような補助を受けています(上記のような、入院などの特別なケース以外に)。

一つには、おむつ関係の現物支給。
金額に直せば、月に4~5千円程度になるでしょうが、これだけでは足りませんので、自己負担がプラス千円程度かかります。
第二は、身障者として、消耗品の補助があります。
これも金額に直すと、月に1万円程度でしょうか。しかし、こちらはほぼ自己負担なしで済んでいます。

以上の他に、福祉協議会という団体(NPO?)から、車椅子を無料にて借りています。これも、自己負担となると、月に数千円はかかることになるでしょう。

これらの補助ですが、今の情勢ですと、すぐに廃止とはならなくとも、自己負担率が増えることは目に見えています。その最初の動きが、今回の「老人医療費等助成制度の廃止について」という文書に書かれた内容でしょう。

それはさておき、国が弱者切捨て策を採るのであれば、それに対抗する手段として考えられるのは、次の三点だと思います。

第一点は、その政策を変えさせていく方策を採る。
これが一番基本なのでしょうが、そのためには余りにも時間がかかり過ぎ、当面の対応を考えねばならない。

第二点は、自己防衛策を採る。
これも、ある程度以上の資金の準備が必要です。そもそも、これが採れれば、「弱者」とは申せますまい。したがって、他の経費を切り詰めて、老人福祉に廻すとしても限度があります。

第三点は、地方自治体にセーフティーネットを造らせる。
地域によって財政的基盤の相違がありますので、どこでも可能かといえば、難しい面もありますが、今のところ、地域独自のセーフティーネットが、ある程度はできていると思いますので、少なくとも、これを最低線として、削減はさせないことが重要でしょう。その次の段階としては、より一層の拡充を図っていく。

その面で、まだ地方自治体に働きかけていく可能性はなきにしもあらずという気がしていたのですが、今回のような「お知らせ」が来ると、それも危ういように思えます。

今回の統一地方選挙の結果で、果していかなる事態になっていくでしょうか。
それを慎重に見守った上で、来るべき参議院選挙での投票行動を決めていきたいと思っております。

休日はモーツァルトのディヴェルティメントで始まる。

2007-04-27 10:15:32 | CD Review
もうそろそろ、連休が始まります。
そこで今日は、五月の休日にふさわしい曲の御紹介。

まずは K.136 のディヴェルティメント。
鯉のぼりの翻る五月の青空に相応しい、軽快な曲です。
演奏は誰のものにしましょうか。
ここは、切れ味の良いエマニュエル・クリヴィヌ指揮のシンフォニア・ヴァルソヴィアのCDとします(DENON COCO-70594)。
軽やかで、爽やかで、そして小気味の良い演奏です。

さて、休日のブランチは、木漏れ日が差してくるテーブルで、気の合ったトリオの演奏でも聴いてみましょうか。
ギドン・クレメールのヴァイオリン、キム・カシュカシアンのヴィオラ、ヨーヨー・マのチェロによる『弦楽トリオのためのディヴェルティメント K.563』です ("MAESTROS PLAY MOZART" SONY SICC-455/6)。
第1、第3楽章のようなアレグロ楽章では、丁々発止、緊張感を感じさせるところもありますが、それも前後の和気藹々とした部分を一層引き立てる。
第2、第4楽章のようなゆったりした音楽では、各楽器の美音を一層楽しめる。特に、第2楽章ではチェロの音色、第4楽章ではヴィオラの音色をお楽しみください。
第3、第5楽章は、いかにもモーツァルトらしいチャーミングなメヌエット(特に第5楽章)。

ということで、ゆったりとしたブランチが楽しめることでしょう。

夜になって、多少酔い心地になったら、『音楽の冗談 K.522』といきましょうか。
「冗談」をウィーン室内合奏団の面々が大真面目に演奏しているのが、なかなか可笑しい(DENON COCO-70770)。
モーツァルトが「下手な作曲家や演奏家を揶揄するために」書いたといわれていますが、不協和音がプカプカと演奏されるのは、外した演奏を示しているのでしょうか。
もっと、酔ったアナタには、もうそんなことはどうでも良くなっていることでしょう。

室内楽の楽しみ

2007-04-26 08:59:12 | CD Review
Elgar
Complete Music for
Wind Quintet,
Volume 1
Athena Ensemble
(CHANDOS)


オーケストラ曲やオペラの愛好者は数多くいても、これが室内楽となると、ぐっと少なくなるようです。

理由についての分析はしませんが、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を持ち上げた過去の音楽評論家に責任なしとは言えないように思います。
重厚長大にして、かつ晦渋、深刻、といったイメージが、そのためできてしまったのね。
ですから、誰の室内楽も、そんなもんだろう、ということで、敬遠されてしまうとわけです。

ところが、室内楽の面白さというのは、そんなところにはないのです。
むしろ、各楽器が丁々発止とやり合う「競奏」や、旋律楽器を他の楽器がふんわりと受けとめたり、下支えをしたりする「協奏」が、はっきりと分るから面白いのね。もちろん、それらはオーケストラでも行なわれていることですが、あれだけ多種多様な楽器が出てきてしまうと、なかなか聴き取るのが難しい。

それが明瞭に分るし、かつ「共奏」のインティメイトな雰囲気も味わえる。それが室内楽ではないでしょうか。

インティメイトな室内楽といえば、何といっても、友人同士が寄り集まって演奏するために作られた、シューベルトの弦楽四重奏曲が一つの典型でしょう。しかし、これに関しては、多くの人が触れていますので、ここではちょっとパスをして、あまり取り扱われることのない、英国の室内楽を御紹介します。

曲は、エルガー作曲、木管五重奏曲のための『アンダンテと変奏曲』です。
これも、シューベルトの大部分の弦楽四重奏曲と同じように、友人同士が、楽器を持ち寄り演奏するために作られた曲。

この曲については、かつて触れたことがありますので、その文章を引きます。
「フルートが2本、オーボエ、クラリネット,バスーンという、妙な取り合わせ。でも、理由は実に簡単。これらの曲が、エルガーと弟、友人たちで集まって演奏するために作曲されたから。
オーボエはエルガーの弟、ファゴットはエルガー自身、他は友だちが演奏しました。ですから、演奏の難易度も、それぞれの演奏者の技量に合わせている。フルート2本は、玄人の域に達している友人のために若干難しく、クラリネットはまだあまり巧くない友だちのためにシンプルに、という具合。
ちなみに、エルガーのファゴットは独学だそうで、どの程度の腕だったのかは、実際に曲を聴いて判断してみてください。

副題の"Noah's Ark(ノアの箱船)"、"Mrs and Miss Howell(ミセス・ミス・ハウウェル)"、"Mrs Winslow's Soothing Syrup(ミセス・ウィンズローの鎮静剤)"なんていうのも、何だか謎めいているけれど、実は内々ではすぐに分る冗談やら、ちょっとした符丁だったんでしょう。『エニグマ変奏曲』も、そういった内輪の冗談めかした副題ですよね(いかにも英国風のユーモア!)。」

といった曲です。
おそらく音源は、これしか入手できないのではないでしょうか。
アテナ・アンサンブルの演奏、シャンドス・レーベルのCD。
とげとげしい心が、つるつるになるような心地よい曲と演奏です。
ぜひ、御試聴ください。

最近の拾い読みから(144) ―『鉄道ひとつばなし2』

2007-04-25 09:35:34 | Book Review
本書の著者・原武史は、
「本職は私立大学の教員で、日本の政治思想史、特に近現代の天皇や皇室」
の研究者で(このジャンルでは、2000年刊行の『大正天皇』で話題を呼んだ)、
「鉄道の専門家ではない。」

したがって、鉄道専門誌に掲載されているようなエッセイとは、一味違ったものとなっている(前著の『鉄道ひとつばなし』や『「民都」大阪対「帝都」東京――思想としての関西私鉄』をも参照)。

ここで、原の鉄道エッセイものに流れている基本的な考え方/感じ方をいえば、それは「文化的保守性」であろう(歴史研究者は、政治的な考えとは別に、文化的に保守的になる傾向がある)。
それを端的に示しているのは、「第三章 日本の鉄道全線シンポジウム」に引かれている三島の次のようなことば、
「すべてが明るくなり、軽快になり、快適になり、スピードを増し、それで世の中がよくなるかといへば、さうしたものでもあるまい。(中略)いつかは人々も、ただ早かれ、ただ便利であれ、といふやうな迷夢から、さめる日が来るにちがいない」(三島由紀夫『汽車への郷愁』)
であろう。

そのような観点から書かれている本書には、「迷夢から、さめる日」を決して迎えていない現状への苦々しさが、随所に読み取れる。
その苦々しさは、たとえば、小田急「ホームウェイ71号」に関して書かれた、
「『成長する郊外』(東急田園都市線沿線・引用者註)では、定員の多い通勤型の車両に客を無理に押し込むのが精一杯で、座席指定の特急を走らせるだけの余裕がない。この贅沢な通勤は皮肉にも、『上質な暮らし』などという不動産会社の広告に惑わされず、流行に背を向けて決然と『衰退する郊外』(多摩ニュータウン・引用者註)に住み続けることを選んだ人々にこそ赦された特権なのである。」
や、ロンドン市内および近郊の電車事情を述べた「ケンブリッジで電車通勤を考える」「鉄道から見た倫敦」によく現れている。

ということで、一般の鉄道マニアではなく、むしろ、
「鉄道を通して見えてくる日本の近代や、民間人の思想や、都市なり郊外なりの形成や、東京と地方の格差」
などに興味をお持ちの方にお勧めできる書籍であろう。

それにしても、この市場経済絶対主義の下で「迷夢から、さめる日」などは来るのでしょうかね。

原武史(はら・たけし)
『鉄道ひとつばなし2』
講談社現代新書
定価:777円 (税込)
ISBN978-4061498853

人物を読む(3)―立石斧次郎 (1843 - 1917)

2007-04-24 05:51:09 | Person
1860年、日米修好条約を批准するために渡米した使節団の中で、もっとも米国市民に人気のあったのは、正使の新見豊前守(正興)でも副使の村垣淡路守(範正)でも、実務の責任者・目付の小栗豊前守(後、上野介。忠順)でもない。
それは間違いなく、「トミー」とニックネームで呼ばれ、「トミー・ポルカ」まで作曲 (Charles Grobe作)された、17歳の少年通訳・立石斧次郎である(立石家に養子となるまで「米田為八」という名だった。この「為(ため)」が訛って「トミー」となる)。

この間の事情は、古川薫『異聞 岩倉使節団』に詳しい(小説作品ではあるが、立石の半生に関しては、ほぼ事実通りと思われる)。
以下、一部を引く。
「アメリカでは楽しい思いをしたよ。私は最年少だったし、あまり物怖じしないほうだから、アメリカ人とも気楽に交わったので、あちこちから誘いがかかった。貴婦人たちは、私を子供として可愛がってくれ、踊りも教えてくれた。今思うと冷や汗も出るが、私は実に陽気にはしゃいだものだ。
ポルカという音曲があった。それを踊ったのだよ。アメリカ人は、私のことを『トミー』と呼んだ。私は立石教之を名乗るようにいわれていたが、やはり本来の為八で通していた。そのタメハチは発音しにくいものだから、彼らはトミーと呼ぶようになったのだな。」

帰国後、英語通訳として幕府に出仕、ヒュースケンの暗殺後、麻布善福寺にあった米国公使館の通訳となる。この時、後輩の通訳だったのが、益田孝(鈍翁)で、立石から英語を習っていた。
その後、開成所(洋書調所)教授職並出役になり、外国奉行御書翰掛(書簡係)として、主務の田辺太一(やすかず)の下で働いた。同僚には、福沢諭吉もいたが、『福翁自伝』には、立石のことは登場しない。

同時期、英語塾も開いていたが、この塾の特徴としては、「一切日本語を使わせない」というダイレクト・メソッドにあった。つまりは、話しことばを重視した教授法である。ここには、明らかに滞米体験があったように思える。

戊辰戦争では、将軍の英語通訳として慶喜に同行して大坂に入城、以後、兄・小花田重太郎と行動を共にする。慶喜の〈開陽丸〉での江戸帰還へも同行したというが、どうだろう。この時点で、英語通訳を連れる必要性はないような気がするが。

それはともかく、江戸開城に反対して、日光から仙台へと大鳥圭介らと転戦するも、仙台藩の降伏により、武器商人シュネルの斡旋で、上海へ亡命する。

さて、明治時代の立石であるが、小説なら、幕臣として上野戦争なり箱館戦争なりに加わり、敗れて市井に埋もれ、若き日の滞米生活を懐かしむだけの日々を送るところであるが、実際には、功成り名遂げてというほどではないにしろ、帰国後は、基本的に有能なる中堅官僚として過ごした(岩倉遣米欧使節団にも通訳として同行)。

やはり、多くの事実は小説より面白くないものなのか。

古川薫
『異聞 岩倉使節団』
新潮社
定価:1,155 .円 (税込)
ISBN978-4103454038


*この他に、トミーの明治維新以前の経歴に関しては、
 野口武彦『大江戸曲者列伝 幕末の巻』(新潮新書)
 鈴木明『追跡 一枚の幕末写真』(集英社)
 などがあり、次のようなHPもある。
  "HOWDY TOMMY" 「ひ孫が紹介する、トミー・立石斧次郎(長野桂次郎)」

最近の拾い読みから(143) ―『島津奔る』

2007-04-23 07:05:12 | Book Review
「恋というものは相手をわがものにしたい。躰だけでは無うして、心も何もかも残らず奪いとってしまいたいと思う事でございます」
(中略)
「愛というものは、その逆でござります。相手に身も心も捧げ尽くす。おのれの欲も何も打ち棄てて、相手に与えて悔い無い心でござります。相手がわがもんにならんでもよか……倖わせになってくれればよか……それがおのれの喜びじゃと思う事でござります」
はたして、この台詞、何世紀頃の人のものだと思います?
何と、これが17世紀末、島津家の家臣・長寿院盛淳(1548? - 1600) が、島津義弘(1533 - 1611)に対して言ったことばなんですね。
ああ、もちろん小説中の台詞ね。

違和感を覚えませんか。
これ、キリスト教的なエロス(=人間の利己的な愛)とアガペー(=自分中心ではない利他的な恋愛関係・自己犠牲を厭わない献身的で純粋な恋愛関係)じゃあありませんか。

いくらフィクションの世界でも、「恋」と「愛」についての16世紀日本人の概念とは思えません。

本書には、これ以外にも、違和感を覚える表現・概念が出てきます(一つは、戦国バブル経済を「戦の景気」とするもの。まあ、これは許容範囲でしょうか)。

「恋」と「愛」については、本書の主人公・島津義弘の私生活に関する重要なキーとなるので、ちょっと見のがすわけにはいきません。

以前に大岡昇平の「歴史小説の2類型」を御紹介しました。この説によれば、歴史小説には、「A.過去の再現という、歴史の線に沿ったもの」と「B.現代社会の諸条件では不可能な状況を、歴史をかりて設定し、人間のロマネスク衝動を満足させるもの」との2類型があり、実際には、その中間の位置にさまざまな具体的な小説がある、とするものでした。

その考えを援用すれば、本書は、〈類型A〉に近い線を目指しながら、ついつい〈類型B〉が紛れ込んでしまっている、という気がします。
普通、このようなケースを「破綻」と称します。
ストーリー自体も、長いわりには起伏の付け方が今一つ。
ということで、お勧めできない歴史小説であります(関ヶ原の戦いの描写が司馬遼太郎作品に似ていたとの理由にて絶版)。

池宮彰一郎
『島津奔る(上)(下)』
新潮文庫
定価:各667.円 (税込)
ISBN978-4101408163/978-4101408173

「お願いします」と「お任せください」との間

2007-04-22 09:56:48 | Essay
さて、投票日となると、「ぜひ、私に投票をお願いします」との声もなくなり、静かな朝を迎えることができました。

今までの候補者たちの声を聞いていて、気になったのは、「私にお任せください」というフレーズです。もちろん、全員がそう言っているわけではありませんが、なぜか政権与党の候補者(しかも中年以上の男性)に多かったように思えます。

気になるというのは、これ、時代錯誤じゃあないの、と思われるからです。

われわれは、その候補者の政策に賛成する部分があるから投票するわけですが、すべてにわたって、彼/彼女に委託するわけではありません。
あくまで、その時点で公表された政策なり理念なりに、自分のそれに一番近いものがあるから投票しているわけです。

それを「お任せ」と理解(誤解)されてしまっては困るのですね。

投票したからといって、イシューAに関しては彼/彼女に賛成していても、別のイシューBに関しては賛成しないかもしれない。
そういった可能性を、「私にお任せください」と言っている候補者は、まったく想定していないんじゃないかしら。

極端に言えば、「お願い」をするのは投票行動だけで、当選してしまえば、「由らしむべし知らしむべからず」(最近は、「人民は為政者の施政方針に従わせればよいのであって、その理由など説明する必要はない」との解釈は誤りとの説もありますが、ここでは従来通りの意味として)。「オレに任せておけばいいんだ。ごちゃごちゃと小さなことで文句言うな!」という本音が見えるようです。

ということで、「私にお任せください」と言っている候補者は信用できない、という原則が成り立つようで……。

では、投票に行ってきまーす。

「無投票当選」への素朴な疑問

2007-04-21 07:31:54 | Opinion
統一地方選挙も、もう最後の段階に入りました。

そこで一つ素朴な疑問を。
「無投票当選」って、あれ何なのでしょうか。
地方自治体の首長にしろ議員にしろ、定員以下しか立候補者が出なかった場合、投票を行なわないで、自動的に当選となってしまう、というあれですね(こちらに、今回の統一地方戦での「無投票当選」に関する詳しい記事あり)。
記事を見ると、意外にも、高松市という県庁所在地でも市長選挙で「無投票当選」になったケースがありました。

人口の少ない地方自治体の場合、立候補者が限られてしまう、という現実があるのでしょうけれども、県庁所在地の市長が「無投票当選」で決定してしまうというのは、必ずしもそれだけが原因じゃないみたい。

けれども、良く考えると、これ、危ない制度じゃないかしら(法律的根拠は、公職選挙法第100条)。
特に「長崎市長(候補者)殺害事件」などと組み合わせて思うと、対立候補者をテロで脅迫して立候補を断念させ、「無投票当選」してしまう、なんてこともありうるわけでしょ?
もし、それが影響力が大きい東京都知事選挙で行なわれるとしたら、どうなるんでしょう(いくら候補者が大勢いるからといっても、可能性として排除することはできない)。

そこで、有効になってくるのが、「信任投票」を行ない、全投票者の過半数を得ねば当選できない、という考え方(現行の法律だと、「無投票当選の場合は当選翌日からでも解職請求(リコール)が可能」というだけ)。
そもそも「信任投票」もせずに、無投票のまま当選としてしまうということ自体が、有権者の意志を無視することになる(いわゆる「民意が反映されない」)。
「便宜」は「原則」に道を譲るべきです。

候補者が「信任」されなかった場合の具体的な処理が問題になるでしょうが、それは別に考えることとして(外国で「信任投票」を行なっているケースがあるんだから、方法的には可能でしょう)、ともかく、「無投票当選」という制度(?)はおかしい、ということを言っておきましょう。