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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

「彰義隊」史料の少なさについて

2007-10-15 02:53:32 | History
敗者の側の歴史史料は、どうしても少なくなるようです。
原因にはいくつかあって、一つは勝者の側が史料を抹殺すること。近代では抹殺とまでいかないまでも、刊行しにくい状況を作り出すこともあります。
もう一つは、敗者の側が史料を隠匿/隠蔽すること。公にはできないような状況/雰囲気が勝者によって醸成されてしまう。

ですから、一時は新選組に関する史料などは、めったにお目にかかることもなかったんですが、近年の人気の上昇によって、多少は増えてきている。ただし、それでも一級史料は少なく、研究書が多いといったことはあります。
それに、子孫(例えば子母沢寛など)の努力によって、生き残りの証言も残されています。

一方、これが彰義隊に関する史料となると、まことに少ない。
もっとも、小生、歴史研究者ではなく、彰義隊関係の小説を書こうとしているだけなので、もっと多くのものがあるかもしれません。
ですから、挙げられていない史料をご存知の方がいらっしゃったら、ぜひご教示いただきたいものです。

基本となるものには、次のものがあります。

山崎有信『彰義隊戦史』(明治43年刊)は、基本中の基本。
この著には、天野八郎の『斃休録』や丸毛靭負の『彰義隊戦争実歴鈔』などの戦争参加者の書いた文章が、資料編として収められているので大変役に立ちます。

また、幕臣の側からの証言としては、
戸川残花(安宅)編、雑誌「旧幕府」(明治30年4月第1巻第1号)~明治34年8月第5巻第7号)
に収録されているものも有益です。
その他、篠田鉱造『幕末百話』にも二、三の幕臣の証言がありますが、何分にも分量が少な過ぎる(ただし、当事者ではないと分らない細部が証言されていて、これはこれでリアリティがあります)。

東京日日新聞社会部編『戊辰物語』(万里閣書房、昭和3年)などもありますが、昭和に入っての刊行物は、やや確度が落ちると思われます。

戦後刊行されたものでは、加来耕三『真説 上野彰義隊』や森まゆみ『彰義隊遺文』などがありますが、小説を書く場合の史料としては、今一つ役に立たない憾みがあります(戦前の刊行物を元にしている傾向があるため)。

さて、ここで彰義隊ブームのようなもの(新選組における司馬遼太郎『燃えよ剣』をきっかけとした)が起ると、幾分は埋もれていた史料が出てくる可能性もあるのですが、如何なものでしょうか。

*彰義隊に参加した関宿藩士(万字隊といって、60人が参戦している。『関宿藩士人名録』による)や結城藩士(水心隊)などの史料は、どうなのでしょう。刊行されているのでしょうか。

「国家」としての太平天国

2007-10-12 06:44:48 | History
高校のときに使っていた世界史の教科書(山川の『詳説世界史』)が出てきたので、太平天国の項目をちょっとのぞいてみました。
いささか古いのですが、今でも基本的な叙述に変りはないものと思われます。

まず見出しが「太平天国の乱 1851~64」で、
「アヘン戦争による多額の出費と賠償は銀価の急激な騰貴となって中国の一般民衆を苦しめ、さらに当時相ついでおこった天災によって民衆の窮乏はいっそう加わった。その結果流民・匪賊(ひぞく)となるものが増加し、地方の治安は極度に乱れたが、こうした状態はやがて太平天国の大乱となって爆発した。」
とあります。以下、「大乱」の過程の記述が20行ほど続きます。

さて、ここで問題にしたいのは、「乱」「大乱」という表現ですね。
「乱」というのは、あくまで当時の支配者、清朝政府から見た場合の言い方で、けっしてニュートラルな表現ではありません(「匪賊」も同様ですが、ここではそちらは一先ず置いておきます)。

小生の理解によれば、太平天国は地方政権であるにせよ、一個の国家を建設しています(この教科書でも「首都を南京に定め、機構を整え、太平天国と号した。」とあります)。
単純に見ても「国家の三要素」といわれる「領域」「人民」「権力」の要件は満たしていますし、前回述べたように独自の通貨すら発行しています。

それでは他国からの承認という点ではどうでしょうか。

これはイギリス外交筋が逸早く承認しようとしましたが、フランスの圧力で阻止されています(フランスは、中国での利権獲得に遅れをとっていたため、むしろ清朝政府に近い立場を採っていた)。

ということになると、これを「乱」としてだけ捉えるのは、いささか問題ありはしないか。
中国が太平天国勢の蜂起によって、内乱状態に陥ったのは確かだとしても、南京(「天京」と改称)を首都とする国家が生まれたが、内紛や外圧が原因で早くに崩壊した、と理解すべきであろうと思われるのですが(成功すれば「辛亥革命」より半世紀早くに清朝は滅んでいたし、他の武装集団に比較すれば、その可能性はかなり高いものがあった)。

「主君〈押込〉の構造」再び

2007-10-08 08:08:14 | History
以前、本ブログの「将軍権力の構造」という記事で、笠谷和比古『主君〈押込〉の構造―近世大名と家臣団』をご紹介しました。

そこでは、
「藩主を強制的に隠居させてしまい、藩主血縁の適当な人物に後を継がせる」
〈押込〉システムが、江戸時代の藩主の場合だけではなく、近代天皇にも働いていたのではないか、との疑問を提示しました。
そして、開戦時の昭和天皇が、
「私が若(も)し開戦の決定に対して〈ベトー(拒否)〉をしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲のものは殺され、私の生命も保証できない。」(『昭和天皇独白録』)
と、このシステムの発動を惧れていたことをも。

どうやら、この昭和天皇の惧れは、自らが大正天皇に代わって摂政となった過程に原因しているみたい。

雑誌「論座」2007年11月号に「永世現役を願った昭和天皇の執念ー『卜部日記』を読んで」という鼎談が載っています。
その座談会の中で、原武史は次のような発言をしている。
「昭和天皇は、大正天皇が公務も祭祀もできないことを理由に強制的に引退させて、21(大正10)年に摂政となったわけです。当時の女官の言葉を使えば、これは〈押し込め〉です。」
また、そのすぐ後には、御厨貴が続けて、
「押し込めへの恐怖はすごくあったでしょう。だから彼は公務が減らされることを嫌がったんですね。昭和天皇にとって自分が生きながらの代替わりはあってはならないんですよ。」
と述べています。

これらの発言は、公務や祭祀が減らされることへの、昭和天皇の惧れについて語っているのですが、発言者の意図を離れて、昭和戦前期という広い射程距離をもった視野をも与えてくれているようです。

「覇道の帝」と「王道の帝」その3

2007-09-30 01:01:49 | History
明治帝に「王道の帝」を求めようとした代表的人物が、帝の「侍補(じほ)」元田永孚(もとだ・ながざね。1818 - 91)でしょう。
彼は、
「元田的に儒教の原理をおしつめ、『天子に無限の政治的道徳的努力を要求』し、その結果、『明治天皇個人は元田の教育によって、理想的な君主となった』とする。」
とされています(飛鳥井雅道『明治大帝』)。

しかし、実際の明治の国家体制(明治憲法体制=「国体」)では、天皇大権の一つとして「統帥大権」(軍の最高指揮権)が規定されておりました。
これは「戦う天皇」像を、伊藤博文などの憲法制定者が念頭に置いていたことを示しています。

その間の矛盾を、現実としての明治帝は生きていたのです。
日清戦争を前にしての帝の行動に、それが端的に現れています。
「天皇の宣戦の詔勅が公布された直後、宮内大臣子爵土方久元(ひじかた・ひさもと)は天皇の御前に伺候し、神宮ならびに孝明帝陵に派遣する勅使の人選について尋ねた。天皇の応えは、次のようなものだった。『其の儀に及ばず、今回の戦争は朕素(もと)より不本意なり。閣臣等戦争の已むべからざるを奏するに依り、之れを許したるのみ、之れを神宮及び先帝陵に奉告するは朕甚だ苦しむ』と。」(D.キーン『明治天皇』下巻)
つまりは、明治憲法で規定された立憲君主としては、開戦に詔勅を与えなければならないが、「王道の帝」として帝王教育されてきた人間としては、清国への開戦には賛成できない、というわけです。
それは、明治帝が平和主義者だった、ということではなく、日清戦争が自らが持つ道徳から見て「正しい戦争」かどうか、という判断だったのです。
*リアル・ポリティクスから見ても、この時点で清国を弱体化することは、東北アジアにロシアの侵出を早めることになる。

しかしながら、国家としては、明確にアジア侵出という覇道の道を歩んでいきます。
「貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。」(孫文「大アジア主義」
という孫文の忠告にもかかわらず、愛馬「白雪」にまたがり大元帥服を着た昭和帝を先頭に立てて。

「覇道の帝」と「王道の帝」その2

2007-09-29 00:45:42 | History
さて、明治帝に負わされたのは、「覇道の帝」と「王道の帝」とを兼ねる存在である/あらねばならぬ、ということでした。

まず最初は、「覇道の帝」としての側面が立ち現れます。

理由の第1は「攘夷」を正当化するために、「維新の志士」たちが天皇の権威を必要としたから。

第2として、「武力討幕」のシンボルとしての天皇を必要としたからです。その端的な現れが、皇族に与えた「錦旗」*でしょう。
*「錦旗」とは元来、普通思われているような「官軍旗」(官軍の軍旗)ではなく、「天皇旗」(「将軍旗」)です。
つまりは、その旗の元には、「戦う天皇」もしくは、その権限を委譲された皇族・将軍が存在している、ということを示しているのです(その延長線上に「官軍旗」という観念が生まれる)。

したがって、まずは「戦う天皇」が登場する。

岩倉具視による「王政復古」とは、神武天皇の東征にまで遡ることであり、したがって、三種の神器の「剣」は、「武の統帥を意味する。天皇は、剣を自らおとりにならなければいけない」と考えていたようです。
また、真木和泉なども、「天皇親征」(「親政」ではない)を唱え、「武」を天皇存在の核の一つとして重視していました。

つまりは、幕末・明治維新時に、「戦う天皇」(=「覇道の帝」)像がプラス価値を持つものとして急浮上してきたのです(それ以前、「覇道の帝」である後醍醐帝は「不徳の君」としてマイナス評価されていた)。

「戦う天皇」を戴いて、維新戦争、西南戦争などの国内戦争に勝利した明治新政府は、内政に一層の目を向けざるを得なくなる。
というのは、自由民権運動の高まりによって、新政府の正統性に疑問が投げかけられ始めたからです。

そこで、国内統一のために、一転して「道徳的天皇」が必要になってきます。つまりは「王道の帝」像を提示することが、急務となったのです。

どうやら、この論考は続くことになりそうです。
それでは、またの機会にこの続きを。

日本右翼の基礎を形作った肉体的文化

2007-09-27 03:47:23 | History
日本の近代右翼を考察するのに、その思想の分析から行なうのが普通の手法です。
しかし、日本の近代右翼を考えるに当たっては、我が国の肉体的文化を考慮に入れざるを得ません。というのは、我が国にも独自の「マッチョ文化」、すなわち「壮士文化」があり、近代右翼はその文化の上に成り立っているからなのね。

それでは「壮士文化」とは、どのようなものなのか。
杉森久英『浪人の王者 頭山満』の記述から、その肉体的文化を見ていきましょう。
「日本人は大正、昭和とくだるにつれて、おとなしくなったというか、紳士的になったというか、それとも士風がおとろえたとでもいうか、酒宴や会議の席での鉄拳沙汰が少なくなったが、明治初年は、まだ一般に殺伐の風が残っていて、何ぞといえば、殴り合いになったものである。」

「当時はまだ、維新から十数年しかたっておらず、男はたがいに体力、気力を誇る風がさかんであった。」

「普通、壮士といわれるような男は、性質に狂騒なところがあって、自己顕示欲が強く、人を見ては、けんか口論を吹き掛け酒や女に身を持ちくずして、放縦無頼の生活をする者が多い」
という肉体的文化が存在していたわけです。

このように、右翼のみならず、自由民権運動家も「壮士文化」を共有していました(当初「玄洋社」も、自由民権を唱えていた)。反体制家の文化といってもいいでしょう。
これは幕末の「志士文化」から引き継いだものかもしれません。

言論よりも行動を重視する、しかも、その行動には暴力も含まれます。
暴力でも、この時代は、腕力だけではなく、武力をも意味します。言論人や政府要人の暗殺も、その一環です(「日本刀」による高田早苗傷害事件、「爆裂弾」による大隈重信暗殺未遂事件など)。

その暴力性が、言論抑圧の方向にもつながっていく。
「彼(=頭山満)がイザとなれば何をしでかすかわからない男だということは、だれの目にも明らかなのでうっかり手出しをする者もなかった。こうして、頭山は強いということがみなに知れわたってしまえば、先方から折れて出るので、腕力をふるう必要もないわけである。いわば、巨万の富を持った男が、全部銀行に預けて、ふだんは無一文で歩いているようなもので、いちいち現金で払ってみせなくても、相手の信用が落ちるわけではない。頭山は何かあるごとに、いちいち腕力をふるってみせなくても、彼は強いという評判だけで、じゅうぶん相手を威圧することができたのである。」
政治的な圧力をかけるのに暴力を許容する文化は、昭和に入って軍部にも引き継がれ、5・15事件、2・26事件となっていったのです。

杉森久英
『浪人の王者 頭山満』
河出書房文庫
定価 441 円 (税込)
ISBN9784309400730

「覇道の帝」と「王道の帝」

2007-09-24 05:01:36 | History
kuroneko さんのブログ「みんななかよく」(9月20日付)に、「両陛下訪問の案内状で入力ミス=悪天候を『悪天皇』、職員処分-秋田県」という記事が紹介されていました。

そこで、ブログの内容とは係わりなく、頭に浮かんだのが、後醍醐帝のこと。
戦前の皇国史観では、「建武の中興」を行なった偉大な天皇となっていますが、「覇道の帝」であったことは間違いない。

それでは「覇道の帝」とは、どのような存在か。

その前に、後醍醐帝については、ご存知ですよね?
人によっては網野善彦『異形の王権』を通じて、「異類異形」の徒を動員して王権の確立を図ろうとした「異形の王」としてご承知かもしれません。
また、ごく一般的には(教科書的には)、「正中の変」「元弘の変」を通じて鎌倉幕府(武士政権)の打倒を図り、隠岐配流はあったものの、ついにはそれを成功させた天皇として知っているでしょう。

この時代、幕府政権の打倒を狙う以上、何らかの形で「武力」を使わざるをえない。
その意図を典型的に示したのが、帝の皇子大塔宮護良親王です。
天台座主の地位にありながら武芸に励んだ、というのも父帝後醍醐の意図によるものでしょう。
『太平記』には、
「義真和尚より以来(このかた)一百余代、未(いまだ)斯(かか)る不思議の門主は御坐(おはしま)さず。後に思合はするにこそ、東夷征罰の為に御身を習はされける武芸の道とは知られたれ」
とあります。

また、権謀述数を討幕過程のみならず、成立しつつあった足利政権を崩すために駆使したことは、言うまでもありません。
代表的な事例を1例だけ挙げておけば、幕府打倒の功労者である護良親王ですら、帝によって捨て去られた形跡が大きい。
『梅松論』によれば、
「宮(=護良親王)の御謀叛、真実は叡慮(=後醍醐帝の意図)にてありしかども、御科(おんとが)を宮に譲り給ひしかば、鎌倉へ御下向とぞきこえし。宮は二階堂の薬師堂の谷に御座ありけるが、武家(=足利尊氏)よりも君(=後醍醐帝)のうらめしくわたらせ給ふと御独言(ひとりごと)ありけるとぞ承(うけたまわ)る」
ということです。

このように、武力および政治上の権謀述数を駆使して政治を行なうことを、「王道」に対して、古来「覇道」と言います。

したがって、「王道」を理想とする新井白石など、江戸時代の学者の評価では、後醍醐帝は「不徳の君」だった。

それでは、明治維新後の天皇は、どのような存在であるべきとされたのか、あるいは、存在であったのか。
これに関しては、また別の機会に。

森茂暁(もり・しげあき)
『後醍醐天皇―南北朝動乱を彩った覇王』
中公新書
定価 714 円 (税込)
ISBN978-4121015211

「維新の志士」と天皇機関説

2007-09-16 04:00:55 | History
明治帝が、日清戦争開戦時、伊勢神宮と孝明天皇陵とに報告の勅使をさしむけることを拒否して、
「かくの如くもともと不本意ながらの儀なれば、おそれながら神明へ申上候事は、はばかるべし」*
と言ったことは、知る人ぞ知るエピソードです。

つまり、
「不本意ながらの儀とありますが、これは婉曲な表現で、はっきりいえば『義戦にあらず』という意味です。(中略)憲法はすでに発布され、内閣に輔弼される立憲君主として、明治天皇は開戦に反対を唱えることは、制度上、できなかったのです。そのかわり、伊勢神宮と孝明天皇陵への勅使派遣を拒みました。義戦にあらざる戦争のことを、父や祖先の霊に告げることをいさぎよしとしなかったのです。」(陳舜臣『中国の歴史 14』平凡社)

また、もっとはっきりした発言としては、
「このたびの戦いは、大臣の戦いであって、朕の戦いではない」
というものもあります(こちらの発言の方が、有名かもしれない)。

一方、その大臣たちは、
「蓋し国家独立自営の道に二途あり、第一に主権線を守護すること、第二には利益線を保護することである。この主権線とは国の彊域をいひ、利益線とは其の主権線の安危に密着の関係ある区域を申したのである。およそ国として主権線及利益線を保たぬ国はござゐませぬ。方今列国の間に介立して一国の独立を維持するには、独り主権線を守禦するのみにては、決して十分とは申されませぬ。必ず利益線を保護致さなくてはならぬことと存じます。」(山県有朋。明治23(1890)年の施政方針演説)
との考えを持っていたのね。
つまりは、日本の利益線は朝鮮半島にあり、この独立が失われるならば、
「我が対馬諸島の主権線は頭上に刃を掛くるの勢い」
となってしまう、と認識していたわけです。ですから、朝鮮の宗主権のある清国が、当時最大の仮想敵国だった。

しかし、この明治帝と大臣たちとの認識の違いは、何ら問題になることなしに、明治27(1894)年には、実際の日清開戦となるわけです。

なぜ問題にならなかったといえば、天皇は憲法上の立憲君主だったから、というのが、教科書的な答え。
確かにそのとおりなのですが、ここには、明治帝は、維新時に担がれた神輿だったという、かつての「維新の志士」たちの意識/無意識的な心理も大きく働いていたのではないのか。

そのような意見を述べているのが、次のような文章。
「伊藤博文と並ぶ元勲である山県有朋は、天皇(明治天皇・大正天皇)や皇族に対して、しばしば不遜な言動をとっていたという(典型的な事例としては「宮中某重大事件」がある。一風斎註)。山県のそのような言動の背後には、武力によって討幕をなしとげ、新政府を形成した革命家(=「維新の志士」。一風斎註)としての自負があったのだろう。山県にとっては、おそらく幕末から大正期にいたるまで、皇室はつねに権謀の対象でしかなかったではあるまいか。」(礫川全次『史疑 幻の家康論』

そして、「維新の志士」たちがいなくなるにしたがって、天皇親政論が台頭してくる(「昭和維新」)。

このような観点から、天皇親政論と天皇国家機関説とを読み解くことも可能でありましょう。

*ドナルド・キーン『明治天皇』下巻には、次のように書かれています。
「天皇の宣戦の詔勅が公布された直後、宮内大臣土方久元は天皇の御前に伺候し、神宮ならびに孝明天皇陵に派遣する勅使の人選について尋ねた。天皇の応えは、次のようなものだった。
『其の儀に及ばず、今回の戦争は朕素より不本意なり、閣臣等戦争の已むべからざるを奏するに依り、之れを許したるのみ、之れを神宮及び先帝陵に奉告するは朕甚だ苦しむ』と。」


カラクリ師たちの飛行器械

2007-09-02 09:49:29 | History
今回は、前回までの記事「江戸のタワー・ジャンパーたち」の補遺であります。

タワー・ジャンパーたちは、グライダーのような滑空飛行をめざしていたわけですが、江戸時代、一方では模型の飛行器械を作ろうとする動きもありました。

ただし、実際の飛行機製作は、ライト兄弟のように、これらの動きが一つになって行なわれたわけですが、日本の場合には、それぞれが単独の動きでしかなかった。「日本の航空機の父」と呼ばれる二宮忠八の場合も、飛行機製作への取組は「玉虫型飛行器」という模型から始まっています。

しかし、問題は動力です。
ガソリン・エンジンが実用化されるまでには、江戸時代からは、まだかなりの時間が掛かります(1878年、オットーによって発明される)。

そこでカラクリ師たちが使ったのが、ゼンマイ動力。したがって、この流れは、どうしても実用化という方向ではなく、玩具という方向へ行ってしまう。しかも、羽ばたき飛行であって、プロペラののような次元の違ったことは、遂に発明されずに終わってしまった。
そこは、カラクリ師たちの業績を、あまり過大評価しない方がいいでしょう。

さて、カラクリ人形芝居というものが、かつてありました。
その中でも有名なのが、大坂の「竹田からくり座」。17世紀半ば頃から開演されていたといいます。

そのカラクリ人形の製作に携わっていた中に、18世紀半ばの竹田近江掾という人がおりました。
竹田近江掾は、
「砂時計に成功し、更にからくり時計を仕上げた。」(三田村鳶魚『歌舞伎に加わった機械力』)
といいます。

そして、
「ぜんまいとけいからくりは竹田近江掾、鳥を作て空中をとばす、はさみ箱より乗物を出し、人をのせて人形にかゝす事をなす。」(『棠(からなし)大門屋敷』)
と記録されているような、カラクリ仕掛けの鳥を考案します。
詳しくは分りませんが、おそらく羽ばたき式で飛行するものだったのでしょう。

前述したように、ここから、実際の飛行機械への発展を見ることはなかったのですが、江戸の人々の好奇心の有り様がうかがえるとは思えます。

江戸のタワー・ジャンパーたち その4

2007-09-01 08:13:00 | History
以上のほかにも、寛政年間(1789 - 1801) の記録に、
「鳥の飛ぶ事を学びし者、さいつ頃城南二井田村にあり。一農民工夫して一羽の乾鵲(からす)を得て首尾両翼より其胴体を分量におのれ骸(からだ)へ較べ配当し、双翅を作り両の肩に結び腕にそへて飛ぶことを習ひしに、はじめは難かりしが、漸々調練して、のちには下より上へ飛んは難れども、上より下へ下らんには、伏翼して飛べば小山の上高き勾欄屋梁などよりは四、五丈乃至は六、七丈も安す安すと怪我なくなせしとなん。」(人見蕉雨『黒甜瑣語』)
というものがありますし、また、茨城県やたべ市の飯塚伊賀七(「からくり伊賀」)が、
「筑波山から谷田部までを滑走する計画をたて、藩に許可を求めたが、認められず禁止させられた。」(茨城県立つくば工科高等学校HPより)
との史料もあるそうです(小生未見)。

まだ、このほかにも調べれば日本各地に同様の記録がありそうです。

以上、ご紹介したのは「タワー・ジャンパー」だったわけですが、特殊な例として、熱気球あるいは水素気球を造り、空を飛ぼうとした人物もいます。

文政年間(1818 - 30)に、「空翔ける風船」の考案に関して幕府に上申したのが、近江国国友村(現・滋賀県長浜市)の鉄砲鍛冶職人の親方(「年寄脇」)国友一貫斎(1778 - 1840)です。

一貫斎は、鉄砲の面では空気銃、天体観測の面では反射望遠鏡を製造したりと、当時の西欧科学の成果を実際に試作した人として、その分野では有名です。
その一貫斎が、『環海異聞』『紅毛雑話』などの書物の挿絵で、ジャック・シャルルの水素気球や、モンゴルフィエの熱気球を見て、日本でも試作しようと思い立った(モンゴルフィエの人類初の浮揚飛行が1783年)。
上述のように幕府に上申したものの、その結果は思わしいものではなく、結局実験は行なわれませんでした。

それにしても、挿絵を見て(もちろん、蘭学者などよりの説明はあっただろうが)、実際に作ってみようとした実験精神には驚かされるものがあります。

上述したように、民間での「空への憧れ」「飛行への意欲」が、その後も続き、明治時代以降の民間での「空飛ぶ機械」制作への動きへと続いていくわけです(二宮忠八、奈良原三次、伊藤音次郎など)。