大岡昇平の「現代史としての歴史小説」(『歴史小説論』所収)によれば、現代の歴史小説の2類型は、
そして、具体的な歴史小説は、
「この二つの極の間に、無数の変種、中間種」
として存在するわけ。
それでは、この作品集『またぎ物見隊顛末』に収められた3編は、どうでしょうか。
『李陵』は史書を基にした漢文脈の叙事詩的文体です。
登場人物は、これまた錚々たるメンバー、漢の武帝、史家司馬遷や軍人李陵。
これに対して、『またぎ物見隊顛末』では、南部の斗内またぎの頭・大蔵、「抱(かかえ)の打手の与吉と勢子の多作」。
この一種荘重な文体と、登場人物とのギャップとが、そこはかとないユーモアを生んでいくのですが、それはともかく……。
ストーリー自体は、戊辰戦争中および戦後に、登場人物が巻き込まれる不条理なできごと、ということで、どの時代にも、庶民には起こりうること、という筆致で描かれています。
しかし、方言の導入について触れたように、全体の描写が近代リアリズムに貫かれていますから、「伝奇小説」ではない。
という結構、凝った文章と複雑な内容を持った小説となっています。
特に、第3編の「勝手隊救援隊始末」は、ラ・マンチャの「騎士」ドン・キホーテと、その従者サンチョ・パンサを思わせる主人公たちが、硬直化した藩制度・武家作法を行動で批判するという、なかなか面白い一編になっています。
それが成功しているのは、先程述べた、文体と登場人物とのギャップとが、藩制度・武家作法と登場人物とのギャップとに重なっていることにもよるのでしょう。
「A.過去の再現という、歴史の線に沿ったもの。ということになります。
この場合、近代的レアリズムは、場面と人物の再現について、歴史に協調的に働く。
B.現代社会の諸条件では不可能な状況を、歴史をかりて設定し、人間のロマネスク衝動を満足させるもの。」
そして、具体的な歴史小説は、
「この二つの極の間に、無数の変種、中間種」
として存在するわけ。
それでは、この作品集『またぎ物見隊顛末』に収められた3編は、どうでしょうか。
「漢(かん)の武帝(ぶてい)の天漢(てんかん)二年秋九月、騎都尉(きとい)・李陵(りりょう)は歩卒五千を率い、辺塞遮虜(へんさいしゃりょしょう)を発して北へ向かった。阿爾泰(アルタイ)山脈の東南端が戈壁沙漠(ゴビさばく)に没せんとする辺の磽(こう)かく(「石」に「角」)たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風(さくふう)は戎衣(じゅうい)を吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。漠北(ばくほく)・浚稽山(しゅんけいざん)の麓(ふもと)に至って軍はようやく止営した。すでに敵匈奴(きょうど)の勢力圏に深く進み入っているのである。」というのは、中島敦の『李陵』の出だしですが、本稿前々回に引用した『またぎ物見隊顛末』に雰囲気が似ていないでしょうか。
『李陵』は史書を基にした漢文脈の叙事詩的文体です。
登場人物は、これまた錚々たるメンバー、漢の武帝、史家司馬遷や軍人李陵。
これに対して、『またぎ物見隊顛末』では、南部の斗内またぎの頭・大蔵、「抱(かかえ)の打手の与吉と勢子の多作」。
この一種荘重な文体と、登場人物とのギャップとが、そこはかとないユーモアを生んでいくのですが、それはともかく……。
ストーリー自体は、戊辰戦争中および戦後に、登場人物が巻き込まれる不条理なできごと、ということで、どの時代にも、庶民には起こりうること、という筆致で描かれています。
しかし、方言の導入について触れたように、全体の描写が近代リアリズムに貫かれていますから、「伝奇小説」ではない。
という結構、凝った文章と複雑な内容を持った小説となっています。
特に、第3編の「勝手隊救援隊始末」は、ラ・マンチャの「騎士」ドン・キホーテと、その従者サンチョ・パンサを思わせる主人公たちが、硬直化した藩制度・武家作法を行動で批判するという、なかなか面白い一編になっています。
それが成功しているのは、先程述べた、文体と登場人物とのギャップとが、藩制度・武家作法と登場人物とのギャップとに重なっていることにもよるのでしょう。
この項、了