一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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東京大空襲に想う。

2006-03-10 00:05:34 | Essay
東京大空襲(1945年3月10日)当時、米陸軍の第21爆撃機兵団の指揮官だったのがカーティス・ルメイ少将で、夜間低高度からの無差別焼夷弾爆撃の発案者だと言われる。
戦後ルメイ少将は、
「私は日本の民間人を殺していたのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の家屋はすべてこれ軍需工場だった。スズキ家がボルトを作れば、お隣のコンドーはナットを作り、お向いのタナカはワッシャを作るというぐあいなのだ。ドイツも工場を分散していたが、日本の工業の分散ぶりははるかに徹底したもので、東京や名古屋の木と紙でできた一軒一軒が、すべてわれわれを攻撃する武器の製造工場になっていたのである。これをやっつけてなにが悪いことがあろう」
と、述べている。

これが単なる言い訳に過ぎないことは、主な空襲の目標になった深川区、本所区、神田区、日本橋区、下谷区、浅草区などの下町地区が、商業地域や住宅地域であったことで証明される。たとえ、家内制手工業が見られたとしても、それは日用品などの民需であり、軍需産業につながるものとしては、少数の工場があっただけに過ぎない(軍需生産を行なっていたのは、むしろこれらの地域の周辺、例えば王子、板橋、滝野川、砂町、大島など)。

また、ルメイは、
「無差別爆撃によって、そうした都市を破壊すれば、日本の戦争遂行能力を根絶やしにすることができる。しかも、日本政府と国民の抗戦意欲も、この攻撃によって完全に弱めることができる。それは、日本の降伏を早めるための近道でもある」
とも言う。
しかし、ポツダム宣言受諾は、空襲によって早まったわけではなかった(現在まで、空からの爆撃によって敗北宣言をした国家はない)。

一方、このルメイの発言以前に、次のようなことを述べた人物がいる。
「(決戦戦争の場合には)最も弱い人々、最も大事な国家の施設が攻撃目標となります。工業都市や政治の中心を徹底的にやるのです。でありますから老若男女、山川草木、豚や鶏も同じにやられるのです。かくて空軍による真に徹底した殲滅戦争となります。国民はこの惨状に堪え得る鉄石の意志を鍛錬しなければなりません」
石原完爾の『最終戦争論』である。

けれども、国際法を持ち出すまでもなく、非戦闘員の殺人は、どの国の軍刑法においても違法である。しかも、東京大空襲では、最少の算定でも8万4千人弱(警視庁資料)、最大の見積では約11万5千人以上(「東京空襲を記録する会」推定)の死者が出ている。
大虐殺、大殺戮以外の何ものでもない。
「高度に専門化されたプロフェッショナルである航空兵の場合、その戦闘の特殊性ゆえに、生身の人間を殺したという実感に乏しく、その分だけ戦争に対する罪悪感は一般に希薄だ」(吉田裕『日本人の戦争観』)
と言われる。

それでも、実際のB29の搭乗員による、東京大空襲の際の、
「私たちは、焼ける人肉やがらくたの異臭に息が詰まる思いをしていた」(チェスター・マーシャル『B-29日本爆撃30回の実録』)
との証言も残されている。
ルメイは指揮官として、現場から遠く離れ、このような実感すらなかっただろう。

同様の空からの殺戮は、スペインのゲルニカ、中国の重慶でも行なわれている。
前者は、ナチス・ドイツの空軍によって、後者は日本の海軍航空隊と陸軍重爆撃隊によって。今は本題からそれるので、詳しくは述べないが、後者(「百一号作戦」)の責任者の一人に井上成美(少将・支那方面艦隊参謀長)がいたことだけを指摘しておこう。

このような「戦略爆撃」の延長線上に、広島、長崎への原爆投下、そして、ベトナムへの「北爆」などが続いて行く。

犠牲者の冥福を祈るとともに、これらの事実をも忘れてはならないだろう。