一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

最近の拾い読みから(193) ―『宣告』

2007-11-07 03:46:20 | Book Review
「独房の中、生と死の極限で苦悩する死刑囚たちの実態を抉りだした、現代の“死の家の記録”。
全員が殺人犯のゼロ番囚たちは拘置所の二階に収容されている。死刑宣告をうけた楠本他家雄は、いつ「お迎え」がくるか怯えている。女を崖から突き落とした砂田の暴力、一家四人を殺した大田の発作、そして他家雄の奇妙な墜落感等、拘置所の医官で若い精神医の近木は丹念に見廻る。生と死の極限で苦悩する死刑確定囚たちの拘禁ノイローゼの実態を抉り出した現代の“死の家の記録”。全三巻。」(「出版社からの内容紹介」)
という内容紹介からも分るように、主人公は死刑囚である楠本他家雄(くすもと・たけお)であるという理解が一般的のようです。

けれども、小生は、あえて拘置所勤務の精神科医近木を主人公とする、ビルドゥングスロマンとして読みました。

そうすると見えてくるのは、T. マン『魔の山』との親近性です。

『魔の山』での主人公ハンス・カストルプは、23歳の青年。結核に冒されアルプス山中にあるサナトリウム「ベルクホーフ」に入ります。
そして、その中で、ロドヴィコ・セテムブリーニやレオ・ナフタといった悪魔的人物の思想に出会い「精神の彷徨」を行なうわけです。
それらの登場人物たちは、当時、不治の病だった結核に冒されており、いずれ早晩の死が「保証」されている!

その線でいくと、『宣告』でのサナトリウムにあたるのが、東京拘置所の死刑確定囚収容監房(死刑囚は、死刑が執行されるまでは拘置者である。したがって正確には、死刑確定囚)。
「悪魔的な」(ここでは、近木の精神/思想/心理に根源的な疑問を投げかけるという意味)人物に当たるのが、楠本他家雄ほかの死刑確定囚ということになります。
彼らによって投げかけられるのは「死とは何か、生とは何か」「悪とは何か、善とは何か」「神は存在するか、存在しないか」といった問題です。

まだ成り立ての精神科医である近木は、唯一の「武器」である精神医学の知識を持って(根源にあるのは科学という合理主義)立ち向かうわけですが、死/生、善/悪といった問題には、無力であることに気づきます。
*近木の神についての考え方は、
「ぼくはね、この世に存在するものすべての中に調和があって、その調和として姿を顕わしてくるような神ならば信じているの。しかし、人間の運命を見通し、それを統率するような神は信じられない」
という科白に現われています。

小生、著者がフランスへ医学を学ぶために留学したことは知っていますが、どのような外国文学に影響を受けたかは、よく分っていません(他の作品中にもドストエフスキーへの言及はあったりするが、マンはどうだっただろうか)。
したがって、『魔の山』との比較論がまったくの見当違いに当たるかもしれませんが、そこは読み手の特権として、ここにエスキースを述べてみました。

実にハードな小説ですが、小説内の楠本他家雄の手記には、研ぎ澄まされた美しい自然描写があります(小生、この手の文章は好みです)。
どなたにでも広くお勧めできる内容ではありませんが、選ばれた読者には、はっきりした手応えを感じさせてくれる小説であることに間違いないでしょう。

加賀乙彦
『宣告』(上)(中)(下)
新潮文庫
定価 700+700+700円 (税込)
ISBN978-4101067148+978-4101067155+978-4101067162

最近の拾い読みから(192) ―『雲の都』

2007-11-01 10:14:07 | Book Review
前作『永遠の都』に続き、時田一族の人びとの戦後を描いた小説(T. マンの『ブッデンブローク家の人々』、北杜夫の『楡家の人々』を想起)。

時間的には『永遠の都』が戦前・戦中を舞台にしたのに対し、第一部と第二部では占領下の日本と、独立間もない日本が舞台となります。
したがって、『永遠の都』から読み進むことが、最も著者の意図には合っているのでしょうが、『雲の都』単独でも「物語」として読むことはできます。

第一部と第二部との関係は、第一部が複数視点からの描写(戯曲的記述まで含めて)であるのに対し、第二部は時田一族のいわば「第三世代」(「第一世代」は病院長の時田利平の世代、「第二世代」は利平の長女で小暮悠太の母・初江の世代)、に当たる悠太の一人称記述で、第一部とほぼ同じ時代とその後の時代とを併せて描く形となります。

小暮悠太が精神科医として、大学・セツルメント・精神病院・監獄での体験を通して医者として一人前になっていく部分は、ビルドゥングスロマンであり、また、加賀の自伝的な要素をも含んだ小説となっています。

さて、著者の意図に「全体小説」を描くということがあるそうなので、第一部のような複合視点からの描写が出てくるのでしょうが、視点の混乱、夾雑物の混在とも受けとれないことはない。
古典的な小説としての「結構」としては、第二部の方がすっきりしているとも言えるでしょう。

とりあえず、ストーリーとしては、
「主人公の悠太は、若き精神科医。拘置所で死刑囚に接して悩みを聞く一方で、遠縁にあたる造船会社社長夫人桜子と密会を重ねる。彼はまた、森鴎外、チェーホフなど医師で小説家の作品を愛読し、自らも同じ道を志していた。戦後まもない東京を舞台に、外科病院一族の運命を描き、自伝的要素を色濃くたたえた大河小説の第二部。 」(「BOOK」データベースより)
ということになりますが、それだけではなく、『永遠の都』では謎であった事件の真相が少しずつ明らかになってくるということもあり(精神科医になったため、従兄弟にあたる脇晋助のカルテを見ることが可能になる、など)、なかなか複雑な構成となっています。

ですから、読み手の側としても、どこに重点を置くかによって、見え方が違ってくるという点もあり、なかなか紹介するのも難しい。
まだ、小生としても、うまい補助線の引き方が見つかっていないので、今回はざっとしたスケッチのみで、詳細を論じるのは、またの機会ということに(前作『永遠の都』:文庫版で全7冊を再読する必要があるので)。

加賀乙彦
『雲の都』「第一部広場」「第二部時計台」
新潮社
定価 2,100+2,520円 (税込)
ISBN978-4103308102+978-4103308119

最近の拾い読みから(191) ―『ゼウスガーデン衰亡史』

2007-10-24 01:16:34 | Book Review
日本文学の伝統には、あまり見られなかった「ホラ話」を壮大に描いた作品です(アメリカ合衆国文学/ラテン・アメリカ文学には脈々としてあるようですが)。

気宇壮大さは、物語の主要な時間が、1984年9月1日から始まり、2089年3月にまで及んでいることでお分かりのことと思います(ただし、ゼウスガーデンの滅亡は2075年6月4日に設定)。

ここで例によって、ストーリー紹介と売り文句とを。
「下高井戸オリンピック遊戯場は場末のうらぶれた遊園地だった。しかし双子の兄弟藤島宙一・宙二の天才的な経営手腕と絶妙のコンビネーションにより信じられない急成長を遂げ、ゼウスガーデンと名を変え、ありとあらゆる人間の欲望を吸収した巨大な快楽の帝国となっていった。人類の欲望と快楽の狂走の果てにあるものを、20世紀末から21世紀末の歴史空間を通し、壮大なスケールで描いた三島賞作家の最高傑作長篇」(「BOOK」データベースより)

ゼウスガーデンとは、日本国内に造られた「快楽の帝国」です。
「ゼウスガーデンは今や日本国を完全に凌駕していた。」
そこで最高の価値を持つのは「快楽」。したがって、治外法権まで与えられたこの帝国の興亡は、「快楽」というものの持つ極大から極小に至るまでの諸相を現しています(バブル景気の真っただ中で執筆・刊行されたことを想起!)。
その諸相を、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』に則った歴史叙述の書き方で表現しようとしています。しかし、その書き方は、必ずしも巧くいっているとはいえない。

それでは、なぜ「歴史叙述の書き方」としては巧くいかなかったのか。

その理由は、この小説が「ホラ話」の骨法を踏まえているからです。
特に、この小説では、「過剰さ」が、その骨法の多くをレトリックの面で支えています。
以下のような列挙法 *(ゼウスガーデンの最高幹部会〈元老院〉議員の金銭的腐敗を示す部分)が、そのいい例でしょう。
「公邸、私邸、セカンドハウスと支給され、
その公邸、私邸では、
 メイドから、コックから、ベビーシッターから、家庭教師から、執事から、家令から、運転手から、不足番から、お化粧係から、マニキュア係から、ヘアメイク係から、スタイリストから、照明係から、カメラマンから、アシスタントから、給仕から、お伽衆から、道化から、口上衆から、門番から、送り迎えの自動車から、送り迎えの飛行機から、送り迎えのグライダーから、それらの維持費から、光熱費から、交際費から、交通費から、交遊費から、交合費から、
 とにかく何から何までぜーんぶ鮫入りプールのツケとした上、
 豪華なパーティーを開くわ、豪勢な宴会を開くわ、豪儀な散敗をするわ、豪遊するわ、豪飲するわ、豪食するわ、豪語するわ、芸者をあげるわ、二号を作るわ、三号を作るわ、四号を作るわ、五号を作るわ、六号を作るわ、七号を作るわ、八号を作るわ、九号を作るわ、それでもって妾だけで野球チームを作るわ、野球拳をするわ、猫じゃ猫じゃを踊るわ、逆立ちするわ、立ち小便するわ、あかんべするわ、
 それはもう腐敗の限りをつくしていた。」

*「列挙法はおびただしい量の意味内容を造形するためにおびただしい量のことばを用いる。ことばの量を無理やり現実とつりあわせようとすることで表現を大げさにしている。それによって混乱や繁栄などの現実の複雑さを表現しようとするのである。しかし列挙法はことばの量をふやすことで多くの内容を語っているかのようにみえるが、結果的には文章がいたずらに長くなり、問題の個所がぼやけてしまうこともある。」(佐藤信夫『レトリック感覚』より)

したがって、「過剰さ」という「ホラ話」のレトリックと、歴史的叙述のパロディとしての個々のエピソードをつなげていく構成法とが、妙にちぐはぐで、必ずしも全体として巧くいっているとは言えません。
その面を是正するためには、エピソードの描写により力を入れて(これも「過剰」になるくらいに)、現在の分量を大幅に増やすしか手はないでしょう(井上ひさし『吉里吉里人』を想起!)。

もう一つの方法としては、時間的/歴史的な壮大なスケール感を失うことを敢えて選ぶ、という戦略もあります(その代わりに、空間的なスケール感を生かす)。
その戦略を取って成功したのが、同著者の『カブキの日』だったのではないでしょうか(物語の叙述を、ほぼ1日の出来事に収斂させている)。

小林恭二
『ゼウスガーデン衰亡史』
福武書店
定価 1,575 円 (税込)
ISBN4-8288-2228-3

*元版は現在入手困難。文庫本がハルキ文庫(角川春樹事務所)で出ている。

最近の拾い読みから(190) ―『戦後腹ぺこ時代のシャッター音ー岩波写真文庫再発見』

2007-10-18 03:05:22 | Book Review
サブタイトルどおりに、かつて刊行されていた「岩波写真文庫」という写真を主としたシリーズに著者が再度目を通し、そのテーマに関するエッセイを書いたものです(もちろん、「岩波写真文庫」からピックアップされたページも載っています)。

「岩波写真文庫」についてご存じない方がほとんどだと思いますので、基礎データを示しておきます。
「岩波書店が1950年6月から1958年12月まで刊行していた写真集のシリーズです.B6版モノクロ、当時定価百円、合計286冊が世に出されました。」(「関心空間」より)

著者の赤瀬川氏は「終戦時小学校3年生」ですから、このシリーズが刊行され始めた当時は、「中学、高校、そして上京してからの時間帯」。このシリーズに写し取られた風景には、懐かしさがあるのです。
ですから、エッセイ部分では「昔話」が多くなる。

しかし、小生などは、ここに撮影された光景は、一部懐かしさはあるものの、リアル・タイムで体験したものではありません。
ちなみに、小生がこのシリーズ(の表紙)を見たのは、近くの図書館で。しかも、「大人の書棚」に置いてありましたので、手に取ってじっくりと見たことはなかった。だから、中味を見たのは、近年復刊された『東京案内』などの東京についての4冊が初めて。

それでは、そのような小生が今現在、このシリーズの写真を見て、何が面白いのか。

その第1は、戦後という時期の「リアル感」が捉えられているからでしょう。
「敗戦という事実は、ラジオの玉音放送で知るわけだけど、それは音質の不明瞭さもあり、濃厚な文学性をまとっていた。でもそれをリアルに受けとることになったのは、例の天皇陛下とマッカーサー元帥の併立写真だ。それを見て人々は、いやおうなく敗戦という底点に立ったのだと思う。やっぱり、本当にそうだったのか、ということで、新しい転換が始まる。」
と著者が書いているのが、戦後映像の「リアル感」の原点になるのでしょう。

そういう意味では、第2点として、著者の「映像」論(殊に「戦後映像論」)が、エッセイ部分では興味深いところ。

第3は、第1、第2と比べて、かなり個人的な興味。
つまり、『東京セブンローズ』『下駄の上の卵』といった井上ひさしの「戦後もの」に描写されている被写体が、映像で示されていること(1例としては、本書176ページの「米軍基地の鉄条網の前で、着物姿で花を売る少女」の写真。ただし、実は男の子。「こうしないと花が売れない」からという。たしか、この話『東京セブンローズ』にあったと思う)。

最低限、旧警視庁ビルや旧国技館(両国の「メモリアル・ホール」の方)をご存知の方には、いくぶんなりとも懐旧の思いをもって、まったく見たこともない映像ばかりの方には、戦後映像のごく初期の記録として見る/読むことのできる書籍でしょう。

赤瀬川原平
『戦後腹ぺこ時代のシャッター音ー岩波写真文庫再発見』
岩波書店
定価 1,680 円 (税込)
ISBN978-4000236713

最近の拾い読みから(189) ―『下駄の上の卵』

2007-10-16 05:57:45 | Book Review
2002年8月にNHKで、「焼け跡のホームランボール」と題してドラマ化されたものが放映されたので、本書を呼んでいなくとも、ストーリーをご存知の方がいらっしゃるかもしれません。

とりあえず簡単にご紹介すれば、
「夢にまでみた、真白な軟式野球ボールが欲しい。山形から闇米を抱えて東京に向かう6人の国民学校6年生の野球狂たち。上野行きの列車の中は、満員のすし詰めだった。少年たちの願いもむなしく、二斗の米が…。」(「BOOK」データベースより)
という、昭和21(1946)年の、山形県に住む少年たちの、東京行きの冒険を描いたものです。

ここでは、TVドラマ化されたものと、本書との比較をしてみたいと思います(ただし、映像は記憶に基づくので誤解があるかもしれないが、本質的な部分では誤りはないだろう)。
なぜなら、その違いの背景に、本書の大きなテーマがあるからです。

TVドラマで中心となるのは、米沢から上野までの道中での出来事。
これに対して、本書で中心となるのは、東京についてからのさまざまな困難です。
なぜTVドラマでは、その部分が簡略化されたのか。
それは「地方人が東京人によって騙される」というドラマが、ストーリーの大部分を占めているからです。

本書のページ数で言えば(岩波書店刊の元版の場合)、全470ページ余の内、約200ページがそれに当てられています。
しかし、それを忠実にTVドラマ化するとなると、東京人が悪賢く見えることに間違いはないでしょう。NHKは、そこに配慮を加え、脚本上簡略化した、というのが小生の推測です。

第1の運んできた米の詐取は、渋谷の少年によって行なわれます。
これによって、2斗の米はすべて騙しとられる。
第2の詐欺まがいの商法は、浅草の団子屋によって行なわれ、81円が無理に支払わされることになります。
第3のペテンは、浅草の少年たちの賭場に連れ込まれ、持ち金を掠り取られる。

つまり東京で主人公たちは、
「ハラハラのしどおしだった。渋谷で自分たちから米を欺しとった〈木村弘三郎〉という子、(中略)浅草の〈桃芳(ももよし)〉というダンゴ屋での大食い競争、(中略)リードしたかと思うと逆転され、点を取ってまた先行すればすぐひっくり返され、言ってみれば九対八かなんかのシーソーゲームだった。」

これでは、視聴者からのクレームを惧れて、NHKでは、東京でのシーンを、かなり省略せざるを得ないでしょう。

逆に言えば、そこが本書の一つのポイントにはなっている。
本書は、山中恒や小林信彦などが描いた「学童疎開小説」の、ちょうど裏に当たるのです。
つまり、「学童疎開小説」のほとんどが、東京人(都会人)が地方人にいじめられる内容であるのに対し、本書は、地方人が東京人に騙される、という内容になっています。

井上ひさしの場合は、地方に軸足を置いて〈都会/地方〉という対立のドラマを作った。その際、井上に「農本主義的」「地方主義的」な発想があることは確かでしょう(『吉里吉里人』を参照)。
〈都会/地方〉のどちらに軸足を置くかは別にして、対立軸があることは、ドラマとして必要な要素の一つです。
ですから、TVドラマは、本書にある〈都会/地方〉という対立の軸が定かでなかったため、薄味の仕上がりになっていました。

はたして、地方の方は、本書をどのように読むのでしょうか。

井上ひさし
『下駄の上の卵』(上)(下)
汐文社・井上ひさしジュニア文学館
定価 1,800+1,800 円 (税込)
ISBN4811372345、4811372433

最近の拾い読みから(188) ―『太平天国』

2007-10-11 07:15:04 | Book Review
「吉里吉里国」と形態は違いますが、前回に引き続いて、理想に叶った新国家を建設しようとする物語です。

ここで若干、東洋史の復習を。
「太平天国」とは、19世紀半ばの中国、洪秀全を中心にしてキリスト教的な理想国家を建設しようと、時の清朝政府と南中国を主な舞台にして武力闘争を行なった運動であり、また南京(「天京」と改名)を首府として建設された国家をも意味します(独自の貨幣も発行している)。

目標は、腐敗堕落した現政府を倒し、理想郷を建設することなのですが、そこには現政府が満州族の王朝であることから、「漢」民族主義的な色彩が色濃く出てきます。
キリスト教的な理想と「漢」民族主義と混交したことが、他の反乱とは著しく違って点でしょう。
前者からは千年王国的な考えが出てきますし、後者は以後の民族主義革命(例えば「辛亥革命」など)の先駆とも言えるでしょう。
ちなみに、イギリス外交団はキリスト教の一派として認め(一時は、清朝に対抗しようとする地方政権として、存在を承認しようとする動きもあった)、フランス外交団は非キリスト教であると非難しました。これは、プロテスタントとカトリックとの認識の違いなのでしょうか。

その歴史的な事件を、架空の登場人物・連理文を主人公として描いたのが、この小説です。
彼の立場は、清朝政府側にあるのではありませんが、完全に太平天国内部にあるわけでもありません。いわば、太平天国の「同伴者」=「シンパ」なのです。
したがって、批判すべき部分は批判する、という形態が小説上で取り得るわけです。ただし、小説として正しい取扱いをしているのは、その批判が、近代的な価値観から行なわれてはいないこと(同時代的な批判がなされる)。
その点に、著者の手落ちはありません。

うねりを重ねながら、太平天国は挙兵、勃興、そして没落へと進んでいくわけですが、崩壊した原因として、小説では、
「太平天国が滅びるとすれば、あのはげしい内訌が最大の原因にかぞえられるだろう。内訌がおこるのは、権力闘争があるからで、権力にまつわる権益も少なくないことを物語っている。」
と、連理文の父親・連維材のことばとして語らせています。

幕末期とほぼ同時期に起った事件なのですが、太平天国の影響は、アヘン戦争に比較してほとんどないに等しいといっていいでしょう(高杉晋作が同時期、上海に渡航していた)。
はたして、明治維新に千年王国的な理想はあったのでしょうか。

陳舜臣
『太平天国』
集英社・陳舜臣中国ライブラリー(3)
定価 4,410 円 (税込)
ISBN4081540039

最近の拾い読みから(187) ―『吉里吉里人』

2007-10-10 00:53:00 | Book Review
吉里吉里国というのは、本書に登場する、日本から独立をした国家です。
場所は宮城県の北部、1971(昭和46)年6月上旬に独立した、人口4,187人の小国家、ということになっています。

この国家は、独立の翌日には、主人公の「三文小説家」古橋健二(著者のカリカチュアライズされた人物)の、不用意な発言によって、「国内に形勢不穏の少数民族を抱えているいくつかの強大国」の手で圧殺されることになります。

吉里吉里家が示唆するのは、いくつかの条件(ただし、かなり難しいが)さえ整えれば、国家内に独立することは決して不可能ではない、ということです。
独立するための条件は、小説からは次のように読み取れます。

第一点は、食糧・エネルギーの自給率が100%以上であること。
これは他国(この小説では、日本のこと)に囲まれ、しかも当面は敵対的であることが予想されている以上、当然のことでしょう(「敵対的」でなくとも、できればそうありたい、とする著者の「農本的」な希望が、ここにはかいま見られます)。

第二点は、経済的な裏づけがあること。
小説では4万トンの純金を保有していて、兌換紙幣を発行していることになっています。
したがって、吉里吉里国は一切の経済活動が無税の「タックス・ヘイヴン」であり、各国企業が支社・支店、ホールディング・カンパニーを争って設置するという設定になっています。
この条件は、なかなか難しいものがあります。

第三点は、文化的な優位性があること。
吉里吉里国では、世界でも先端的な医療技術を持っていることになっています。肝移植手術はもちろんのこと、脳髄の移植まで可能な設定です(その他、ガン治療薬なども完成間近)。

そして、以上のような条件を、他の地域でも整えることが可能なように、援助を惜しまない、という方針を採っています(そのために、「国内に形勢不穏の少数民族を抱えているいくつかの強大国」の陰謀が行なわれた)。

こう書いていくと、政治小説かSF小説(ちなみに、昭和56年度の日本SF大賞受賞作)のように思われるかもしれません。

しかし、基調となるのは、著者特有の饒舌を交えたパロディーあり、方言論あり、異文化論あり、医学論ありのごった煮状態。「ひょっこりひょうたん島」の大人版の趣があります。
そう、著者当初の意図は、ちょっと変わった独立国(ある部分で、日本の現状のネガ)の見聞録を書くことにあったのかもしれません。

と思ったにしても、長編になればなるほど、当初の著者の意図を、出来上がりつつある小説は裏切っていくものです。
ですから、吉里吉里国の崩壊を読者が予感し始めるのは、後半も後半、全体の10分の9まで読み進んだ辺りからでしょう。

いずれにしても、2段組で800ページ以上のこの大冊(初版単行本の場合)は、ハラハラドキドキ、ニコニコゲラゲラしながら(この辺、井上調)読み進むことが出来るでしょう。

井上ひさし
『吉里吉里人』(上)(中)(下)
新潮文庫
定価 700+700+740 円 (税込)
ISBN978-4101168166、978-4101168173、978-4101168180

最近の拾い読みから(186) ―『沈黙の宗教-儒教』

2007-10-07 04:09:36 | Book Review
道徳規範と思われがちな儒教の、宗教的側面を指摘し解説した書。

儒教の宗教観の基礎は、東北アジア共通のシャーマニズムにある、とするのが著者の見解です。
「儒教の発生はシャマニズムにある。死者の魂降(たまおろ)しである。しかも魂(精神)降しだけではなくて、魄(肉体)も呼びもどす。そして神主(しんしゅ)に依りつかせ、〈この世〉に死者を再生させる。招魂(復魄)再生である。」
それでは、仏教や道教とはどこが異なるのか。
「この三者の死生観を比べると、意図するものが異なる。仏教は輪廻転生という〈苦しみの連続〉から解脱して、仏となることを目的とする。道教は不老長生という死生観が目的となっており、それを達成できたものが、たとえば仙人である。しかし儒教は、死生観としては招魂再生であるが、それが目的ではない。そういう考えかたを基礎として、現実に生きてあるうちに到達しようとする目標は聖人である。」

このような宗教としての儒教が、日本的仏教の儀式に採り入れられている、というのが、著者の指摘で、小生には「目からウロコ」の部分。

まずは位牌。
これ、仏教的なものと思われているけれど、儒教の〈神主(しんしゅ)〉(招魂再生のための依り代。頭蓋骨の換わり)から採り入れたものだったのね。
その他、献花や燈明、線香なども、儒教的な起源を持っている、というのが著者の指摘。

まあ、本来の仏教ですと、輪廻転生という死生観なので、死者を悼む必要もない。死後49日経てば、もう既に別の存在に生まれ変わっているのですから。

ということで、儒教の持つ宗教性に関して、全般的な知識を得るには有益な書といえるでしょう。
しかし、「〈生命の連続〉の自覚ー孝と利己的遺伝子と」などの節や「儒教から見た現代」の章は、お説教臭くて、鼻白む思いがするのも確かなことです(どうも、この著者、家族制度の崩壊や出生率の低下というものに、過剰な危機感を抱いているようです。それに対峙するものとしての「家の宗教として生きている沈黙の宗教」儒教を説く、という使命感があるみたい)。

加地伸行(かぢ・のぶゆき)
『沈黙の宗教-儒教』
ちくまライブラリー
定価 1,470 円 (税込)
ISBN978-4480051998

最近の拾い読みから(185) ―『東京セブンローズ』

2007-10-06 04:56:36 | Book Review
いくつもの側面から捉えることのできる小説です。

時代は、1945(昭和20)年4月から翌1946(昭和21)年4月までの、丸一年間。舞台は東京、ということになります。
この時代と場所を、根津宮永町の団扇屋の主人・山中信介が、どのように過ごしたかを、彼の日記体で克明に描いていきます(8・15前後に関して、主人公が「思想犯」として刑務所にいたために、記述が省略されているのは、戦前と戦後とを画然と分けるためか?)。

したがって、第一の側面は「風俗小説」。
時代風俗について、実に情報量が多い。
どこを切り取ってもいいのですが、時代のファッションから物価、食糧事情、新聞の論調、などなど。巻末の参考資料を見ても分るように、情報満載です。
ここでは、ちょっと笑ってしまう部分を引用。

1945年5月の三越百貨店に関して。
「『どの階も空地ばかりだ。おまけに売り物ときたら、マナイタだのスリコギだの下駄だの木工品だけじゃないか』
『それでも高島屋さんよりは揃っておりますよ。高島屋さんは全階、軍刀売り場ばかりですから』」

その多くの情報を、日記体の中で、説明臭くなく扱っているのは、井上ひさしの手腕というものでしょう。ただし、若干、それが破綻している部分もある。また、日記体=一人称小説であるため、社会的な上層部や中間層には、目が届き難い点がありますが、これはやむを得ないでしょう。

第二の側面は「日本人論」。
とは言っても、大所高所に立った抽象的なものではなく、敗戦を挟んでの、その信条や感情の変りやすさ、を突いています。
「つい、この間まで神と崇め奉っていた超絶的な存在を、そう簡単に下がかった冗談の種にしていいのだろうか。そうしていいのは、あの時代にも、天皇は神ではないと主張していた者だけではないのか。天皇を現人神(あらひとがみ)と思い、他人(ひと)にもそう思えと強制してきた者が、どんな動機があったにせよ、そば屋で天丼でも誂えるかのようにあっさりと簡単に、天皇かマッカーサーに宗旨を変えて、その上、かつての神を笑いを誘うための小道具にしてしまっていいのだろうか。ひょっとすると日本人は何も本気で信じていないのではないか。そのときそのときの強者に尻尾を振ってすり寄って行くおべっか使いに過ぎないのではないか。」

第三の側面は「日本語論」です。
このテーマに関して、ストーリーの上では、「日本人がローマ字を使い充分にアルファベットに慣れたところで外国語を採用する」という計画を企んでいる、GHQ 言語課ホール少佐の「陰謀」を、いかにして打破するか、という冒険小説的(あるいはコンゲーム小説、推理小説?)な展開を使っています。
この部分が小説後半の山場であり、タイトル「東京セブンローズ」の謂れが明かになる部分でもあります。

以上のほかにも、見方/読み方はいろいろありうるでしょう。
そのような多面的な見方/読み方のできる、井上ひさしのテクストでありました。

なお、小生の指摘した第一、第二の側面について書かれた小説は多々ありますが、第三の側面について書かれた小説は数少ないのではないでしょうか。

井上ひさし
『東京セブンローズ』(上)(下)
文春文庫
定価 670+620 円 (税込)
ISBN978-4167111212、978-4167111229


『吉里吉里人』に目を通していたら、次のような一節がありました。
 作中人物の科白ですが、おそらくは井上ひさしの歴史叙述についての考え方でもあると思われます。『東京セブンローズ』を読むための御参考に、ここに引用しておきます。(2007年10月7日追記)
「自分が生きた時代の事件、人間、思潮、雰囲気、なにかとても大切なあるもの、ちっぽけな、とるにたらない人間だと思われている奴のすばらしさ、偉大な人間だと信じられている奴のみにくさ、自分たちの時代にはなにがおもしろいとされていたか、その時代の人びとはなにを考えていたのか、並べ立てれば際限(きり)はないが、とにかく作家は書かねばならぬと思ったことをそれぞれの流儀で書きつづり、同じ時代の人びとに示し、後世へ残す、もっとも残るものはごくわずかだけど、そうしてその作家がどんな日常を送っていたかによって〈書かねばならぬもの〉が自然(ひとりで)に決まってくる」

最近の拾い読みから(184) ―『西洋音楽から見たニッポン―俳句は四・四・四』

2007-09-28 05:48:31 | Book Review
本書は、日本音楽と西洋音楽との違いを話題の中心とした音楽エッセイです。

著者は、まず日本音楽のリズムを解明するため、俳句の音律の分析から入っていきます。それが副題の「俳句は四・四・四」というフレーズになっているわけですね。
著者の俳句の音律分析に当たってのポイントは、無字数にはこだわらずに、あくまで「音律」のみを対象にすること。
そこから得られた結論が、
「五・七・五のもつ調子のよさとは、じつは四拍子のもつ調子のよさなのである。いってみれば、七・五調というものはリズムとしては存在しない。あるのは四拍子だけである」
ということです。

次に、七・五調の歌詞が今様、和賛から始まり(平安時代末期ごろから)、多くの流行歌にまで引き続き愛好された様を見ていきます。
しかし、その七・五調も今や終焉を迎え、
「日本人の歌は旧来の流行歌から脱し、アメリカの影響のもとにポップ調、フォークソング、ロックなどさまざまな方向に分裂していく、そこに生まれてきた新しい歌は、すでに七と五に捕われない自由律で散文的な歌詞に変わっていた。」

さて、ほぼ以上の第1章から第3章までが、韻文を中心とした日本語のリズム分析ということになります(散文、歌舞伎などの名台詞のリズムについては、第3章で触れている)。

第4章「音楽に国境はある」は、若干内容が異なり、音楽の背景にある文化(主として言語イメージ)の違いについて触れていますので、ここではご紹介は省略。

第5章以降が、以上を踏まえての日本音楽論。
日本の多くの「現代音楽」は、なぜビート(律動)をもたない音楽なのか、ということが話の出だしとなります(著者は、そのような音楽を「ヒュー・ドロン・パッ」音楽と呼んでいる)。
結論的に言えば、著者は、それを日本人の自然観に見ているようです。
「いま日本人の若手の作曲家たちが、突然に三和音も対位法もないヒュー・ドロン・パッを書きはじめたのを見ていて、そのヒュー・ドロン・パッがじつは自然音の無意識的な模写に近いものだと思うとき、明治以来西洋の模倣に模倣を重ねてきた日本人が、西洋の模倣を離れて日本人本来の潜在意識に立ち帰るようになったのかと思えてくるのだが。」

「武満徹が成功して彼の名を世界に知らしめた『ノヴェンバー・ステップス』にしても、聞きようによってはビートのないヒュー・ドロン・パッ的発想の部分に西洋音楽の衣裳を着せたというふうにも、あるいは、ヒュー・ドロン・パッと西洋音楽との相剋とも聞こえるといっていいだろう。」

さて、以上のように著者の分析が進められてきたわけですが、本書全体の結論として、
「こうして流れるような美しい日本語は千年を経て、今、私たちの手の中にある。私たちが受け継いだこの言葉は、私たちが守らなければ、混乱の果(はて)に失われていしまう。」
というのは、いささか陳腐なのではありませんかねえ。
個々の分析に頷けるところがあるだけに、着地が平凡なのは惜しまれるところです。

石井宏
『西洋音楽から見たニッポン―俳句は四・四・四』
PHP研究所
定価 1,575 円 (税込)
ISBN978-4569659541