「独房の中、生と死の極限で苦悩する死刑囚たちの実態を抉りだした、現代の“死の家の記録”。という内容紹介からも分るように、主人公は死刑囚である楠本他家雄(くすもと・たけお)であるという理解が一般的のようです。
全員が殺人犯のゼロ番囚たちは拘置所の二階に収容されている。死刑宣告をうけた楠本他家雄は、いつ「お迎え」がくるか怯えている。女を崖から突き落とした砂田の暴力、一家四人を殺した大田の発作、そして他家雄の奇妙な墜落感等、拘置所の医官で若い精神医の近木は丹念に見廻る。生と死の極限で苦悩する死刑確定囚たちの拘禁ノイローゼの実態を抉り出した現代の“死の家の記録”。全三巻。」(「出版社からの内容紹介」)
けれども、小生は、あえて拘置所勤務の精神科医近木を主人公とする、ビルドゥングスロマンとして読みました。
そうすると見えてくるのは、T. マン『魔の山』との親近性です。
『魔の山』での主人公ハンス・カストルプは、23歳の青年。結核に冒されアルプス山中にあるサナトリウム「ベルクホーフ」に入ります。
そして、その中で、ロドヴィコ・セテムブリーニやレオ・ナフタといった悪魔的人物の思想に出会い「精神の彷徨」を行なうわけです。
それらの登場人物たちは、当時、不治の病だった結核に冒されており、いずれ早晩の死が「保証」されている!
その線でいくと、『宣告』でのサナトリウムにあたるのが、東京拘置所の死刑確定囚収容監房(死刑囚は、死刑が執行されるまでは拘置者である。したがって正確には、死刑確定囚)。
「悪魔的な」(ここでは、近木の精神/思想/心理に根源的な疑問を投げかけるという意味)人物に当たるのが、楠本他家雄ほかの死刑確定囚ということになります。
彼らによって投げかけられるのは「死とは何か、生とは何か」「悪とは何か、善とは何か」「神は存在するか、存在しないか」といった問題です。
まだ成り立ての精神科医である近木は、唯一の「武器」である精神医学の知識を持って(根源にあるのは科学という合理主義)立ち向かうわけですが、死/生、善/悪といった問題には、無力であることに気づきます。
*近木の神についての考え方は、
「ぼくはね、この世に存在するものすべての中に調和があって、その調和として姿を顕わしてくるような神ならば信じているの。しかし、人間の運命を見通し、それを統率するような神は信じられない」という科白に現われています。
小生、著者がフランスへ医学を学ぶために留学したことは知っていますが、どのような外国文学に影響を受けたかは、よく分っていません(他の作品中にもドストエフスキーへの言及はあったりするが、マンはどうだっただろうか)。
したがって、『魔の山』との比較論がまったくの見当違いに当たるかもしれませんが、そこは読み手の特権として、ここにエスキースを述べてみました。
実にハードな小説ですが、小説内の楠本他家雄の手記には、研ぎ澄まされた美しい自然描写があります(小生、この手の文章は好みです)。
どなたにでも広くお勧めできる内容ではありませんが、選ばれた読者には、はっきりした手応えを感じさせてくれる小説であることに間違いないでしょう。
加賀乙彦
『宣告』(上)(中)(下)
新潮文庫
定価 700+700+700円 (税込)
ISBN978-4101067148+978-4101067155+978-4101067162