一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

今日のことば(120) ―久野収

2006-04-30 11:59:43 | Quotation
「出来得るかぎり無暴力であって、しかも徹底的な不服従の態度、出来得るかぎり非挑発的であって、しかも断固たる非強力の組織、これのみが、平和の論理のとるところをやむなくされる唯一の血路である、といわなければならない。人人は、普通このような態度、このような組織を通じて、自己の目的を実現する運動を、《受動的抵抗の運動》Movement of Passive Resistanceと呼んでいるが、平和の論理の積極的な第一歩は、戦争反対の目的のために、この運動を果敢に実行する信念と組織とエネルギーの如何にかかっている。」 
(久野収「平和の論理と戦争の論理」)

久野収(くの・おさむ、1910 - 1999)
哲学者。1934年京都大学文学部哲学科卒業。日本で初めての人民戦線運動を組織し、1937(昭和12)年、治安維持法違反で検挙される。戦後は昭和高商、京都大、関西学院大、神戸大、学習院大などで、論理学・哲学を教え、平和問題懇話会、憲法問題研究会、ベ平連などで指導的役割を果たした。大阪・堺市の出身であることから、2004年、旧蔵書約2,000冊は大阪府立中央図書館に寄贈された。

〈テロリズム〉の定義は何であろうか?

アメリカ合衆国憲法修正第2には、
「規律ある民兵は自由国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵害してはならない」
と「武装の権利」を人びとに認めている(この項目が、アメリカを〈武器社会〉とし、凶悪犯罪の温床ともなっている)。

その武装権の基本的考えは、
「自己および地域社会の生命や財産を守る市民の権利を国家に譲り渡さない」
ということであると同時に
[国家への異議申し立て能力を確保する」
という側面をも持っている。
であるから、市民は、
「政府が圧政に転じたならば、いつでも自己の武器を持ってそれから身を守り、闘い、倒す自由=権利」
を持っているのである。

翻って、現在のイラク国民を考えた場合、アメリカ合衆国憲法が普遍的な人民の権利を示しているとすれば、彼らにも「武装の権利」があるのは当然ということになる。
したがって、彼らには「政府が圧政に転じたならば、いつでも自己の武器を持ってそれから身を守り、闘い、倒す自由=権利」があり、かつ、どのような形にしろ〈侵略者〉をも武器で撃退する権利がありはしないか。
フセイン政権を武器で倒すことは認めても、イラク国民にとって「〈圧政〉を敷く〈侵略者〉」としてしか見えない勢力を武器を倒すことは認めないというのは、ダブル・スタンダードではないのか?

それをも〈テロリズム〉と呼ぶことができるのか?

倫理的/原則的には、久野の述べるように、
「戦争を挑発する勢力が、組織と強制と暴力によって行動するのに対し、平和を守る勢力が、それと同じ仕方で対抗し、相手の挑発に答えて、積極的に戦うとすれば、平和の論理は、原理的には、自らの論理を放棄し、相手の論理に屈服しているのである。」
ということであろうが、現在のイラクにおける〈テロリズム〉を、まだ生きていたとすれば、久野はどのように考えていたのであろうか。

*ちなみに「ハーグ陸戦条約付属書〈陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則〉」の「第一款 交戦者 第一章 交戦者の資格」によれば、以下の4条件を満たした場合、民兵・義勇兵にも条項が適用されることになる(いわゆる「ゲリラ」に適用されない、とするのは誤り)。
 1. 部下の責任を負う指揮官が存在すること
 2. 遠方から識別可能な固有の徽章を着用していること
 3. 公然と兵器を携帯していること
 4. 戦争法規を遵守していること

神田明神と「将門様」

2006-04-29 13:53:21 | Essay
現在の神田明神

明治初期の神田明神を騒がせたのは、祭神の一つである平将門を、別殿に追い払ったという事件である。

明治6(1873)年、神社側は、朝敵が本社の祭神であることを明治政府に憚り、平将門を別殿に移し、その代わりに少彦名命の分霊を迎え入れたい、との願書を提出した。翌明治7(1874)年、その許可が与えられたが、納まらないのは188か町にも及ぶ氏子たち。何しろ、永い間「将門様」と言って崇め奉っていたのである。それが、どこの誰だか知らないような神様を急に迎え入れるなんてことは、神主たちの新政府へのへつらいとしか考えられなかった。
そのため、本社には、さい銭がろくに投ぜられないの対し、本社右奥に新造することになった将門社には、続々と醵金が集まるという始末。将門に対する信仰は、その後も続き、明治17(1884)年の神田祭りが台風で中断されたことさえ、「将門様のたたり」として噂に上った。

新聞紙上にも、
祭神から追い払われた将門様は大の御立腹。『おのれ神主めら、我が三百年鎮守の旧恩を忘れ、朝敵ゆえに神殿に登らすべからず、などと言いて末社に追い払いたるこそ奇怪なれ』と言って、祭りを待ち受けていた将門様。『時こそ来れり』とばかりに、日本全国よりあまたの雨師風伯を集め、八百八町を暴れまわって、折角のお祭りをメチャメチャになさった
などという記事が掲載されるくらいだった。

明治東京人は、本殿の祭神を表面上は敬いながらも、実質は将門社への信仰を中心にして、神田祭りの伝統を保っていったのである(ただし、祭りも近代化の進展には勝てず、明治29(1896)年以降は山車が引かれなくなった。というのは、町々に電線が張りめぐらされて、背の高い山車の通行が不可能になったため)。

このような将門信仰は、江戸時代から盛んなものであった。

*この原稿は『百年前の東京絵図(フォーカス)―21世紀への遺産』(小学館文庫) に書いたものの再録であることを、一言お断わりしておきます。

『地政学入門』を読む。

2006-04-28 01:56:50 | Book Review
本書の初版は、1984年刊行であるから、データ等にはいくぶん古い点がある(特に、旧ソ連関係)。
けれども、小生が、本書を読もうとした動機は、「黒船来航」を「地政学」では、どのように捉えているかを知るためだった。つまりは、19世紀半ばのアメリカ合衆国の外交的意図はどの辺にあるかを、「地政学」で明らかにしているのではないか、と思ったからである。
したがって、旧ソ連に関する部分のデータが古くとも、何ら差し支えないのだが、19世紀中葉のアメリカ合衆国の外交に関する記述がなければ、意味がなくなる。

本書の「第三章 アメリカの地政学」を読んでみる。

まずは〈モンロー主義〉の説明。
「一八二三年に大統領モンローが議会への教書のなかで対ヨーロッパ外交の基本方針を声明した」
その基本方針が、〈モンロー主義〉と呼ばれるもので、
次の3原則からなる。
(1)非植民の原則:南北アメリカ大陸に対する植民地活動の禁止。
 *当時は、太平洋岸を南下しようとするロシア帝国の活動と、それに対抗しようとするスペインのカリフォルニアでの活動が見られた。
(2)非干渉の原則
(3)非介入の原則
つまりは、ヨーロッパとは独自に、アメリカ大陸の活動が行なわれるべきであるとの原則である。

その後、
「アメリカ合衆国においては、その大西洋的な構成要素と太平洋的なそれとをどう調和させるか、という政治的な大問題の発生ををみた。これは、単に文化上の摩擦という理由ばかりでなく、同時に国防上の配慮からも、まさに深刻な考察の対象にならずにはいない。」
「独特のモンロー主義という地政学的な理論は、最初は新大陸にたいする旧半球の政治的干渉を排除することから出発したが、やがて世紀の変わりめ頃から、東半球(イースタン・ヘミスフィア)の勢力に対抗して、西半球(ウェスタン・ヘミスフィア)、つまり南北両アメリカの自主性をいかにして保つか、という新しい命題に対処することを迫られるようになった。」

次に〈モンロー主義〉を受け継いでの「シオドア・ルーズベルト大統領の一九〇四年の年次教書でのべた見解」、つまり〈ルーズベルト・コロラリー〉。
「われわれは、モンロー主義を主張し……極東において戦場を限定するために努力をし、さらに中国の門戸開放を維持することによって、合衆国自身と人類全体の利益のために行動した」
合衆国の極東外交の方針、
「中国の領土保全と政治的独立の保持」
である。

さて、こうして見てくると、〈黒船来航〉は必ずしも合衆国の大方針に基づくものではないことが明らかになる。
〈モンロー主義〉は、あくまでも旧大陸(ヨーロッパ諸国)からと新大陸(南北アメリカ諸国)とを分離させようとするものであり、〈ルーズベルト・コロラリー〉は、〈黒船来航〉より時代的に後の方針だからである。

したがって、〈黒船来航〉は、南北戦争後の合衆国の西部への発展の延長線上にしか考えられないのだが……。

ちなみに、著者には『ペリーは、なぜ日本 に来たか』(新潮選書)なる著作があるようであるので、次にはそちらに当ってみたい。

曽村保信
『地政学入門―外交戦略の政治学』
中公新書
定価:本体660円(税別)
ISBN4121007212

『昭和史 戦後篇』を読む。

2006-04-27 01:12:13 | Book Review
同時代史を書くのは難しい。
というのは、客観的になろうと努めても、どうしても自分が見たことにこだわってしまうからだろう。それは、必ずしも主観的であるというわけではなく、視野や視角に限度が出てしまう、ということだ。

著者も、その点はよくわかっていて、
「結局、わたくしの狭い体験をとおして理解できたものしか話していない。が、経験したからといって、ものが明確にみえるわけではない。」
と「あとがき」で記している。

他の時代に関しては、たとえ自らの見方にバイアスがかかっていようとも、史料という形で、修正していくことができる。
けれども、現代史の場合には、「実際問題としては、データが完全に出切っていない可能性があ」る、というより、出切っていないと諦めた方がいいのだろう。

そこで、「私たちはみんなまさにその時代を生きてきた」という点に足を置いて、記述されているから、本書は前作の『昭和史 1926~1945』とは、幾分色合いが変わってきている。

とは言え、「忘れられ勝ちになっている〈教訓〉としての歴史」を明らかにするという問題意識に変わりはない。
そして、残念ながら、戦後でも、戦前の『教訓』が、生かされていないことも。
「政治的指導者も軍事的指導者も、日本をリードしてきた人びとは、なんと根拠なき自己過信に陥っていたことか(中略)そして、その結果まずくいった時の底知れぬ無責任です。今日の日本人にも同じことが多く見られて、別に昭和史、戦前史というだけでなく、現代の教訓でもあるようですが」(『昭和史 1926~1945』)
「根拠なき自己過信をもち、実に驕慢なる無知であり、底知れぬ無責任であるということです。バブルがはじけてから十年間で私たちがみたのは、政・官・財のまったくの無責任でした。」(『昭和史 戦後篇』)

果して現在の政治指導者に、その『教訓』がわかっているかどうか。

最後に、これから大きな問題となるであろう、この国の外交に関する著者のことばを引いておこう。
「昭和八年(一九三三)の国際連盟脱退以来、日本はなんら外交で苦労もせず、戦後も占領下にありましたし、独立後も一所懸命働くばかりで危険な外交問題を抱えているわけでもない。外交で必死に汗をかいたことがない、というわけで、いまの日本人は外交下手としか思えない。(中略)現在もまた、小泉さんの靖国参拝をめぐって中国や韓国とまずくなり、それがアジア全体に波及しつつある。どうにも手の打ちようのない外交の状態がつづくのを見ますと、国際連盟脱退以降、日本はあまりにも世界情勢について無関心で、そして何かというとどこかの国におんぶにだっこで、修練不足で、不勉強にすぎたのはたしかなことじゃないかと思いますね。」

半藤一利
『昭和史 戦後篇―1945~1989』
平凡社
定価:本体1,800円(税別)
ISBN4582454348

今日のことば(119) ―尾崎行雄

2006-04-26 10:29:50 | Quotation
「彼等は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へてありまするが、其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」
(1913年、桂太郎に対する弾劾演説)

尾崎行雄(おざき・ゆきお、1958 - 1954)
政治家。号は咢堂(がくどう)。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。
慶応義塾中退。新聞記者から官僚になるが、「明治十四年の政変」(1881) で下野。立憲改進党の創立に参加、第一回総選挙で衆議院議員となる(その後、連続当選25回)。1903(明治36)年、東京市長の職に就く。1913(大正2)年、憲政擁護運動の中心となり、上記の弾劾演説を行なう。その後、普通選挙運動の先頭に立つ。1922(大正11)年、犬養毅の革新倶楽部に属するが、政友会との合併に反対し離党、以後、無所属として一貫する。戦時中、大政翼賛会による選挙を批判、戦後に、名誉議員の名称を送られる。

尾崎行雄によって批判された、桂太郎に代表されるような、政治的態度には、近代天皇制のはらむ問題の2面が現われている。

その1面は、天皇の神聖視(「現人神」化)、「国家神道」の崇拝対象としての天皇観である(国家機関としての〈天皇〉とは別に、〈神聖天皇〉と呼ぶことも可能であろう)。
このような「国家神道」は、
「日本は太陽神の子孫(=天皇)の永遠に統治するところであり、世界の中心である。と同時に、その秩序原理は世界全体を覆い尽くすべきである」(三谷博『明治維新とナショナリズム』)
という観念を中心に据えている(「国体」観念)。

したがって、「玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へ」ることが、有力な政治手段となり得る(〈神聖天皇〉の権威を借りた、より極端な例としては「統帥権干犯問題」を想起)。

また、もう一面は、政治家・官僚の無責任体質に結びつく、明治憲法上の政治構造の問題である。

明治憲法上、政治家・官僚は天皇に対して輔弼(ほひつ。天皇の権能行使に対し、助言を与えること。 「国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任ず」)する責任しかない(下世話な言い方を敢えてすれば、政治家・官僚は天皇に下駄を預けてしまうわけである)。
そして、輔弼された(下駄を預けられた)天皇は、「天皇無答責(責任を問われない規定)」を憲法で定められているため、ここで最終的な責任は雲散霧消してしまう(憲法論で天皇の戦争責任はない、とする論拠はここに存する)。

丸山真男の言う「無責任の体系」である(丸山は、より精緻に「既成事実への屈服」と「権限への逃避」という要素に分けて分析しているが、大掴みなところでは、上記の内容に誤りはあるまい)。

ちなみに、小生が今読んでいる半藤一利『昭和史 戦後篇』には、
「戦後盛んに言われた日本の無責任体制そのものといいますか、実際の日本の政戦略はどこにも責任がない、果して誰が真の責任者なのかわからない形で決められていったのです。ちょうど玉ねぎの皮を一枚一枚剥(む)いていくと、最後に芯が亡くなっていって雲散霧消するようなもので」
との記述がある。

尾崎行雄のこの弾劾演説には、そこまでの射程があったように思える。

「東京裁判」とは何だったのか?

2006-04-25 11:37:47 | Essay
「東京裁判」法廷での東条英機

半藤一利『昭和史 戦後篇』も、第六章「東京裁判」についての章に入ってくる。

「東京裁判」(極東国際軍事法廷。1946年5月3日開廷、1948年11月12日判決)が、きわめて政治的な性格をもった裁判であったことはいうまでもない。

半藤著によれば、「東京裁判」には次の3つの目的があったとする。

(1)「日本の現代史を裁くため、裏返せば、連合軍のやってきたことが正義だったと再確認するため」
(2)「自国民を納得させるための一種の復讐の儀式」
(3)「何も知らせれていなかった日本国民に事実を教え、侵略的軍閥の罪状を明らかにし、啓蒙すること」

しかし、政治的であるがゆえに、
「マッカーサーの昭和二十一年一月二十五日付の手紙を受けたワシントンの三省(国務省、海軍省、陸軍省)委員会で、すでに天皇はセーフ――裁判にはかけない、戦争責任は追及しない――と決まっていた」。
そこで、
「御前会議の決定も無視され、検事局が当初仕立てた共同謀議そのものもあやふやになってしまいました。」

第2の問題は、前述の(3)の目的に合致させ、「合衆国が彼らの解放者であると知らせる」ため、「国民の罪は一切問わ」なかったことである。
それゆえに、国民の間には、戦争に関しては被害者意識のみが残り、痛切な加害者意識が生まれなかった。

第3の問題は(1)との関係で、アメリカによる明らかな戦争犯罪(どの国の軍事刑法においても、非戦闘員を殺害することは、犯罪と規定されている)、大都市への無差別空襲と原爆投下、が誰からも追及されなかったことである。
この追及がなされなかったことは、アメリカにとっても不幸なことではなかったのか。
もし、それが行なわれていれば、その後のベトナム戦争、イラク戦争などの様相は変わっていたかもしれない。

このように「東京裁判」は、連合軍の政治的思惑の働いたものであったのだが、それでは、日本の側に、戦争犯罪を裁くという動きは全くなかったのだろうか。
小生、本書で初めて知ったことであるが、
「幣原内閣の岩田宙造司法大臣と次田大三郎書記官長(いまの官房長官)が中心となって、密かに『戦犯自主裁判案』を作り、しかしこれを内閣でやるわけにはいきませんから、天皇陛下の詔勅を仰ぎ、すなわち勅令によって行なう計画を立てました。」
けれども、昭和天皇による
「昨日までの臣下の者を今日は裁くということはできない」
とのことばにより、「せっかくの案は返されて、完全にポシャってしまいました。」
ということである。

以上の事情を考慮に入れた上で、それでもなお、
「東京裁判」での「この陸軍の大陰謀という仕立て上げは、もちろん、相当の無理があります。ただ繰り返しますが、全員が殉難者かといえばそれは違うでしょう。国を亡ぼし多くの人びとを死に追いやった、その責任は確実にある」
だろうし、
「当時の日本国民が本気になって戦争責任を追及する裁判をしたら、私は、もっと判決が絞首刑の人が多く出たんじゃないかと思います。」
との半藤氏の推測もなされるわけである。

「国体」とは何だろう。

2006-04-24 00:09:25 | Essay
連合軍最高司令部(GHQ)の置かれていた第一生命館。

4月22日の本ブログ「現実主義的な、あまりにも現実主義的な」に引き続いて、半藤一利『昭和史 戦後篇』を読んで思ったこと。

第2章からは、新憲法成立の話になる。
第一に出てくるのが、日本の「国体」をどうするか、という課題。
この課題は、ポツダム宣言を受諾するか否かという時点から、「国体護持」の連合国による保証という形で、重要視されていた。

それでは「国体」について、当時の人はどう考えていたのか。
半藤著によれば、
「簡単に言えば、明治憲法にある天皇の国家統治の大権のことです。」
となる。
天皇大権には、
「第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」
「第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」
「第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行ウ」
以上の3か条を中心にして、
「立法(第五条)、司法(第六条)、行政(第十条)、軍事(第十一条、第十二条)、宣戦・講和(第十二条)などが規定されていて、その全体をひっくるめたのが日本の国柄でありました。」

これを「国体」としているわけだが、実際には、憲法には表現されていない「国家神道」というものもあるだろう。
いわば憲法上の狭義の「国体」と、信仰的な「国家神道」(靖国神社という宗教施設や教育勅語なども含まれる)も含めて、広義の「国体」と呼んだ方がいいのではないか(ただし「万世一系」などという用語に、「国家神道」的なものが現われてはいるが)。

というのは、江戸時代の国学・水戸学などでの「国体」という語の使い方を考えると、そこまで含ませた方が、伝統的な意識での「国体」概念に近くなる(というより、明治時代、憲法という形で、その一部を「近代化」したと考えた方が正しいか)。

おそらく、ポツダム宣言受諾論議の際に、「国体護持」ということばから、支配者たちの頭に浮かんだのは、狭義の「国体」ではなく広義の「国体」であっただろう。
そして、また多くの知識人においても。

半藤著から、斎藤茂吉(1882 - 1953)の日記を引こう。
「正午、天皇陛下聖勅御放送、はじめに一億玉砕の決心を心に据え、羽織を著(き)て拝聴し奉りたるに、大東亜戦争終結の御聖勅であった。ああ、しかれども吾等臣民は七生奉公としてこの怨み、この辱(はずか)しめを挽回せむことを誓いたてまつったのであった。」

アイルランド民謡と「イースターの反乱」

2006-04-23 11:01:32 | Essay
1916年の〈イースター宣言〉。
「アイルランド共和国暫定政府からアイルランド国民へ」
とある。

アイルランド民謡には、『グリーンスリーヴズ』をはじめとして、『ロンドンデリーの歌』(ダニー・ボーイ)、『庭の千草』(ザ・ラスト・ローズ・オヴ・サマー』など、学校唱歌や賛美歌を通じて身近なものが多い。
というのは、基本的に5音音階であるため、日本の伝統的な音階と近く、明治時代の洋楽導入に際して、意識的に採用されたからのようだ。

しかし、アイルランド民謡を集めたアルバムなどを聴くと、まだまだ知らない曲がたくさんあることに驚く。
特に、踊りを伴ったリズミカルな楽曲は、ほとんど日本には導入されなかったんじゃないかしら。

そのような、日本人に知られていないアイルランド民謡の1つに、"The Foggy Dew" がある(イングランド民謡の "The Foggy, Foggy Dew" とは別の曲)。

この歌の歌詞、伝統的なものからして、アイルランドの反英感情を表している。
けれども、その歌詞も1916年4月24日の「イースターの反乱」以降は、英国を露に攻撃したものに変化する(一種の「替え歌」が作られたわけですな)。
というのは、この日、武装したアイルランド人男女1,000人以上がダブリンの中央郵便局などを占拠し、アイルランド共和国の成立を宣言する、という歴史的に重要な、英国に対する反乱が起きたから。
この反乱は、英国の圧倒的な武力の前に鎮圧され、首謀者は銃殺されるという悲劇的結果に終った。

その背景には、アイルランドを植民地化した英国に対しての反感が、第一次世界大戦の勃発(アイルランドに徴兵制が導入された)を契機にして高まっていたことがある。

それまでに、英国では産業革命が進展し、工業化と都市化とが進んでいったのに対して、アイルランドの工業はほぼ壊滅、急増する人口は辛うじてジャガイモで支えられている、という状態だった(これが、19世紀半ばのアメリカ大陸への大量移民につながる)。

アイルランド独立の動きは、この反乱後、一般市民の間にも広がり、1918年の総選挙では、反乱に加わったとされたシン・フェイン党が、アイルランド議会の4分の3を占めるという結果を生んだ。

そのような中から生まれたのが、新しい歌詞の "The Foggy Dew" だったわけである。

 The Foggy Dew

 'Twas down by the glen one Easter morn,
 To a city fair rode I,
 When Ireland's lines of marching men
 In squadrons passed me by,
 No pipe did hum and no battle drum
 Did sound its dread tattoo.
 But the Angelus bell o'er the Liffey's swell
 Ran out in the foggy dew.

 Right proudly high over Dublin town
 They hung out a flag of war;
 'Twas better to die 'neath an Irish sky
 Than at Suvla or Sudel Bar.
 and from the plains of Royal Meath
 Strong men came hurrying through,
 While Britannia's sons with their long ranging guns
 Sailed in from the foggy dew.

 'Twas England bade our wild geese go
 That small nations might be free;
 Their lonely graves are by Suvla's waves
 On the fringe of the grey North Sea.
 But had they died by Pearse's side
 Or fought with Valera true,
 Their graves we'd keep where the Fenians sleep,
 'Neath the hills of the foggy dew.

 The braves fell, and the solemn bell
 Rang mournfully and clear
 For those who died that Eastertide
 In the springing of the year.
 And the world did gaze in deep amaze
 At those fearless men and true
 Who bore the fight that freedom's light
 Might shine through the foggy dew.

現実主義的な、あまりにも現実主義的な

2006-04-22 12:04:14 | Essay
「丸腰にサングラス、コーンパイプを手にして」
厚木飛行場に降り立ったマッカーサー(1945年8月30日)

この国の人々が、現状追認的であり、それを現実主義だと思っているかは、今に始まった話ではないようだ。

というのは、半藤一利『昭和史 戦後篇』を読み出して、すぐに痛感するところ。
「八月十七日、天皇陛下命令つまり大元帥陛下命令として日本陸海軍に対して武器を置け、これ以上抵抗すべからず、と武装解除の命令が出ました。それが実行されるのに反乱らしい反乱はほんのわずかしかなく、命令を受け賜って、日本の軍隊はどんどん解散していきました。(中略)それは見事なくらいで、あれよあれよという間に復員軍人が故郷へ返されました。まあ不思議なくらいに言うことをきいたんですね。」

軍隊は大元帥の統帥下にあるから、それは当然という意見もあるかもしれない。しかし、満州事変以来、いかに軍隊が「擅権(せんけん)ノ罪」*を行なってきたかを考えれば、そう簡単に納得するわけにはいかない。

*「第35条 司令官外国二対シ故ナク戦闘ヲ開始シタルトキハ死刑二処ス
  第36条 司令官休戦又ハ講和ノ告知ヲ受ケタル後故ナク戦闘ヲ為シタルトキハ死刑二処ス
  第37条 司令官権外ノ事二於テ已ムコトヲ得サル理由ナクシテ擅二軍隊ヲ進退シタルトキハ死刑又ハ無期若ハ7年以上ノ禁錮二処ス 
  第38条 命令ヲ待タス故ナク戦闘ヲ為シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ7年以上ノ禁錮二処ス」(『陸軍刑法』「第2章 擅権ノ罪」)

しかも、それは軍隊に限った話じゃあない。
「いわゆる『良家の子女』たちになにごとが起こるかわからないというので、その "防波堤" として、迎えた進駐軍にサービスするための『特殊慰安施設』をつくろうということになりました。そして早速、特殊慰安施設協会(RAA) がつくられ、すぐ『慰安婦募集』です。いいですか、終戦の三日後ですよ。」
しかも、その音頭をとったのが、内務省の役人たち。

原理原則は関係なしに、状況に適応するのが素早いというのか、いい加減というか、こういう面が現在も未だに残っているんじゃないだろうか。
しかも、それは現代に限ったことではなく、どうやら黒船来航の時から、外圧に対する対応のしかたという面では変わりがないらしい。

こうなってくると、つむじ曲がりの小生としては、原理原則を守った人たちの肩を持ちたくなってもくる。

世界の大部分の国々は、どちらかと言えば、原理原則を守る側の方が多数派のようなのだが、如何なものだろうか。

今日のことば(118) ― H. J. マッキンダー

2006-04-21 11:45:18 | Quotation
「東欧を支配する者はハートランドの死命を制する。ハートランドを支配する者は世界島(ワールド・アイランド)の運命を決する。そして世界島を支配する者はついに全世界に君臨するだろう。*」
(『デモクラシーの理想と現実』)

 *Who rules East Europe commands the Heartland :
  Who rules the Heartland commands the World-Island :
  Who rules the World-Island commands the World.


H. J. マッキンダー(Halford J. Mackinder, 1861 -1947)
英国の地政学者。「現代の地政学の開祖」ともいわれる。
「一八六一年に英国のリンカーンシャーで生まれた。若い頃から周囲の自然が好きで、とくに生物学に深い興味を寄せたが、オックスフォード大学では法律を学んで、弁護士(バリスター)の資格を得ている。しかしながら、その後も彼の英国の自然にたいする関心と情熱はやみがたく、広く国内を旅行して、自然科学と人間社会を結びつける中間的な概念としての "新しい地理学(ニュ―・ジオグラフィー)" を提唱し、学会の注目をひいた。とりわけその『英国と英国の海』(Britain and the British Sea, 1902) は、彼の自信にみちた作品で、英国の地理学をはじめて学問の体系として浮上させた名著として知られている。
(中略)
さらに彼は一九〇四年に、その頃ロンドン大学に新設された政治経済学院(the London School of Economics and Political Science) の院長に就任し、その後約二〇年にわたって同学院の経営に専念するかたわら、経済地理の講義をつづけた。この学校の卒業生や留学生のあいだからは、やがて英本国ばかりでなく、英連邦諸国の政治家や外交官が輩出しているので、その令名は世界的に名高い。」(曽村保信『地政学入門』)

地政学というと、どうしてもカール・ハウスホーファーのような誇大妄想的な学問を連想してしまう。しかも、ナチス・ドイツの東欧侵略の片棒をかついだというイメージが強いので、より一層怪しげな/トンデモな学説と思ってしまう。

けれども、マッキンダーを開祖とする英国系の地政学を見てみると、ごく常識的なことがらを地理学や政治学の用語で語っているに過ぎないことがわかる。
特に、
「彼の地政学を一貫しているのは、主として交通の手段を意味するコミュニケーションの発達が、いかに歴史を変えてきたか」(曽村、前掲書)
という問題意識から生まれてきたことを知れば、一層のことであろう。

このような見方で、日本の歴史を考察するとどうなるか。
曽村の前掲書には、小生の興味関心のある「開国」前後から明治維新にかけての記述はないが、日露戦争については、次のように述べてある。

19世紀のロシア帝国(すなわち、マッキンダーの言う「東欧を支配する者」)は、政治的支配力を失いつつあったオスマン帝国のヨーロッパ領をめぐって、バルカン半島への進出を狙っていた(これを「ロシアの不凍港獲得のための南下政策」と見るのは当らない。ランド・パワーであるロシアの、ユーラシア大陸の心臓部(ハートランド)の支配権を獲得しようという動きなのではないか)。

そして、ロシアと同一方向への進出線を持っていたのが、ドイツ帝国。
また、ロシアとドイツとの関係はといえば、
「当時のロシアはドイツからの借金で首がまわらず、また国内の産業もドイツの資本に押さえつけられていて、そのままでゆけば、いずれヨーロッパは、完全にドイツの勢力範囲のなかに吸収されてしまう心配があった。それでロシアは、一八九四年にフランスと秘密同盟を結んで、バランスの回復をはかろうとした。が、一方でドイツの皇帝(カイゼル)ヴィルヘルム二世はその圧力をかわすために、ロシアの宮廷内部の親独的勢力を通じて、しきりに露帝(ツアーリ)ニコライ二世の関心を極東に振り向けようとした。」(曽村、前掲書)
との状況であった。

そこで、シー・パワーである大英帝国と同盟を結んでいた日本が、ロシアとの戦争を起こさざるをえなかったというわけである(つまり、イギリス対ドイツの「代理戦争」を、日本対ロシアという形で行なったのが「日露戦争」だ、という考え方もできる)。

ことほどさように、地政学によって、物の見方が、また違ってくることは確かなことであるようだ。

参考資料 曽村保信『地政学入門―外交戦略の政治学』(中央公論社)