一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』を読む。その1

2006-05-31 00:06:31 | Book Review
タイトルどおり、本書のテーマは大きく2つに分けられる。
第1のテーマは、「ペリー来航の予告情報」のありよう。
そして、第2は「その情報を政治過程で、人々はどのように生かしたか/生かせなかった」ということである。

そこで、著者が述べていることの紹介に移りたいのだが、その前に気になることがある。
著者は、本書の何か所かで、
「『ペリー来航予告情報』の問題は、従来の幕末史の研究書や一般書、辞典類などでもほとんど取り上げられてこなかった。(中略)著者の博士論文『幕末日本の情報活動』(雄山閣出版)によって初めてその歴史的意義が明らかになった」
との内容のことを書いているが、小生が管見した限りでも、山口宗之 『ペリー来航前後―幕末開国史』(昭和63年初版発行)で、この問題に関しては、1章を使って検討されている。
「このベリー来航についてはほぼ一年前オランダより予告され、対策を講じ置くことが要請されており、幕府当局者はいうまでもなく、有志大名・識者層の一部にあっても当然このことを知っていたのである。しかし、事前対策は現実に何ら講ぜられることなく一年後浦賀湾頭に黒船を迎え、周章狼狽の結果その要求に屈して長い鎖国に終止符を打つとともに、幕府中心の伝統的政治秩序を大きく変容させてゆく端緒となった。」(「第1章 ベリー来航予告をめぐる考察」)
などの記述がある以上、プライオリティ(priority)を主張することはできないであろう。

それはさて置き、「ペリー来航の予告情報」は、オランダの新任商館長ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルチウス(Jan Hendrik Donker Curtius, 1813 - 79 )によって、『阿蘭陀別段風説書』として幕府当局に報ぜられたことは明らか。

問題は、その情報がどのような判断をされ、どのように処理されたか、である(この点の分析については、著者にプライオリティあり)。

まず幕府当局に伝えられたものに関しては、
幕府海防掛は「情報源であるオランダそのものへの不信感が先立って、情報を採用すべきではないと最初から色眼鏡で見てい」
ていたし、長崎奉行などは、
「わが国が到底アメリカその他への通商を許可せぬと予想したオランダが一手に日本国産物を引受け、これを他国に転売せんとする貪欲に出たものである」(山口宗之 『ペリー来航前後―幕末開国史』)
と判断していたため、幕府は公式な対策を取るのが遅れた。

その後の老中首座(今日の総理大臣に相当)阿部正弘の行動に関しては、山口と岩下との意見が分かれる。
山口によれば、
「今回の情報も『虚喝』『風聞』にすぎぬと考えたこと、騒ぎたてて幕府内部の評議にかけ何事もなかったなら『閣老軽忽の譏を免れさる』ところとなることをおそれ、秘して諸有司に示さぬを得策としたこと、万一来航したとしても長崎であろうし、長崎ならば従来のごとく拒絶可能と考えたこと、等々の理由によりこれを放置した」(山口、前掲書)
となるし、本書によれば、
「老中首座阿部正弘は、今回のオランダがもたらした情報にはかなり信憑性があるとにらんでいた。」
となる。

別段風説書がもたらされてから、実際のペリー来航に到るまでの情報の伝わり方を見ると、どうやら岩下の方に分がありそうだ。

それでは、別段風説書情報は、どのように伝わっていったか、それは次の機会に述べることにする。

岩下哲典
『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』
洋泉社 新書y
定価:本体780円(税込)
ISBN4862480284

ロマン派の美学はいまだに生きている。

2006-05-30 11:06:29 | Art
Festspielhaus, Bayreuth

「日教組の教育によって洗脳云々」という向きがいる。
これなぞは、完全に個人的歴史の「後智恵」(現在の価値観から、過去の歴史を判断し、裁くこと)に過ぎないと思うが、これとは全く違って、明らかにいまだに教育を含めて、現在を呪縛している「美学」がある。

それがロマン派の美学である。

19世紀ドイツから起こった藝術運動が、ロマン派であるのだが、その美学にはいくつかの特徴がある。

まず第1には、フランス革命に対する反作用としての、文化ナショナリズム。
典型的な事例は、グリム兄弟によるドイツ民話の「発掘」を考えればよろしい。
また、ヴァグナーがゲルマン神話を題材に『指輪』という長大な楽劇を作曲したことを考えてもいい。
これらは、後にナチス・ドイツにもつながる「ドイツの(優秀なる)独自性」を主張したものである("Deutschland uber alles in der Welt ! ")。

第2には「オリジナリティ」という考え方である。
つまり、藝術家個人はすべからく独自性を持つべし、とするもの。
これは作品のみならず、その生き方にも適応される。
背景にあるのは、産業革命の進展によって、血縁/地域共同体から根こそぎされた「個人」の存在である。
血縁/地域共同体を背負った藝術には、共通項としてのハッキリとした「型」が存在した(06年4月19日付け本ブログ参照)。
したがって、「型」は失われた19世紀には、「オリジナリティ」が前面に出てくるのだ。

第3には、藝術の目的を「感動」に置いたこと。
第2の点とも関係してくるが、血縁/地域共同体に存在基盤を置いた宗教は、19世紀には失われつつあった(「神は死んだ」とニーチェは言った)。
その宗教に代わるもの-擬似宗教として、藝術が神殿に奉られる。そこに求められるのは、宗教的法悦にも似た藝術的「感動」!
社会史的に言えば、今日もクラシックの音楽会で見られるような、「敬虔な」鑑賞の仕方は、この時代に始まったもの。

このようなクラシック音楽を典型とした、ロマン派美学のありようは、学校教育を通じて「洗脳」され、現在も再生産されているのだが、そのことを意識している人はあまりにも少ない。
「現在を呪縛している」と小生が言う由縁である。


記事内容と関係はありませんが、
今村昌平さんがお亡くなりになったそうです(asahi.com)。
謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌。

「軍楽」から西欧音楽導入が始まった。その5

2006-05-29 09:45:48 | Essay
昭和18(1943)年10月21日に行なわれた〈出陣学徒壮行会〉。
この場で、ルルー作曲『陸軍分列行進曲』が演奏された。

今まで述べたことを整理すると、
 海軍軍楽隊 イギリス式
       教師:ジョン・ウィリアム・フェントン(? - ?)
          フランツ・エッケルト(1852 - 1916)
 陸軍軍楽隊 フランス式 
       教師:ギュスターブ・シャルル・ダグロン (1845 - 98?)
          シャルル・エドアール・ガブリエル・ルルー(1851 - 1926)
ということになる。
ちなみに、フェントンは「君が代」成立に関係した人物で、明治4(1871)年に海軍軍楽隊が創立されると、お雇い教師となり、明治7(1874)年からは宮内省式部寮雅楽部のお雇い教師をも兼任する。

初期の海軍軍楽隊は、当時唯一の西洋音楽演奏団体として、
「軍の諸行事に加えて、72年(明治5年)の鉄道開業式やロシア皇子接遇行事、73年の宮中午餐会・天長節夜会などの演奏にも駆り出された」(塚原康子「軍楽隊と戦前の大衆音楽」。『ブラスバンドの社会史』所収)

一方、海軍と同時に創立された陸軍軍楽隊が、本格的な教育を受けるのは、明治5(1872)年に第二次軍事顧問団としてダグロンが赴任してからのこと。
「陸軍軍楽隊は、73年(明治6年)に旧幕府のフランス式伝習経験者が多くいた静岡などから隊員を徴募し、80年(明治13年)には和田倉門に第二軍楽隊を設置して軍楽隊は二組になった」。(塚原 同上)

海軍のフェントン、陸軍のダグロンが第一世代のお雇い教師だとすれば、第二世代に当たるのが、エッケルトとルルーである。彼らは、音楽学校卒業生で、正規の音楽教育を受けていたので、日本での軍楽教育も、これ以降本格的になる。

特にルルーは、明治18(1885)年に軍歌『抜刀隊』『扶桑歌』を作曲、ついでこの2曲を編曲した『陸軍分列行進曲』を作った。この『陸軍分列行進曲』は、アジア・太平洋戦争において、神宮外苑にて行なわれた学徒出陣式でも演奏されたので、記録映画でご覧になった方もおられるだろう。

現代に生きる音楽を求めて。

2006-05-28 11:55:27 | Art
Arnold Schoenberg
(1874 - 1951)

アーノルト・シェーンベルクが、十二音技法を発想した時に、弟子たちに、
「これによって、ドイツ音楽のヘゲモニーをあと100年間保証する法則を見つけた」
と言ったというのは有名な話。
それが1920年代のことですから、十二音技法という法則は、後により一層精緻な総音列主義(トータル・セリエスム)が生まれていますが、100年間ももたなかったわけです。

一方、世の中に流れている音楽は、ほとんどが19世紀以前のもので、ポップスと言えども、その流れを汲んでいるといっても過言ではありますまい。

しかし、こういった動きとは別の部分で、「前衛音楽」「現代音楽」というものが作られています。
ですから「前衛音楽」と称するものは、
「いわゆる演奏会レパートリーに定着した作品は皆無に近い。せいぜい時々思い出したように再演されてはまたも埋葬されるのが関の山であった、『歴史と公衆の審判』を文句なしにくぐることができた作品数が、第二次世界大戦後になると激減するのである。」(岡田暁生『西洋音楽史』)
岡田氏によれば「前衛音楽における公衆の不在」ということになるわけです。

ここには「制度」の問題もあるような気がする。
というのは、音楽教育体系が、既に19世紀に作られたものを踏襲しているから(アマチュア、プロフェッショナルを問わず)。

あなた、学校の音楽の時間に、ジョン・ケージやジョージ・クラムの音楽を聴いたことがありますか。
ピアノを習っている人なら、ツェルニー、バイエル、ブルグミューラーの練習曲以外のものを弾いたことがありますか。

つまり、19世紀音楽の「体系」と「制度」とが、未だに主流を占めていることも大きな問題なのでしょう。
おそらく「公衆」がそれを求めている、との声が出るでしょうが、そこいら辺は、鶏と卵の先後問題で、どちらが先かを探ってみても、生産的とはいえないでしょう。

以上のことを軽やかに乗り越える方法はないのか、と考えた場合、1つは他メディアとの融合という可能性がある。
詳しくは、また別の機会に述べることとして、今は、その1つの可能性をフィリップ・グラスが行なっている方向に見ることはできるでしょう。
つまりは、映画との相互作用による、新しい方向です(「公衆」の問題は、明らかにクリアされ、「啓蒙」という面でも有効)。

もう1つの方向に、「世界音楽」という概念が浮かんでいるのですが、それに関しては、また次回に。

「軍楽」から西欧音楽導入が始まった。その4

2006-05-27 09:41:29 | Essay
明治16(1883)年に完成した鹿鳴館。
明治18(1885)年、ここで陸軍軍楽隊は、
ルルー作曲『抜刀隊』の演奏を行なった。

前回、戊辰戦争時の楽器/音楽の役割について述べた。
つまり、大きく分けて、その役割には、
  1. ラッパやドラムによる信号の伝達
  2. 鼓笛隊やドラム・リズムによる行進の伴奏
の2つがあったわけである。

この内、1.は日本陸軍の喇叭卒となり、日清戦争では「死んでも喇叭を口から離しませんでした」という木口小平の〈戦争美談〉を生むことになる。
けれども、喇叭卒は、専門教育を受けるわけではなく、所属部隊でいわば人から人へと奏法を伝えていた。

2. は、陸海軍とも、明治4(1871)年に軍楽隊が創立され、陸軍では専門教育機関としての戸山学校で軍楽教育が行なわれた(ちなみに、太平洋戦争中、戸山学校軍楽隊生徒として團伊玖磨と芥川也寸志とがいた)。

また、陸軍軍楽隊の初期の教育に当たった人物としては、明治17(1884)年第三次フランス軍事顧問団の一員として来日したシャルル・エドアール・ガブリエル・ルルー (Charles Edouard Gabriel Leroux) がいる。そのため、陸軍軍制がドイツ式に切り替えられた後も、軍楽隊のみはフランス式を採っていた。
「(ごく初期の軍楽隊員の)音楽レベルというのは非常に悲惨な状態でした。
ほとんどの隊員が譜面が読めず、音楽に関する知識も皆無ならば学ぼうとする意識の全くない者、そして多数の脱走者。ルルーは年齢が高くてやる気のない者は外し、試験をして成績の良かったものや、教育効果の出やすい20歳以下の兵を集めさせ、軍楽隊のコアにするための「教育軍楽隊」を編成してスパルタ教育を施しました。
音楽理論、ソルフェージュ、写譜、..... 兵の方も大変だったでしょうが教官側ももの凄く大変な教育だったようです。
こうしてルルーが在任した4年間の間に日本の軍楽隊は見違えるようになっていきます」(サイト「今日は何の日」による。適宜、原文を改行した)。

『目的はパリ、目標はフランス軍』

2006-05-26 00:23:09 | Essay
タイトルのフレーズは、クラウゼヴィッツが『戦争論』で「目的」と「目標」の違いを説明するために使ったことば。

つまり「目的」は、「敵国首都パリ=敵中枢の占領」であり(それはまた、中央集権国家であれば、相手国を降伏させることをも意味する)、それを達成するための「目標」は、「前面にいる敵フランス軍の殲滅」ということである。

そして、一般的に「目的」を設定し達成するための方策を「戦略」と称し、「目標」に関する方策を「戦術」と称する。
つまり、
「戦略とは、見通し得る目的の達成のために一将帥にその処分を委任されたところの諸手段の実際的適応である」。
このモルトケの定義によれば、諸手段を達成させるための方策が「戦術」ということになるだろう。

もう1つだけ付け加えておけば、現代における国際関係の基本単位が「国家」であり、「戦争」とは、その「国家」間の「武力紛争」であるとすれば、
「1つの国家は国策の遂行のために戦争を遂行するのであり、戦争のために戦争を遂行するのではな」
く、また、
「軍事目的は政治目的によって支配されるべきものであり、政策は軍事的であることを要求しないという基本的条件に従うべきである。」(リデル・ハート)

日本帝国陸軍は、プロイセンに範を採り、「戦術」に関する研究方法は学んだものの、「戦略」については、何ら学習しなかったといってもいい(1つの原因は、お雇い教師であるメッケル少佐が、戦術家であっても戦略家ではなかったためもあるようだ)。

日清・日露の両戦争においては、政治が軍事をコントロールできたため、軍に戦略がないことが、かえって幸いした。
しかし、日露戦争後も、まともな「戦略」のないままに、参謀本部的な「戦術」重視の体質は変わらず、かえって、政治をも支配するようになると、その欠陥は露にならざるをえない。

東京裁判では、太平洋戦争につながる一連の戦争責任者を、「共同謀議」に基づくものとして裁こうとしたが、以上のような「戦略」がないまま、「戦術」自身の自己運動的に(なし崩し的に)戦争を拡大していったのだから、その裁判方針は破綻せざるを得なかったのも当然であろう(もう1つ、アメリカ合衆国が、昭和天皇を免責してしまったことも、大きな原因となっている。一連の戦争下、地位・権限ともに変わっていないのは、昭和天皇だけである)。

しかし、どうやら戦略下手で戦術好きなのは、明治時代に始まった話ではないようだ。
源義経、楠正成、真田幸村など、明治以前から人気のある武将は、ほとんどが戦術の天才である。戦闘においても、いわく「鵯越の逆落とし」「桶狭間の合戦」「真珠湾の奇襲攻撃」。

はてさて、それらの人気は別にして、現在、政治的な「戦略家」は、この国に存在するのだろうか。
「戦略家」には、ある意味で原理原則論が必要となる。戦術レベルでの変化に、そう簡単には動揺しない信念といってもいい。

どうも、単なる「既成事実への屈服」を現実主義と誤解している向きが多い現状では、「戦略家」を求めるのは無理なような気がするのだが……。

参考資料 クラウゼヴィッツ著、篠田英雄訳『戦争論』(全3冊)(岩波書店)
     リデル・ハート著、森沢亀鶴訳『戦略論-間接的アプローチ』(原書房)
     加藤朗、長尾雄一郎ほか『戦争-その展開と抑制』(勁草書房)

『ブラスバンドの社会史』を読む。

2006-05-25 00:14:20 | Book Review
著者たちは、現代日本の吹奏楽を一種「閉じられたジャンル」として捉えています。

というのは、次のような認識があるからです。
吹奏楽には、
「『ブラスバンド部』(あるいは『吹奏楽部』)の呼称に代表されるように、中学校や高校などの課外活動というイメージ」
と、同時に、
「学校や音楽教育という場の文化的なにおいがその背景にあり、『吹奏楽』がそのレパートリーの広さとは裏腹に、自己生産・自己消費されている」。
したがって、
「『吹奏楽』にかかわっている人でなければ知らない作曲家やアーティストのものが並んでいる。」
つまりは「自己生産・自己消費」されるジャンルだとしているわけです。

しかし、クラシック作曲家の中でも、吹奏楽用の楽曲を書いている人は、いくらでもいます。
古くはヘンデルの『王宮の花火の音楽』(弦楽パートは初演後に追加)から始まって、モーツァルトのディベルティメント、ベートーヴェンの行進曲と続き、現代でもシェーンベルク、バーバー、ミヨーなどといった作曲家まで、多士済々。

ただし、「吹奏楽」ジャンルとして分類されているCDアルバム、例えば手元にある『中高生のための吹奏楽名曲選 シーゲート序曲』(COLUMBIA CG 3175) などを見ると、アメリカを中心にして、吹奏楽プロパーの作曲家がいることも確かなことです。

ジェイムズ・スウェアリンジェン (James Swearingen, 1947 - ) が典型で、吹奏楽をやっている人なら誰でも知っているけれども、一般的な音楽ファンの知名度は、ほとんどなきに等しい。
ジョン・バーンズ・チャンス(John Barnes Chance, 1932 - 72)、ジェームズ・バーンズ (James Barnes, 1949 - )なども、そうでしょう。

ここにあるのは、確かに一般の音楽界とは違った世界で、前衛性を誇ることもなければ、手法の奇抜さを衒うこともない。むしろ、古風とでも言った方がいいでしょう(スクール・バンド向けの楽曲は特に)。

本書によって、そのような「閉じたジャンル」に到った経緯を、歴史の中に探ることもできます。
その核にあるのは、「軍楽」が西洋音楽導入の端緒だったということでしょう(やや遅れて学校教育の現場には、別の流れが入ってきてはいるが)。
つまりは、日本の近代化/西欧化一般にもつながる問題ともなります。

外発的な近代化が、どのような音楽を生んだかについては、以前に「『モダニズム変奏曲―東アジアの近現代音楽史』を読む。」でも触れましたが、本書は、それに1本の補助線を引く形となっているでしょう。

明治以降の文化の近代化/西欧化に関心のある方にお勧めします。

阿部勘一/塚原康子 /高沢智昌/細川周平/東谷護
『ブラスバンドの社会史―軍楽隊から歌伴へ』
青弓社
定価:本体1,680円(税込)
ISBN4787231928

「軍楽」から西欧音楽導入が始まった。その3

2006-05-24 10:45:17 | Essay
五雲亭貞秀筆「横浜鈍宅(どんたく)之図」。
文久元年(1861)刊行。横浜駐留の外国軍楽隊の行進。

薩摩藩が採用したイギリス式の鼓笛隊は、大太鼓・小太鼓・笛の編成(「サツマ・バンド」と称す)。
横浜に駐屯していたイギリス陸軍軍楽長のフェントンに訓練を受けた。彼らのレパートリーは、明治維新後の明治3(1870)年には、儀礼曲『ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン』、英第10連隊のテーマ『リンカンシャー・ポーチャー』、第42スコットランド高地連隊の『ガーブ・オヴ・ゴール』だったという。

一方、フランス式の兵制を採用した幕府では、慶応2(1866)年に来日したフランス軍事顧問団による伝習で、ラッパ伍長ギュディックからラッパ信号を習っていた。
翌年には、田辺良輔訳の『喇叭符号 全』が刊行され、幕府の他、長州藩でも使用された。

つまり、戊辰戦争では、
 (1) 幕府海軍のオランダ式ドラム信号(行進のリズム奏法を含む)
 (2) 薩摩陸軍の英国式鼓笛隊
 (3) 幕府陸軍・長州陸軍のフランス式ラッパ信号
という3種類の洋式音楽が使用されていたのである。

したがって『維新マーチ』として知られている笛と太鼓による行進曲は、薩摩藩軍楽隊のものと推定できる。
しかし、「日本第1号の軍歌」とも「日本のラ・マルセイエーズ」(鶴見俊輔)とも言われる『宮さん宮さん』のルーツとなると、定かではない。
  宮さん宮さんお馬の前に
  ヒラヒラするのは何じゃいな
  トコトンヤレ トンヤレナ
との、あの歌である。

一説によると、品川弥二郎作詞、大村益次郎作曲というが、作詞はともかくも、作曲の方はあやしい。むしろ、品川に歌詞を示された「なじみの芸者が節をつけた」との説にむしろ信憑性がある。

いずれにしても、先述したとおり、長州藩では仏式のラッパ信号は採用していたものの、鼓笛隊や軍楽隊は装備していなかったため、洋式の演奏が付けられたとは考えにくい。
『宮さん宮さん』は、やはり軍歌として兵士に歌われたもので、『維新マーチ』のような器楽による伴奏はなかったものと思われる。

「異郷化」という、ジャン-リュック・ナンシーの現状認識

2006-05-23 09:27:36 | Essay
'06年5月22日付けの「朝日新聞」夕刊に、フランスの哲学者ジャン-リュック・ナンシー(Jean-Luc Nancy, 1940 - ) のインタヴューの一節が紹介されていた。

キーワードは「異郷化」。
われわれを取り巻く世界の中で、古くからの土地と人間との結びつきが失われ、「故郷と異郷はそれほど別なものでなくなってしま」った。その結果として、「同じ土地にとどまっていても居心地の悪さ」を感じるようになる。
それを「異郷化」と言っているわけである。

結果として、「目に見えない不安感や喪失感が人びとの間に広がっている」。
また、「自分がどこに属しているか分らないという『帰属の不安』も広がっている。そのために失われた伝統や愛国心を懐かしむ気分も強まっている」ということだ。

現在、この国に広がりつつある「空気」を、大きな背景の下で捉えると、そいういうことになるのか、と納得させられる。

納得はさせられるものの、「それではどのようにすれば、このような傾向を打ち破ることができるのか」という処方が、現在を生きる人間には、より重要であろう。

とりあえずのナンシーの答えは、こうだ。
「古い世界が衰退に向かっている兆候は、大きな言葉が力を失っていることにも現われている。進歩や正義などの言葉がなぜ衰弱したのか。我々は真剣に考えなければならない」

「大切なのは異郷化を恐れないことだ。あれもこれも失われたと嘆いて昔を美化する人々は、その時代の人間が平気で残酷なことをし、暮らしが貧しくつらいものだったことを忘れている」
また、希望や可能性を彼は、このような点に見出す。
「インタ―ネットによる人間関係は乾いていて冷たいと言われるが、そこから新しい人間の姿が生まれるのかもしれない」
小生は、むしろ新しい「中間共同体」を創造することが必要なのではなかろうか、との直覚があるのだが、はたして、インタ―ネットにそれだけの可能性のありやなしや。

アナタは、いかがお考えだろうか。

「軍楽」から西欧音楽導入が始まった。その2

2006-05-22 09:45:43 | Essay
文久3(1863)年から、横浜の外国人居留地を防衛するために、イギリス・フランス両国の軍隊が駐屯した。これは前年に起きた生麦事件などの外国人殺傷事件が多発しためで、幕府もこれを認めざるをえなかった。

フランスは、陸軍のアフリカ軽歩兵第三大隊分遣隊を上海から、海軍の陸戦隊・海軍歩兵隊をサイゴン(現在のホーチミン)から呼び寄せ、現在「フランス山」と呼ばれている山手居留地に駐屯させた。
一方、イギリスは、陸軍の第20連隊第2大隊分遣隊を香港から派遣、現在の港の見える丘公園一帯の山手居留地に駐屯させる。
このイギリス軍は軍楽隊を伴っており、このルートから、ラッパを含めた軍楽が各地に伝わったものと思われる。

現在明らかになっている一つの事例は、信州上田藩である。
藩士の赤松小三郎と浅津富之助が、慶応1(1865)年にイギリスの歩兵操典を翻訳し『英国歩兵操法』として出版しているが、その中に五線譜のラッパ譜が含まれている。
同様に薩摩藩も、慶応3(1867)からイギリス式兵制を採用、陸軍楽隊の編制を行なっている。ちなみに、薩摩藩軍楽隊は、大太鼓・小太鼓・笛の編成であった。

このように、オランダ式の信号はドラムであったのに対して、イギリス式はラッパに切り替わっており、鼓笛は行進や儀式の際に用いられたものと思われる。

このようなイギリス式の鼓笛隊が、戊辰戦争の時に一般の前に登場し、明治新政府軍の特徴として知られるようになるのである。