一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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今日のことば(107) ― 小林秀雄

2006-03-14 08:53:11 | Quotation
「信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。人間にはこの二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない、そのような知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。」
(『信ずることと知ること』)

小林秀雄(こばやし・ひでお、1902 - 83)
文藝評論家。東京神田生まれ。東京帝国大学文学部仏文科卒。1929(昭和4)年『様々なる意匠』で雑誌「改造」の懸賞論文に二席入賞(第一席は宮本顕示『〈敗北〉の文学』)、文藝評論家として認められる。著作には『志賀直哉』『私小説論』『ドストエフスキイの生活』『無常といふ事』『モオツァルト』『考へるヒント』『本居宣長』など多数。1967(昭和42)年文化勲章授章。

小生、小林秀雄のよい読者ではない。ましてや好きな作家でもない。
というのは、レトリックや啖呵で読ませるだけで、論理性が乏しく説得力がないからである。
その点は、内容が晦渋なのではなく、趣旨が曖昧なのだと思う。

けれども、『信ずることと知ること』などは、平易な表現であり、趣旨も取り易い。というのも、学生たちに実際に語ったことを筆記しているためだろう(1974年の語り)。

ベルクソンがどう言ったかはしらないが、科学的知識と信念とが違うことは、基本中の基本である。
それでもなお、科学的知識で語るべき内容に、信念的価値基準を持ち込む例がいかに多いことか(イデオロギーも、最終的には信念的価値基準に行きつく)。

それでは「歴史」とは、「知ること」か「信ずること」か。
小生は「歴史」は「知ること」と思うが、だれかが「歴史」を「信ずること」とするのなら、それは自由である。けれども、誰もが同じ信念的価値基準を持つようにすること=強制的に「信じさせる」こと、は、けっして自由ではない。
信念的価値基準は、他人に強制することはできないのだから。
「信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。」

参考資料 小林秀雄『考えるヒント3』(文藝春秋)