釈尊(お釈迦様)にしても、聖徳太子にしても仏の道を歩むようになったきっかけは世の中の無常
(生と死と病、冨と貧困、弱肉強食、権力と戦争)をより強く思ったからだという。
行きついたところは、「この世こそ地獄であり、死後こそ真の世界である」
釈尊以前の原始仏教は限定的、
そこかしこの小集団の中に個々の考え方であったようだ
釈尊は紀元前600年ころのインドの人で正確な生没年はわからない
世の様々な無常に疑問を持ち、切なくててどうしようもない
自分の正義の魂を納得させるため難行にその答えを求めた。
しかし答えを得られず、ある日、突然天啓ありて問いも答えも求めず
心を無にして座禅を続けた。
ただひたすら座り続けてついに悟りを得た。
以後、釈尊のもとに悩める多くの弟子が集まり、
釈尊の時、どきの言葉に耳を傾けた
釈尊が入寂されるとき高弟たちが釈尊の葬儀について問うと
「それは修行僧が行うことではない、お前たちは私のことなど構わず
今この時も惜しんで修行に励みなさい」とおっしゃったそうだ。
釈尊はその教えを書物に残さず口伝で弟子一人一人、
あるいは大勢への講義で伝えた、その年数は40数年に及んだ、
だから弟子も直弟子、孫弟子、そのまた弟子くらいまで幅広く、
教えの内容も変化している。
釈尊亡き後、その膨大な教えを高弟が書物(経典)としてまとめようと
活動を始めて、各々が釈尊から伝えられた教えをもちより語った。
それらの中から正誤を検討しあい、正しいと認めた教えを年代別に
編纂していった、それらの一巻一巻が**経の経典となる、
その数は膨大であった。
やがて中国に仏教が伝わり、真の教えを知りたいと中国僧がインドへ
冒険的な旅をして経典を中国に運んだ(西遊記は、それを誇張した
空想物語にしたもの)
インドでは釈尊の教えとして統一されていたものが、中国へ渡ると
個々の僧侶は膨大な経典の中から自分が影響を特に受けたものを選び、
その経典をもとに宗派ができた。
禅、密教、一般的な宗教などにわかれその教えの方法も変わっていった、
例えば禅にしてもいくつもの宗派に分かれて微妙に解釈や目的、
修行の方法が異なっている。
さらにインド仏教の本来の姿(自分自身を修行で磨き上げて悟りを得る)を
守る保守派に飽き足らず、迷える人をより多く救うべきだという
改革派が現れた
そして広く教えを広めることから大乗仏教と呼び、保守派を
己だけを救えばよいという狭義の宗派だと罵って、保守派を
小乗仏教と呼んだ。
それは蔑称なので今は大乗仏教に対し、小乗仏教を上座仏教と呼んでいる。
天皇につながる日本固有の神道がある我が国に仏教が伝わったのは、
朝鮮の百済からでそれは釈尊が悟りを開いてから1000年近くたっている
朝鮮は百済、新羅、高句麗が相争う三国時代で中国では
隋から唐の時代だ
日本(倭国)は百済と交易をおこない友好国であった、
一方日本海側に面している新羅は百済と敵対した関係で
倭国とも敵対関係であった
一番不利な新羅は大国唐に追従して支援してもらい、
北部朝鮮から満州にかけての最大の強国、高句麗を滅ぼした。
次に百済も新羅に滅ぼされて、高句麗や百済から政治家、
文化人、僧侶、技術者などが難民となって日本に逃れてきた。
そのため日本にも一気に仏教が広まった、用明天皇の子、
聖徳太子は日本仏教講釈の第一人者で釈尊同様貴族階級にありながら、
世の中の無常を嘆き仏教により深く帰依した人である。
日本は隋、唐とは友好を結び、交易のほか僧侶や官僚を送り込んで
先進大国の政治や仏教を勉強させた
日本仏教の開祖となった空海、最澄の二人も危険極まりない
黄海を修行僧として中国にわたり密教などを学んだ。
空海は高野山で真言宗を開き、最澄は比叡山で天台宗を開いた。
中国仏教の影響が強い日本ではやはり多くの宗派が派生した、
中国でも日本でも大乗仏教が主流であり、上座仏教のインドや
東南アジアと違い、とかく権力志向、商業的になりがちであった。
権力者との結びつきをもつ僧侶も当然出てくる、貴族社会が
武家階級に政権を奪われた鎌倉末期から室町時代以降日本は
戦乱の時代に突入する
武士は領土争いで血を流し、町を焼き尽くし、農民を兵士として
強制的に戦場に引き立てていった。
田畑が荒れ、飢饉が起き餓死者があふれ、都は無残な姿となり
貴族でさえ食うものに困る有様となった
この時代を背景に日本では日蓮宗、浄土宗、やがて浄土真宗という
平民のための大衆仏教が現れた、日蓮、法然、親鸞、いずれも権力者や
既存の伝統仏教界から迫害を受けて島流しの憂き目にあっているが、
今日まで発展している。
神道を護り、キリスト教布教を許し仏教を否定した革命的武将、
織田信長は室町幕府を消滅させ、比叡山を焼き討ち、伊勢長島の宗徒を
皆殺し、本願寺と10年戦争を行った
加賀、能登(石川県)では一向宗が武士を追い払って宗教国を成立させた、
若き徳川家康も本多正信など家臣の半分が一向一揆に味方して
内戦となって苦労した。
それほどに戦国時代に武装化した宗教勢力が現れた、
それは戦乱の被害者である被災民が宗教に救いを求めて
集まった結果ではないかと思う。
古代仏教の聖地奈良でも興福寺など奈良仏教界は僧兵をもって
弱小な地域大名に圧力を与えていた。
明治維新の後、天皇を頂く新政府は神道を国教とすべく仏教は排除され
城同様に破壊された寺院が数多くあり、仏教受難の時代を迎えた。
逆に昭和の戦争でアメリカに日本が負けると、天皇と関係深い
日本人の魂とされる神道は占領軍によって警戒され、
仏教の地位は回復された。
釈尊が悟りを開いた仏教は、個人の迷い、悩みのもとを
とことんつきつめて真理を得るための修行、
あるい空と無の禅の世界であった
それが中国、日本と渡り、次第に権力との結びつき、商業主義、
俗化と変身していくものも出てきた
さらに金儲けのために神にすがる苦しみを持つ庶民を不幸に追い込む
悪徳エセ宗教まで出てくる始末だ。
古代から人や家畜が死ぬと一緒に暮らした人たちが集まって
弔いをしたそうだ
そこに僧侶の姿はない、ほんとうに悲しく、故人や愛馬、
愛犬の冥福を祈るものだけが集う。
女房殿と結婚した年に、女房殿の祖父が亡くなった
市街地から10kmほど入った山間部の農村地帯が実家で、
私も行くと隣近所の親父さんたち、奥さんたちが変わりばんこに
出入りして台所で夕食、夜食を作る
男たちは白い厚紙で仏壇にあげる紙の花を作っている、
市街地の葬式では見られない風景だった
農村部では「やうち」という親戚グループがある、
これは遠い親戚より近くの他人、あるいは祖先が一緒だった
近くの人たちの助け合い組織だ
田植えも稲刈りもこうして集団で各家の仕事を片付けていくのだ、
自由主義、個人主義の日本にあってこれは社会主義だと思う
我々世代になり、農業離れした今は、この「やうち」制度も有名無実になった
コロナが流行して葬儀も家族葬が主流だ、まちなかで並ぶものがない
力を持つ人にとって小人数の葬儀は残念であろう
葬儀は力を誇示する場として絶好である、またそれを受け継ぐ次世代に
関係者がアピールする場としても最適である。
しかし一般庶民にとってこうした家族葬は最初はとまどったものの、
普段の付き合いがない多くの人に気を使うより楽であり、
故人に集中することができてありがたい。
ほんとうに心を寄せる人だけにお別れに来てもらえる今の姿が
本当の葬儀かもしれない。
戦後、なんでもかんでも右肩上がりで進んできた、
なんか不便なこの頃に感じるかもしれないが、絶望の淵で
落下する前に緩やかに下ったほうが良い
僧侶にしても托鉢と自らの労働で得た野菜などを糧に
コメ一粒のありがたみをかみしめて修行に励むのが
僧侶の姿だったという、1000年以上前の話だ
この豊かな時代にそれを言うのは無理難題であろう、
われら庶民がゴルフを楽しめば僧侶だってゴルフをしたい、
そういう時代なのだ
われらのレベルも時代同様に変化しているのだから、
僧侶だけ固い戒律で生きよなどというのはナンセンスだ
威張らない友達感覚で長い付き合いができる僧侶に安心感を覚える、
長い付き合いの医者と似ている。 庶民が求めているのは
安心と気軽に相談できる僧侶なのだ。
親鸞はそれまで僧侶に許されなかった妻帯、飲酒、魚食など
タブーの数々を自由にしてよいのだと言った。
出家などせず、難行もせず、ただ「南無阿弥陀仏」を10篇唱えれば
極悪人も救われると言った。
僧侶は今でもわれら庶民に葬儀、法要で説教を行う、
だが高学歴社会で人々をなるほどとうならせる説教に出会うことは少ない、
だがたまに尊敬に値する説教を聞くことがある
やはり勉強している僧侶もいるのだと安心する。
*間違った解釈 言葉 ご無礼はお許しください
私は無宗教派
不思議なことに 大学はキリスト系
仏心が あれば 戦争のない 平和な
世界が訪れる・・??
日本の宗教は何宗であれ元は、お釈迦様の教えですから経は違っても同じですね。
キリスト教やイスラム教はちょっと違うと思いますが私は知りません。
欲心をもつ人間が大多数である限り戦争は絶えないでしょう
この世こそ地獄なのだと