籠場の滝のことの、関連です。画像の、右下手前が滝つぼ。危険なので、立ち入りはダメ。遠景で、眺める方が、絶景のようだだ。撮影のスポットを捜すのも、車のすれ違いはできない道路なので、歩行は、車に注意しなくてはならない。この日は、撮影する人がも、たくさんいた。
籠場の滝は、自前のがないので、拝借したものです。所用で夏井川渓谷沿いを、走行をした。先の大雨から、ひと月過ぎても、水量が多かった。篭場の滝の伝説を、鴨志田義康著よりです。篭場の滝から先には、魚が上れないので、「魚止め」の滝とも、云われていたとか。この滝つぼには、魚がうようよしていた。昔し、草野伴四郎という人が、江田に大きな屋敷を構えた、お大尽だったという。ある日、籠で魚を取っていた時、脇差を滝つぼに落としたしまった。使用人を集め、「脇差を捜し出す者に、褒美を与える」と。一人の若者が、渦巻く滝つぼにもぐり、底へ底へと行っていたら、水中に立派な御殿があり、美しい乙女が、機織りしていた。その床の間に、脇差が飾ってあった。「どうか、脇差を返してください」と申しすと、乙女は、「ここの御殿のこと、私のことは、話してはなりません」と。若者はしばらく休み、脇差を持って水面に戻ると、誰もいない。屋敷に戻ると、何日も、もぐったままなので、死んでしまったと、あきらめていた。若者が戻ので、「どうして七日間も、水の中にいられたんだぁ」と、問われ、乙女との約束を破り、御殿と乙女のことを、口を滑らせたとたんに、息を絶えてしまった、というし昔話。草野伴四郎は、大勢の使用人をかかえていた。「江田の伴四郎さ奉公に行くか、裸はだしでイバラしょって、はねっかぁ」という、話しがあり、人使いは甚だむごかったとか。江戸末期に没落したという。赤井岳薬師の手水鉢に、「奉納草野伴四郎」と、刻まれてあると。昔、平藩の殿さまが、この滝の近くへくると、駕籠をを止め見事な滝や辺りの景色に見とれていたので、籠場の滝といわれるようになったとも、伝わるとか。いわきの伝説よりでした。
画像は、七年ほど前の、九月のもの。前掲の冬木立と同じ日に、カシャッとしてみたが、だめだった。カメラは良品なのだが、腕が悪く、刻した文字が読めない。大町桂月の歌碑。「散りはてて 枯木ばかりと 思ひしを 日入りてみゆる 谷のもみぢ葉 甲子初冬 夏井川渓谷に遊びて 桂月」。甲子は、大正13年で、建碑は昭和九年という。昔から、篭場の滝付近は、風光明媚と、知れ渡っていたのだろう。大町桂月とはと、「なんでだろう、なんでだろう」と、芸人のネタをパクリって、ネットをあっちこっちと読んで、なるほどなるほどでいた。
前掲の冬木立に書いた、磐越東線の、遭難碑を、5年ほど前の春に、カシャッとしたのを、載せました。遭難碑のいわれを読んだが、内容は、忘れてしまった。「列車事故の遭難碑と六地蔵」と紹介してあるのを読んだ。磐越東線の開通のことを、"いわき市史"から引用しました。{平ー小川郷間[10.3キロメートル]は、大正四年七月十日、ようやく開通をした。小野新町駅から赤井駅の間は、磐城街道に並行した、夏井川の形成した狭隘な通過する。夏井川の横断は11回におよび、トンネルもまた夏井ー小川郷間で16を数えた。このように夏井川は、この線区の工事を極めて困難なものとしたが、出水時の水位を考え、70フィート[21.3メートル]以上の高橋脚とした橋もあった。平ー郡山間は、大正六年十月十日、六年七ヵ月の歳月を掛け全通した。}いわき市史より。ちなみに、JRの駅は、いわきー赤井ー小川郷ー江田ー川前ー夏井ー小野新町ーから先、郡山になる。
画像は、11月29日の、夏井川渓谷にある "籠場の滝"のすぐ脇。画像の、右側からは、滝からの水が、ごうごうごうと、流れる音が聞こえる。道路を挟んで左側の上方は、いわき駅から郡山駅への、JRの磐越東線がある。先の大雨の被害があって、全線不通だったが、郡山駅と、小野新町間は、先に開通して、いわき駅から小野新町駅の間も、回復して運行している。撮影をした日は、初冬の陽光に照らされた木々は、輝やいていた。時折吹く風は、辺りの木々の枯れ葉を、はらはらと落とし、舞っていた。渓谷沿いの道は、先の大雨が流れ込んた川の水が、所々えぐって、普通車以下だけが、走行できる。渓谷沿いの道は狭く、崖が迫って曲がりくねって、対向車が、眼前に現れることもあった。木々の葉が落ちれば、少しは見通しができるかも。"籠場の滝"には、駐車できるスペースは、数台。その先の道端の駐車場は、水でえぐられて、不可だった。ずうーっと昔の、新設の線路工事が始まった頃に、このあたりの難所で、落石崩落の事故があった。犠牲になった人々の慰霊の碑が、近くにある。新設工事の線路の用地は、いわきの伝説にある"水中に御殿があった籠場の滝"に出てくる、"江田の伴四郎"が所有していた土地と書いてあった。