数日前、風が穏やかになつたので、近所の神社の桜を見に行った。「世の中は 三日見ぬ間の 桜かな」。江戸時代の俳人の作かなぁ。近所の神社の境内の桜は、満開だった。花の数は、昨年より、少ないかなぁ。若緑に、葉を広げだしている樹もある。あっ、今日は、「夏も近ずく 八十八夜 野にも山にも 若葉がしげる」だぁ。
だいぶ前、ラジオをながら聞きしていた。年寄りの過ごし方のことだったかなぁ。その時、「きょうようがある」は、「教養がある」と、「今日用がある」の、二つで老い道を歩くとか。「教養」は、生来、持ち合わせていない。大切なこととは、承知をしている。「今日用がある」は、昨日で終わった。連休になるので、備蓄をしておきたいと、懇願されて、納品をした。「用」は、今日からなくなった。六十三年間、働いたことになる。バブルがはじけた頃から、世紀の変わり目は、世の中は、大きく変化する。取引先の路面店主には、世の中の変化に、対応するようにと、話しをしており、廃業は、予定通りにした。振り返れば、「貧乏暇なし」の状況だった。いつの日には、「貧乏に花が咲く」と思い、「貧にして楽しむ」を、していた。取引先には、「貧者の一灯」の心持ちで、続けていた。禅語に、「家貧未是貧」-「家貧にして、いまだ、これ貧ならず」がある。貧しさのままに、豊かさの発見、と言うことのようだ。仕事としての「用」は、なくなったが、やってみたいことは、多々ある。まずは、拙いブログに、筆文字を載せていたのを拾い出して、二か月かけて、小冊子を作る。まあ、ひとりよがりのものです。