八十路徒然なるままに

早稲田かりほすなど、とりあつめたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分の朝こそをかしけれ。徒然草より

岩城平城内外圖

2014年06月19日 12時03分36秒 | Weblog
元和八年八月とある。内藤左馬介政長家臣配家一覧とある。小生は、歴史は、はなはだ、わからない。この図は、興味がある。昭和50年に、発刊の、「いわき市史」、第二巻、近世によれば、「慶長七年、磐城を領した、鳥居氏は、二十一年間、領主として、磐城を治めたが、10年にして築城がなり、その功によって、山形へ移封となった」とある。かわって、この図が書かれた、「元和八年」、{1622年}に、内藤長政が、上総国{千葉県}から、磐城平へ転封し、楢葉郡、磐城軍、磐埼群、菊田郡の四郡の内を所領とした」、とある。その時の、平城の図面のようだ。この図面は、「珍しいと思うから、あげるよ」で、頂戴をしてきた。今は、JRいわき駅の北側にある、細い、急な坂を上ると、城跡の名残の、石垣がある。昭和45年に、著者、鈴木光四郎、「磐城平藩政史」が、刊行されている。その中に、「大阪城を摸して、広大な外濠をめぐらし、現在のいわき市平の本町にまで、及んでいた」とある。また、「奥州岩城平之城覚」 内藤家所蔵の「平之城覚書」は、内藤帯刀忠興が幕府に報告したもので、年号は記されていない。寛永末期{1643}のものである。鳥居氏が入部してから、40年後のものであるが、平之城の規模が正確に記入されている」、とある。この著書の年号と、比べると、この図は、20年前の、平城の図面かもしれない。なけなしの、手元にある、前述の、書籍を、ちらっと、ななめ読みしたので、誤まっているところもあるかもしれません。興味本位で、画像を載せました。画像は、大きめにしてみました。いろいろ調べてみっかなぁと、思っています。 
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