『マインド・クエスト』の第2部を読む。後半は、意識の神経学的基盤についての仮説を解説した部分で意識の成立にとって欠かせない時間意識がどのようにして生じているかを述べている。フッサール現象学における「把持」、「現前」、「予持」が、回帰的ニューラルネットワークにより説明できることを、fMRIによる実証的データも含めて解説する。「現前」が常に過去によって汚染されているとして、デリダはフッサールの現前を批判したが、回帰的ニューラルネットワークの構造に時間意識の生物学的基盤を求めることができるとするならば、両者はともに正しかったと言えるだろう。
しかし意識の流れを再構成できるとして、そこからどのうようにして「私」が生じてくるのかが問題である。ネットワークによる説明であれば、「私」はいなくても「意識」は構成できるような気がする。眼前の対象(蛍の光でもなんでもいいが)を見ることで、「対象が見える」という時間的な経験は成立するにしても、「私」の経験はどうやって生じるのか。問い方を逆にすれば、「私」ということは成立しなくても「対象が見える」という経験を経験することは可能なのだろうか。主語のない経験というのは、英語では想像するのが難しいかもしれないが、日本語では比較的容易である。端的に対象を経験するということがより根源的なのかどうかはわからないが、「私」なしに成立してもよさそうな気はする。これこそがミステリーではないだろうか。
本書の構成としては、先に概説的な導入部を持ってくるなり、物語と交互に進めるなりして工夫したほうが読みやすいのではないだろうか。ミステリーはあまり読まないので、ミステリーファンがこの物語をどう評価するかを聞いてみたい。本書の帯には哲学者の鷲田清一氏の推薦の辞(たいてい信頼できないですね)が書かれているが、「哲学にはこんなスリリングな語り口があったのだ」と驚いて見せているが、もっとスリリングな語り口の哲学書はたくさんあると思う。ほんとにそう思ったのかなぁ。