烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

科学はどこまでいくのか

2006-12-16 23:59:34 | 本:自然科学
 『科学はどこまでいくのか』(池田清彦著、ちくま文庫)を読む。以前ちくまプリマーブックスとして刊行されたものに、「文庫版のためのやや長いあとがき」を増補したものである。
 社会には聖域あるいはそれに近い扱いを受ける領域があり、その代表格といえば宗教であった。近代になって宗教の価値は凋落し、社会の一部門にすぎなくなった(少なくとも西欧ではそうだろう。アメリカはまだ宗教がそういう意味では立派に機能している国である)。日本では近代以前に社会の一部門になっていた。宗教の代わりとして社会に御宣託を垂れる聖域として現代では科学がある。だから○○科学とさまざまな学問分野は名乗りたがると著者は推測する。著者の態度は、科学を社会の一部門と見なすことである、それも徹底して。(西欧では少なくとも)宗教は形式的にも実質的にも聖域だった。科学は形式的には近代社会で一分野ということを装っているが、実質的には聖域である。それが証拠に科学的に実証されるということが政治的経済的活動に対する保証を与えているからである。著者はそれによるさまざまな弊害を指摘する(宗教よりは格段に弊害は少ないのであるが)。
 最も著者が心配しているのが、科学というシステムの肥大化で、自己制御が効かなくなっていることである。宗教はある意味それが奉る神という上限があり、そこを超えては行かない(行けない)ある自己制限的閉域であるが、科学はそうではない。基本的にそれを制限するものはない(だから政治的経済的に制限を設けている)。しかし政治や経済活動の保証を与えている科学分野にはその仕組みから当然制限はかかりにくい。その代表的なものとして著者が例にあげているのが、地球温暖化による環境破壊という科学の御宣託であり、それに基づく二酸化炭素排出削減という政治経済活動である。
 次いで問題なのは、科学と経済活動が連動していくと、経済効率が優先されて倫理観が歪曲されてしまうのではないかということがある。倫理という分野は宗教というものが機能しない場合、もっと積極的に社会の先導役を果たすべき発言すべきところだと思うのだが、なぜか恐ろしく力がない(しかし政治家は一応気配りだけはして、政策決定の場に倫理学者の席は設けている)。だから経済的理由が優先されて倫理が二の次にされるというのは、日本のような社会だと問題だと考える人が少数派ではないのだろうか。しかし高度に専門化され細分化された科学の御宣託に対して対抗弁論をすることができるとすれば、基本的な倫理観に基づいた批判でしかないだろう。そういうことがきちんとできるようにするためにも教育は欠かせないのであり、だいじなのはきちんとした批判をすることで国を「愛する」ようにすることだろう。国家に対する愛の形というのは私はそういうものだと思う。

吉田健一

2006-12-15 10:58:33 | 本:文学

 『ユリイカ10月号特集 吉田健一』を読む。もう2ヶ月前に買ったままになっていた。吉田健一のエッセイをいくつか収載(象徴、英国人について、英国の景色などなど。解説は富士川義之氏)し、彼についてのエッセイ集で構成されている。
 その中の一つである四方田犬彦氏のエッセイ(「乞食王子の余白に」)を興味深く読んだ。吉田健一を低回趣味のエッセイストと位置づけ、宰相の御曹司であった彼とやはり宰相の御曹司であったホレス・ウォルポールに対して吉田が示した間合いから彼独特の立ち位置を浮き彫りにしている。四方田のいうところの「猫かぶりの吉田」が沖縄に対して述べた短いコメントは、彼が内に秘めていた政治および父親に対する感情(精神分析的に敢えてコンプレックスといってもいい)の片鱗を見せてくれる。エッセイを読む楽しみや発見というものは、こういうところにもあるのだなと改めて感じた。
 このエッセイの中で、四方田氏は吉田健一の文学を「これはもう旧体制に記された文学なのだという諦念に似た気持ちを、最近は抱くようになた。旧世代ではない。旧体制(アンシャン・レジーム)である」と述べている。そしてそれに続けてその時代をこう位置づける。

 ひとたび分節化されたシニフィアンがシニフィエと強い靱帯で結びつくように、食べ物の記憶がある場所の記憶と分かつことなく結合していた時代。同年齢の文学者たちが、文化商品としてみずからを市場に差し出すというさもしい発想もないままに、曖昧なままに共同体を築き上げ、その交友自体が文学の主題となりえた時代。酒を呑むことの快楽が、肝臓や数値やバアの閉店時間とは無関係に成り立ちえた時代。そして書物を読むということが、情報の管理や更新とは無関係に、それだけで完結していた時代・・・。

最後の酒と書物に関するコメントを読んだとき、ああ確かに彼は旧体制の中でものを書いていたのだと実感した。そして現在の高度情報化時代に生きるやるせなさを思いため息をついてしまった。「高度」というのは、いまこうして読んで私が抱くその時代に対しての郷愁に似た感情(「似た」というのは私は彼の同時代人ではないから)すらも、一つの情報となり、市場では欲望と解釈されそれを満たす商品が出現するからである。吉田の食のエッセイでは確かに食べ物と場所が確かに分かちがたく結びついている。例えばこの雑誌に収載されている「飛島の貝」の話では、この貝のうまさに触れながら、「大体旨いものだから皆で食べなければならないといふ法はないのである。それと栄養の問題は別でその上に各自の好みがあり、旨いからと言つて早速それを全国の名店街で売り出す必要は少しもないといふことがこの頃は忘れられ掛けていゐる」と述べる。場所と食物の密接な関係について指摘することは簡単なことだが、こういうコメントがまだ書けた時代であったのだということを思うと、確かにこれは「旧体制」であったのだという実感が強い。
 現在旨いものがあれば、たちどころにインターネットに情報が載り、瞬時にして知られるとことろなる。全国の名店街で売りに出される前に、私たちはそれらの情報を食っている。名産品を口にして産地の情報が広まり、人が押しかけるというありがちな構図は今や昔のものである。今や私たちは名産品の「情報」をまず食い、産地に行くことなくそれを取り寄せ賞味して、その情報が正しかったかどうかを検証しているのである。昭和三十年代が現在ある憧れの眼差しで見られるという状況は、中高年のありがちなノスタルジアだけではなく、そもそも「高度情報化」が不可能な境域が切望されているという時代の無意識を反映した顕れではないだろうか。まったく手がとどかない過去ではなく、捜せばもしかするとあるのかもしれないそんな環境が求められているからではないのか。
 吉田健一は酒はのんびりとひなたぼっこをしている犬のような飲み方を是とし、「頭でっかちな飲み方」を退けたが、これは酒に限らない。旨いものを口にして、「ひなたぼっこをしている犬」のようになることは、今の時代かなり意識をして、ある意志をもってしなければできない行為となっているのではないだろうか。
 


身体の哲学

2006-12-13 22:26:08 | 本:哲学

 『身体の哲学』(野間俊一著、講談社選書メチエ)を読む。
 拒食症・過食症、解離症、境界例といったこの時代の精神疾患を取り上げ、それらを身体の関係から考察していく論考である。通例の精神分析理論のいずれかに寄りかかることなく、疾患それ自体にあくまでも忠実に、病める患者に即して肉薄していこうとするいい意味で野心的な著作である。
 私たちが生きて行く上で体験が成り立つ安定した地盤を提供してくれるものすなわちエリクソンのいう基本的信頼感を保証してくれるものがハイマートHeimatと名づけられる。homeと同根のことばであり、わが家のような安心できる場所であるが、それはフロイトの指摘のように同時に「不気味なもの」を底に宿してもいる。それは私たちを絶え間なく魅きつけるものでありつつ、そこへ視線を向けるとめまいを起こさせるものであり、そこへ近づこうとすれば逸れていくものである。この本には書かれていないがいわば涅槃のようなものといったらよいだろうか。
 自他未分の胎児の状態からこの世界へと投げ出され、Heimatの状態から永遠に分離されてしまった私たちは自分の身体を通して、出会う対象を通してそこを求め続ける。その対象と私との関係を考える際に、私というものがまず成り立って、そこから世界が成立するとみる(フロイト)か、まず関係がありそこから自己と対象が分化するとみる(バリント)かによって立場は分かれるが、この関係を著者はメルロ・ポンティを援用しキアスムと名づける。能動と受動がまさに絡み合って交差(キアスム)している関係の病理が、まさに拒食症であり、解離症であり、境界例である。拒食症は自己の属性をキアスム構造の対象として選び、ひたすら制御しようとする。境界例は他者をキアスム構造の対象として選ぶ。解離症ではキアスム構造の対象を求めず、私の存在の問いをそのまま引き受けてしまう。
 ラカン的にいえば、それは想像界imaginaryの病理である。この想像的自己を i とすると拒食症は自己を対象とするからi×i(xはキアスムのχ)、他者を対象とする境界例はi×-i、対象のない解離症ではi×と表記することができようか。


記憶と情動の脳科学

2006-12-11 22:03:41 | 本:自然科学

 『記憶と情動の脳科学』(ジェームズ・L・マッガウ著、大石高生訳・久保田競監訳、講談社ブルーバックス)を読む。記憶のメカニズムに関する一般向け解説書である。通読して興味深かった点がいくつかあった。
 脳の海馬および尾状核が記憶に重要な役割を担っていることが知られているが、ラットを使った迷路の研究で、訓練の回数の多寡によって学習に関係する脳内の部位が違うということ。T字迷路で餌の位置を覚えるにあたり、ラットは訓練によって餌を見つけるために迷路でどのような反応をとるかということと、どこに行くべきかという二つのことを学習するが、訓練回数が少ない場合は場所学習が主で海馬が関係し訓練回数が増えると反応学習が優位になり尾状核が関係するという。訓練を重ねると、体が自動的に「反応」する(この場合は右折あるいは左折を自然に行うようになる)ようになるのだ。いわば体で覚えるという状態になる。物事を学習していき、熟練度が上がり習慣となる過程で脳の働く部位が変わってくるというのは興味深いことだ。
 記憶は強い情動を伴うと鮮明に記憶されることについて、無関係な単語の記憶テストでも「キス」や「嘔吐」など情動反応を引き起こしやすい単語はよく記憶に残るということが述べられている。これには扁桃体からのノルアドレナリンが記憶増強に関係しているのだが、興味深いのはそうした情動を伴わせることが記憶に濃淡をつけさせ「活き活き」とした感じを与えてくれるのではないかということだ。同じ言葉でも道徳的に強い意味を持つ言葉とそうでない言葉があるが、そうしたものはどれくらい情動を引き起こすのかということに関係しているのかもしれない。そしてそうしたことが事実と価値という道徳的問題と繋がっているのではないだろうか。
 最後の章では、記憶が異常にいい人の例が書かれている。架空の例としてボルヘスの短編小説『記憶の人フネス』が挙げられているのだが、ボルヘスのコメントは示唆にとむ。

 実際にフネスはすべての森のすべての樹のすべての葉だけでなく、自分がそれをみたり想像したときのことをすべて記憶していた。(フネスは)一般的な思考がほとんどできなかったことを忘れないでおこう。(中略)私は、フネスが考えることができなかったのではないかと思う。考えることは違いを無視し、一般化し、抽象化することだ。フネスノ肥沃な世界には詳細だけがあった・・・・。

記憶と抽象能力というのは、互いに相反しあいながらバランスをとっているのかもしれない。不可識別者同一の原理というのがあったが、異常に記憶がよいと些細なことまで差異が目につき同一物という認識が妨げられるかもしれない。極端な場合このりんごとあのりんごの同一性を見出せなければ数学的思考が不可能になる可能性もあるかもしれない。どちらか一方が極端に発達していて、もう一方が劣っている個体は、生存競争において不利なのだろう。記憶ができなければそもそも体験からは空虚となるし、抽象能力がなければ体験は盲目的であろう。通常の記憶容量には限界があるから、情動によって記憶が色づけされることは、ほんとうに生存に大事なエピソードを記憶しておくためには欠かせないだろう。学習にとって大切なのはあらゆることを詰め込むことではなく、共感や共鳴を伴った記憶をどれくらい作れるかということだろう。年齢とともに記憶容量は減るが、経験を積むことにより記憶を起伏に富んだものに創り上げる力は増えるに違いない。 
 


論理学入門

2006-12-10 22:04:28 | 本:哲学

 『論理学入門』(三浦俊彦著、NHKブックス)を読む。第1部と第2部から構成されており、前半は論理学の復習で、後半は「人間原理の論理学」と題されており、後半が面白い。同じ著者の『ゼロからの論証』でも人間原理のことが述べられていたが、こちらの方の解説のほうが分かりやすい。
 人間原理(「私たちが観測すると期待できるものは、観測者としての私たちが存在するのに必要な諸条件によって制限されなければならない」)が大きな主題となる。
 第20節の「因果と認識」では、原因を推論するにあたり私たちが陥りやすい誤りを指摘している。原因Qと結果Pをめぐって、P⊃QまたはBa(P⊃Q)のとき、Ba(Q)⊃Ba(P)がしばしば成り立つ(Baは「人物aが・・・と信ずる(認識する)」という演算子)。結果から原因を推測する逆問題において、Ba(Q)⊃Ba(P)のBaを無視または看過してQ⊃Pとする間違いが人間原理では頻繁に起こることを著者は指摘している。
 独我論は、任意の命題について「Pであると主張できるためには、私がいなければならない」という自明の語用論的事実から「「Pであるためには、私がいなければならない」と主張できる」という誤った命題となっていること、大森荘三の過去想起説は、「過去にPであると信じることができるためには、現在の想起行為が必要である」という自明の真から、「「過去にPであるためには、現在の想起行為が必要である」と信じることができる」という怪しげな説となっていることを指摘している。いずれも語用論的前提を意味論的な必要条件へと読み換えてしまっている(Ba(P)⊃QからBa(P⊃Q))誤りであると説く。大森の過去想起説を初めて読んだときに何となく狐につままれたような釈然としないけれども説得されてしまったような感じを受けていたが、この部分の解説は目から鱗が落ちる指摘であった。
 最終節「「私」の論理」では、語用論における問いを発するものの存在が、その答えと不可分であることをふまえ、永井均がいくどとなく説いている<私>の神秘というのは世界が客観的にこうであるという偶然性に還元される問題であり、なんら神秘ではないと断じている。
 これは論理的には確かに正しい。しかし私というものが生成すること、あることが過去になっていくということとなるとこれはすでに成立した私や過去とは異なることについての語りであるから別の語り方が必要なのではないだろうか。永井のいう神秘は<私>があるということよりむしろ<私>という存在の生成という点にあるのだと私は思う。


西田幾多郎の生命哲学

2006-12-08 23:58:18 | 本:哲学

 『西田幾多郎の生命哲学』(檜垣立哉著、講談社現代新書)を読む。先日読んだNHKブックスの『西田幾多郎』の巻末の読書案内に挙げてあった中から本書を選んで読んでみた。
 西田幾多郎の哲学を「生の哲学」という観点から捉え、ベルグソン、ドゥルーズの生成の哲学への漸近線を引いていくというものである。個物がその強度を内から外へと拡張しつつ動いていく、そのまさに動きを捉えようと西田が苦闘する姿を本書は伝えてくれる。この個物は静止した状態で外的な視点から捉えられるものではなく、常に世界に作用しながら世界を作り上げていく。強度を内側からの視線で捉えていくこと、いや視線という言い方は適当ではないだろう。産出-ポイエーシスとして捉えること。動くことがすなわち見ることであり、産出することである状態とでもいえばいいのだろうか。
 本書の最後のところで、「課題」としての世界ということが書かれている。生命が与えられた問題をその無限の潜勢力で解くことが、進化していく生命の姿であり、しかもその解答はひととおりではないこと、解答は解かれ終わることはなく解かれ続けるものだという記述は、非常に示唆に富んでいると感じた。光に対する眼は課題に対する一つの答えであるが、それは決して定まった目的ではない。


集中講義!日本の現代思想

2006-12-06 21:46:14 | 本:社会

 『集中講義!日本の現代思想』(仲正昌樹著、NHKブックス)を読む。
 1980年代に「流行した」ポスト構造主義の思想を振り返り、それまで主流だったマルクス思想と対比しつつ現代思想の見取り図を示してくれる。その序は「かつて、『現代思想』というものがあった」という題で始まる。ここで著者が指す「現代思想」は、いわゆる哲学的思想とは異なり、「体系」を志向しない、自ら信用すること、されることを回避される思想であるというのが特徴だと著者は指摘する。脱アカデミズム的、脱領域的、脱近代的な「現代思想」の特性は、90年代になって社会に余裕がなくなってきて軸足の定まらなさが世間に受け容れられなくなって、その支持を失ってきたというのが著者の診断である。
 通読してみて感じるのは、社会や時代から超越しているかに見える思想も実際はその時代や社会の色彩を反映しているということだ。特にバブル期とその後では明らかにその陰翳が異なる。時代が浮かれているときには、思想も真摯さというものを失うのだろうか。しかし近年グルーバリゼーションが進むにつれて、ますます国の独自性が危機に曝されているという意識が蔓延し、それに対する場違いな反応が出てきていることや、競争(狂騒?)社会により余裕がなくなってきている現在の状況からすると、まだそんなのどかな風景もあったのだという奇妙な感覚にとらわれてしまう。


知恵の悲しみの時代

2006-12-04 22:14:10 | 本:文学

 『知恵の悲しみの時代』(長田弘著、みすず書房刊)を読む。プロローグは、9.11テロの起きた2001年から始まる。次いで日本の近代的飛躍の段階となった日清戦争の起きた1894年から1945年の終戦の年までをその時代背景を教えてくれる書物とともに一歩一歩進んでいくエッセーである。引用されている文章や詩句がいちいち鮮明であり、読み進めていくにつれてまるでジグソーパズルのピースを一つ一つしっかりとはめ込んで全体像(すなわち本書のテーマ)が浮かび上がるような経験をすることができる。
そのピースのいくつかを挙げる。
『リンカーン演説集』でのthe peopleという言葉の概念をめぐって、それを日本語にどう訳すかというエッセーでは

「the people」という普遍を表す主語が、日本語にすると立場を示す主語、もしくは国籍をもつ主語になってしまう難しさと危うさ。
「人びとを、人びとが、人びとのために」

という一節がひどく気になった。

わたしたちの法の現在をささえるのは、法によって権力がしばる法治国家という国のあり方でなく、法によって権力をしばる、「法というルール(rule of law)」をもつ国のあり方です。
「理解せよ、忘れるな」

 法という存在は、それを解釈されることによって初めてその時代で生きたものになる。したがって最も畏れるべきは、その法自体よりもそれを解釈する人であり、ある解釈を許容する時代ではないだろうかとそのエッセーを読んで思う。

 一人の兵士の残した妻への手紙から著者が知ったラヴェッソンという人の『習慣論』という本のことを読んでみる。彼はその本を読むことができなかった。彼が妻に遺した手紙を読むと、戦争という文化を否定する野蛮の中での日々の読書という行為が祈りのように思えてくる。

読書は、読書という習慣です。「習慣は、単に状態であるのみならず、素質であり能力である」。戦争に読書の習慣をうばわれた或る読書家の短い人生を思いださせるのは、彼の読むことのできなかった『習慣論』にある、その言葉です。
「或る読書家の短い人生」

 「戦争に必要なもの」というエッセーでは、一見戦争とは無関係に思える樟脳という資源が語られる。戦争という国家的な規模の活動の中で樟脳という小さなものが、次のような言葉の中で強いリアリティをもって迫ってくる。

戦争ほど、声高に大義を語りつづけて、後になればまっさきに明らかな問題を、そのときはまっさきに問題の外に遠ざけてしまうものはありません。やみくもな破局に至ったこの国の昭和の戦争を最後までなやました問題も、本当はまっさきに明らかだった、しかし最後まであえて問題の外におかれた問題だったにちがいありません。樟脳の問題もたぶんその一つです。

エピローグでは静かなしかしずっしりと重たい次の言葉が記される。

何をなすべきかを語る言葉は、果敢な言葉。しばしば戦端をひらいてきた言葉です。何をなすべきでないかを語る言葉は、留保の言葉。戦争の終わりにつねにのこされてきた言葉です。
 一九四五(昭和二十)年、真夏の青空の下の敗戦で終わった、それまでの戦争を基とした時代の後に、この国はじぶんから戦争をしないことを選んで、留保する自由を選びました。しかし、忘れないようにしたいのは、それからずっと、みずから留保する自由を選びつづけてきた最初の理由が、いまに至るまで、この国の自立の最後の根拠となってきたし、なっている、という事実です。

 

 


『西田幾多郎 <絶対無とは何か> 』

2006-12-03 23:58:21 | 本:哲学

 『西田幾多郎 <絶対無とは何か> 』(永井均著、NHK出版刊)を読む。『マインド・クエスト』を読んでから、「私」の経験の成立について考えていたところでこの本を読んだ。川端康成の『雪国』の冒頭の文章を例にとり、その経験の主体を考えることから本書は始まる。トンネルを抜けたところに広がる雪国を経験するのは、西田幾多郎の用語を用いれば、主客未分の「純粋経験」であったと著者は指摘する。この独特の哲学用語は実は日本語を使っている私たちにとっては、日常的な事態であり、英語的理解のしかたとは異なっている。前著に引き続き本書を手に取ったのは、偶然であるが西田哲学からニューラルネットワークを考えてみるのも面白いと感じた。
 「私」が成立する以前における対象(「対象」という概念でとらえられる以前の対象)との出会い、というより衝突が起きる「場所」こそが私なのである。デカルトは、意識に上る様々なことをまるで夾雑物である砂利をふるい落とすようにしながら我という意識主体である金を取り出すのであるが、西田のいう我はそれらを篩いつつある水のようなものといった感じであろうか。端的に「無」の場所である。アリストテレスが個物を主語になり述語にならないものとして位置づけ、さまざまな一般的性質(属性)を付け加えることで述語の枠をどんどん狭めていき、このものとしての個物にいたる方向で主語たる実体を規定していくのに対して、西田哲学では逆にどこまでも述語となって主語とならないものという方向で考えた。

概念は外から質を規定するのではなく、無限個の概念を内に含んだ非概念的な質が、その内側からおのれを限定してくわけである。すなわち「分節化されていない音声」が一つの言語表現になりうるのは、外部から「一定の言語ゲーム」があてがわれることによってではなく、分節化さrていない音声を自ずと分節化させていく力と構造が、l経験それ自体の内に宿っていることによってなのである。

第二章の場所についての論述の結語であるが、西田のアプローチとウィトゲンシュタインのアプローチとは同じ核を目指して反対方向から切り込んでいく営みのようの思われる。


マインド・クエスト-2

2006-12-02 18:55:08 | 本:哲学

 『マインド・クエスト』の第2部を読む。後半は、意識の神経学的基盤についての仮説を解説した部分で意識の成立にとって欠かせない時間意識がどのようにして生じているかを述べている。フッサール現象学における「把持」、「現前」、「予持」が、回帰的ニューラルネットワークにより説明できることを、fMRIによる実証的データも含めて解説する。「現前」が常に過去によって汚染されているとして、デリダはフッサールの現前を批判したが、回帰的ニューラルネットワークの構造に時間意識の生物学的基盤を求めることができるとするならば、両者はともに正しかったと言えるだろう。
 しかし意識の流れを再構成できるとして、そこからどのうようにして「私」が生じてくるのかが問題である。ネットワークによる説明であれば、「私」はいなくても「意識」は構成できるような気がする。眼前の対象(蛍の光でもなんでもいいが)を見ることで、「対象が見える」という時間的な経験は成立するにしても、「私」の経験はどうやって生じるのか。問い方を逆にすれば、「私」ということは成立しなくても「対象が見える」という経験を経験することは可能なのだろうか。主語のない経験というのは、英語では想像するのが難しいかもしれないが、日本語では比較的容易である。端的に対象を経験するということがより根源的なのかどうかはわからないが、「私」なしに成立してもよさそうな気はする。これこそがミステリーではないだろうか。

 本書の構成としては、先に概説的な導入部を持ってくるなり、物語と交互に進めるなりして工夫したほうが読みやすいのではないだろうか。ミステリーはあまり読まないので、ミステリーファンがこの物語をどう評価するかを聞いてみたい。本書の帯には哲学者の鷲田清一氏の推薦の辞(たいてい信頼できないですね)が書かれているが、「哲学にはこんなスリリングな語り口があったのだ」と驚いて見せているが、もっとスリリングな語り口の哲学書はたくさんあると思う。ほんとにそう思ったのかなぁ。