烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

吉田健一

2006-12-15 10:58:33 | 本:文学

 『ユリイカ10月号特集 吉田健一』を読む。もう2ヶ月前に買ったままになっていた。吉田健一のエッセイをいくつか収載(象徴、英国人について、英国の景色などなど。解説は富士川義之氏)し、彼についてのエッセイ集で構成されている。
 その中の一つである四方田犬彦氏のエッセイ(「乞食王子の余白に」)を興味深く読んだ。吉田健一を低回趣味のエッセイストと位置づけ、宰相の御曹司であった彼とやはり宰相の御曹司であったホレス・ウォルポールに対して吉田が示した間合いから彼独特の立ち位置を浮き彫りにしている。四方田のいうところの「猫かぶりの吉田」が沖縄に対して述べた短いコメントは、彼が内に秘めていた政治および父親に対する感情(精神分析的に敢えてコンプレックスといってもいい)の片鱗を見せてくれる。エッセイを読む楽しみや発見というものは、こういうところにもあるのだなと改めて感じた。
 このエッセイの中で、四方田氏は吉田健一の文学を「これはもう旧体制に記された文学なのだという諦念に似た気持ちを、最近は抱くようになた。旧世代ではない。旧体制(アンシャン・レジーム)である」と述べている。そしてそれに続けてその時代をこう位置づける。

 ひとたび分節化されたシニフィアンがシニフィエと強い靱帯で結びつくように、食べ物の記憶がある場所の記憶と分かつことなく結合していた時代。同年齢の文学者たちが、文化商品としてみずからを市場に差し出すというさもしい発想もないままに、曖昧なままに共同体を築き上げ、その交友自体が文学の主題となりえた時代。酒を呑むことの快楽が、肝臓や数値やバアの閉店時間とは無関係に成り立ちえた時代。そして書物を読むということが、情報の管理や更新とは無関係に、それだけで完結していた時代・・・。

最後の酒と書物に関するコメントを読んだとき、ああ確かに彼は旧体制の中でものを書いていたのだと実感した。そして現在の高度情報化時代に生きるやるせなさを思いため息をついてしまった。「高度」というのは、いまこうして読んで私が抱くその時代に対しての郷愁に似た感情(「似た」というのは私は彼の同時代人ではないから)すらも、一つの情報となり、市場では欲望と解釈されそれを満たす商品が出現するからである。吉田の食のエッセイでは確かに食べ物と場所が確かに分かちがたく結びついている。例えばこの雑誌に収載されている「飛島の貝」の話では、この貝のうまさに触れながら、「大体旨いものだから皆で食べなければならないといふ法はないのである。それと栄養の問題は別でその上に各自の好みがあり、旨いからと言つて早速それを全国の名店街で売り出す必要は少しもないといふことがこの頃は忘れられ掛けていゐる」と述べる。場所と食物の密接な関係について指摘することは簡単なことだが、こういうコメントがまだ書けた時代であったのだということを思うと、確かにこれは「旧体制」であったのだという実感が強い。
 現在旨いものがあれば、たちどころにインターネットに情報が載り、瞬時にして知られるとことろなる。全国の名店街で売りに出される前に、私たちはそれらの情報を食っている。名産品を口にして産地の情報が広まり、人が押しかけるというありがちな構図は今や昔のものである。今や私たちは名産品の「情報」をまず食い、産地に行くことなくそれを取り寄せ賞味して、その情報が正しかったかどうかを検証しているのである。昭和三十年代が現在ある憧れの眼差しで見られるという状況は、中高年のありがちなノスタルジアだけではなく、そもそも「高度情報化」が不可能な境域が切望されているという時代の無意識を反映した顕れではないだろうか。まったく手がとどかない過去ではなく、捜せばもしかするとあるのかもしれないそんな環境が求められているからではないのか。
 吉田健一は酒はのんびりとひなたぼっこをしている犬のような飲み方を是とし、「頭でっかちな飲み方」を退けたが、これは酒に限らない。旨いものを口にして、「ひなたぼっこをしている犬」のようになることは、今の時代かなり意識をして、ある意志をもってしなければできない行為となっているのではないだろうか。