烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

記憶と情動の脳科学

2006-12-11 22:03:41 | 本:自然科学

 『記憶と情動の脳科学』(ジェームズ・L・マッガウ著、大石高生訳・久保田競監訳、講談社ブルーバックス)を読む。記憶のメカニズムに関する一般向け解説書である。通読して興味深かった点がいくつかあった。
 脳の海馬および尾状核が記憶に重要な役割を担っていることが知られているが、ラットを使った迷路の研究で、訓練の回数の多寡によって学習に関係する脳内の部位が違うということ。T字迷路で餌の位置を覚えるにあたり、ラットは訓練によって餌を見つけるために迷路でどのような反応をとるかということと、どこに行くべきかという二つのことを学習するが、訓練回数が少ない場合は場所学習が主で海馬が関係し訓練回数が増えると反応学習が優位になり尾状核が関係するという。訓練を重ねると、体が自動的に「反応」する(この場合は右折あるいは左折を自然に行うようになる)ようになるのだ。いわば体で覚えるという状態になる。物事を学習していき、熟練度が上がり習慣となる過程で脳の働く部位が変わってくるというのは興味深いことだ。
 記憶は強い情動を伴うと鮮明に記憶されることについて、無関係な単語の記憶テストでも「キス」や「嘔吐」など情動反応を引き起こしやすい単語はよく記憶に残るということが述べられている。これには扁桃体からのノルアドレナリンが記憶増強に関係しているのだが、興味深いのはそうした情動を伴わせることが記憶に濃淡をつけさせ「活き活き」とした感じを与えてくれるのではないかということだ。同じ言葉でも道徳的に強い意味を持つ言葉とそうでない言葉があるが、そうしたものはどれくらい情動を引き起こすのかということに関係しているのかもしれない。そしてそうしたことが事実と価値という道徳的問題と繋がっているのではないだろうか。
 最後の章では、記憶が異常にいい人の例が書かれている。架空の例としてボルヘスの短編小説『記憶の人フネス』が挙げられているのだが、ボルヘスのコメントは示唆にとむ。

 実際にフネスはすべての森のすべての樹のすべての葉だけでなく、自分がそれをみたり想像したときのことをすべて記憶していた。(フネスは)一般的な思考がほとんどできなかったことを忘れないでおこう。(中略)私は、フネスが考えることができなかったのではないかと思う。考えることは違いを無視し、一般化し、抽象化することだ。フネスノ肥沃な世界には詳細だけがあった・・・・。

記憶と抽象能力というのは、互いに相反しあいながらバランスをとっているのかもしれない。不可識別者同一の原理というのがあったが、異常に記憶がよいと些細なことまで差異が目につき同一物という認識が妨げられるかもしれない。極端な場合このりんごとあのりんごの同一性を見出せなければ数学的思考が不可能になる可能性もあるかもしれない。どちらか一方が極端に発達していて、もう一方が劣っている個体は、生存競争において不利なのだろう。記憶ができなければそもそも体験からは空虚となるし、抽象能力がなければ体験は盲目的であろう。通常の記憶容量には限界があるから、情動によって記憶が色づけされることは、ほんとうに生存に大事なエピソードを記憶しておくためには欠かせないだろう。学習にとって大切なのはあらゆることを詰め込むことではなく、共感や共鳴を伴った記憶をどれくらい作れるかということだろう。年齢とともに記憶容量は減るが、経験を積むことにより記憶を起伏に富んだものに創り上げる力は増えるに違いない。